マイペースで行こう

キリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、19年目に入りました。

機会を生かすように

2019-08-05 16:54:00 | 教会の風景
暑い日が続いています。
この夏の間、東村山聖書教会には特別行事の予定はなく、通常のスケジュールで集会や運営が進められています。

回数や時間は限られているものの、一つ一つの集まる機会を生かすようにと心がけています。
開拓期の小規模な教会に合ったペースなのかもしれません。
定期集会、個別の相談や訪問の機会を大切にして、牧会の務めに尽くしています。




さて、長くなりますが、7月分の説教のあらすじを掲載しておきます。(旧約聖書からの講解説教の2回分です)

2019年7月 Ⅰサムエル記4-5章
『主の契約の箱をわれわれのところに』:Ⅰサムエル記4:1-11
 『主に拠り頼む信仰』とはどういうものだろうか。誤解は悲しい結果を引き起こす。イスラエルの人々にサムエルが預言者だと認知された頃、ペリシテ人の勢力は北上し、イスラエルの所有する地域に侵攻した(4:1)。イスラエルは序盤で敗北し、建て直しを図る作戦会議を開いた。長老たちは、「『主の契約の箱をわれわれのところに』持って来よう」と提案した(4:3)。その作戦を実行すると、イスラエル軍の士気は大いに上がり、ペリシテ人は動揺した(4:5-7)。作戦の効果は抜群に見えたが、イスラエルは大敗した(‪3:10‬)。神の箱はペリシテ人の手に渡り、同行していた祭司ホフニとピネハスも戦死した(‪3:11‬)。おまけに、敗戦の知らせを聞いたエリの転落死、ピネハスに生まれた息子「イ・カボデ」の名も、イスラエルの深い悲しみと不名誉を伝える(‪3:18-22‬)。そもそも、長老たちの作戦は信仰だったのだろうか。「持って来よう」という発言には、自分たちの思い通りに神を動かせるかのような誤解が垣間見える。もし本当に主を恐れているならば、初めの敗戦で主のことばを求めていたはずだ。当時、サムエルが預言者として立てられたと知れ渡っていたのなら(4:1)、なおさらである。主に信頼すると言いながら自分の思いで動かそうとしていないか、主のことばに基づく信仰であるか、よく吟味したい。(2019.7.14)


『神の箱を取り、ダゴンの傍に置いた』:Ⅰサムエル記5:1-12
 前回に続き、神を信じる信仰について考えたい。聖書は唯一至高の神を教えている。しかし、私たち人間の神理解はいかにずれていることか。今回はペリシテ人の失敗から学ぶ。戦争に勝ったペリシテ人は、当時の習慣にならい、イスラエルの神の箱を自分たちの国の神殿に持ち帰った。(5:1,2)「ペリシテ人は神の箱を奪って、エベン・エゼルからアシュドデまで運んで来た。それからペリシテ人は神の箱を取り、ダゴンの神殿に運んで来て、ダゴンの傍らに置いた。」文脈により翻訳のことばは異なるものの、「奪って」と「取り」、そして(4:3)「持って来よう」にも同じことばが使われている。ペリシテ人が『神の箱を取り、ダゴンの傍に置いた』のは、ダゴンの優位性を示そうとしたのだろう。それに対して、主は二つの方法でご自身こそ真の神だと示す。二日に渡り、神殿内のダゴンの像が倒れ、二日目は像が切り離されていた(5:3-5)。もう一つは腫れ物となる病気だ(5:6-9)。神の箱を移す先々の町でこの病気が発生し、住民を不安に陥れた。ペリシテ人の領主たちはたまりかねて、神の箱を戻す計画を立てた(‪5:11‬)。人間の宗教心や神理解そのものは真の神から遠く離れている。私たちは聖書によって神を知る。信仰は神からの賜物である。(2019.7.21)


最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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