マイペースで行こう

キリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、19年目に入りました。

再開

2017-08-29 19:56:43 | 神学校・講座
いよいよ前期再開です。
昨日は、恒例の家族寮会による夕涼み会。
そして、今日は大掃除。

今日の大掃除で、私は校内の樹木の刈込みを担当しました。
休み前にも作業しましたが、2ヶ月も経てば、枝は伸びるものです。
道路側の電線にかからないようにということで、大きな脚立に上り、高所での作業。

今日は炎天下というほどでもなかったのですが、それでもかなり汗をかきました。
午前中の作業だけで、もうヘロヘロ。
若い後輩たちに気遣われました(笑)。

さぁ、明日からは通常授業です。


作業の合間、近くに飛んできたトンボ。
結構近づいても逃げませんでした。

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種まきと収穫

2017-08-28 22:47:30 | 教会の風景
昨日も主日礼拝に始まり、充実した一日でした。
礼拝には、名古屋の友人Iさんが奥様と一緒に訪ねてくれました。
Iさんとはかつて牧会塾を通じて知り合い、それ以来の親交があります。
神学校や牧会塾を通じて、良き信仰の友との出会いが与えられていることを感謝しています。

礼拝後には、都合のつく方々とテーブルを囲んで楽しい昼食。
その後、教会員有志の話し合い、役員会と続きました。
開拓教会として、一歩一歩前に進んでいます。
集っている方々ひとりひとりの存在や才能が、程よく発揮され、活かされています。

ところで、「私は牧師として一体どれほどのことができているのか...」と思うこともしばしばですが、主の深い憐れみと多くの方々の祈りと協力のもとに宣教の働きに携わっています。

昨日の説教は、『改革の先駆者たち』と題して、宗教改革の先駆者となった人々のことを取り上げました。
ウィクリフ、フス、サヴォナローラなど、ルターやカルヴァンに先立って、忠実に神に仕えた信仰者たちの働きと生涯について概観してお話ししました。
彼らの生涯と働きは志半ばであったかのようにも見えますが...
実は各々の役目を果たしていました。

主イエスのことばにも、こうあります。

イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。… こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る』ということわざは、ほんとうなのです。わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」(ヨハネの福音書4章34,37,38節)





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まもなく

2017-08-23 23:41:33 | 神学校・講座



夏期調整期間がまもなく終わりです。
毎年のことですが...授業再開を前に課題の遅れを挽回中。

暑さが戻り、寮の私の部屋では集中もできず。
卒論がはかどらないのは困りますので、昨日今日は図書館へ。
9月上旬に提出を控えている第2章の草稿を綴っておりました。

ただし、今夜は祈祷会でしたので、作業は夕方までで一区切り。
担当教官のT先生に助言を頂くためにメール連絡も。

まだ卒論完成のゴールが見えてきませんが、とにかく前に一歩一歩進んでいるという感覚です。
この夏はもっぱら、卒論シフトと教会奉仕シフトとを調節しながら過ごし、来週から通常の授業時間シフトも加わります。
うまく切替をこなせるか...

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新しい葉

2017-08-21 20:54:20 | 教会の風景


しばらく前に、Kさんが教会の礼拝時の講壇用にフラワーアレンジメントを用意してくださいました。
そのときのアイビーを瓶に挿しておいたら、根が出て、新しい葉も出てきて、成長しています。
今は、寮の窓際に置いて、育てています。


同じく窓際に置いている、鉢植えのワイルドストロベリーも元気です。
こちらは、教会開拓の新たな出発にとN君に頂いたものですから、もう1年半以上経っていることになります。
たぶん地植えにしたり、器を大きくしたら広がっていくのでしょうが、今はこの大きさに収まっているくらいがちょうどいいです。



ちょっとしたグリーンが部屋にあることで和みます。



さて最後に、今月の礼拝の講解説教(旧約聖書より)のあらすじを掲載しておきます。

2017年8月 士師記6章
今年も終戦記念日を迎える。平和を祈り、信仰について考える時としたい。聖書は、(6:1a)「イスラエル人はまた、主の目の前に悪を行なった」と伝える。40年の穏やかな時代(5:31)を経て、再び主を捨ててカナンの神々を礼拝するようになっていた。主の民の信仰の変質に人間の罪深さの現れを見る。一方、主は懲らしめを与えた。(6:1b)「そこで、主は7年の間、彼らを『ミデヤン人の手』に渡された。」と表現されるように、イスラエルはミデヤン人の勢力の前になす術なく、何もかも奪われ、みるみる弱体化していった(6:2-6a)。私たちはこの記事に何を学ぶべきか。神の非情さだろうか、いや、苦境に追い込まれてようやく(6:6b)「主に叫び求めた」という民の鈍さや愚かさであろう。私たちの信仰を変質させている有形無形の偶像を捨てて、主を慕い求めよう。
 伝道者の召命について考える。主はイスラエルを救うため、ギデオンに御使いを遣わした。しかし、彼は(6:12)「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」という呼びかけに抵抗を感じた。彼の心のひっかかりは、(6:13)「ああ、主よ」という嘆き、「なぜ…」「どこに…」という問いに現れている。神を知らないわけではないのに、悪夢のような現実をシビアに受けとめるあまり、彼の心に主の召命のことばは響かないのか。主は彼の問いに答える代わりに、今の彼の力で行動を起こして民を救うように命じ、『わたしがあなたを遣わす』と語る(6:14)。人脈も実績もないとのギデオンの発言(6:15)には、「わたしはあなたといっしょにいる」(6:16a)と語る。神は人を召し、遣わす。私たちは、私たち自身と教会を取り巻くこの時代の現実に直面している。しかし、それでもなお、神の召命を受けて立ち上がる人々があると信じ、祈り、また協力する。


最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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挿絵

2017-08-17 13:49:32 | 教会の風景
東村山聖書教会の祈祷会では、新約聖書を1章ずつ読み進めています。
このところは、ヨハネの黙示録です。
昨日の祈祷会は18章でした。

終末に下される神のさばきに関する場面。
「大バビロン」へのさばきの宣告が記されています。
聖書には、世俗権力の道徳的退廃と人の命さえ商品化してしまう「大バビロン」の危険な有様が明らかにされています。

ところで、前回の17章を読んだときに、「大バビロン」なる世俗権力の象徴が、ルターの時代にはローマ教皇に当てはめられていた、という話になりました。
それで昨日の祈祷会には、Kさんが1545年版のルター訳聖書を持ってきてくださいました。

その聖書のヨハネの黙示録のページに挿絵が配置されています。
獣に乗る「大淫婦」の頭には、教皇を示唆する被り物が描かれています。
当時のカトリック教会内部の乱れに問題意識を持っていたルター。
そのルターによる翻訳聖書ならではの、「らしさ」が挿絵にうかがわれます。



聖書は、権力と富とを振りかざして暴力化する勢力の末路を示しています。

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