月報用にまとめた礼拝説教のあらすじです。
しばらくUPしていないことに気付きました・・・
というか、一応、頭の片隅にはあったものの、こんなに溜まっていたのには自分もびっくり
私はどこまでマイペースなのだろう・・・
出エジプト記21:12-23:9 (2009年10月)
イスラエルの民が共同体として平和と秩序を保つための基準として与えられた規定。殺人事件や傷害事件の扱い。加害者の処罰は「必ず殺されなければならない」(21:12,14,15,16,17)という厳粛な命令(もちろん不慮の事故に関しては免責の規定もあるが)。罪の重さをあいまいにはしない神の「公正」なるご性質。罪に対する処罰の原則は、「目には目。歯には歯。手には手。足には足。」(24)というもの。ただし、イスラエルのその後の歴史では真意が曲解されてしまったようだ。被害者側の報復の権利を主張する根拠として考えられたようだ。主イエスの山上の説教(マタイ5:38-)ではこの規定を引き合いに出して、むしろ復讐心からの積極的な解放を教えている。そのことからすると、本来はこの規定に加害者側の家族や財産を不当な報復から守る歯止めの一面もあったと考えられる。これらの規定は底なしの報復の連鎖を防ぎ、民に対する神の慈しみとも調和する。
続く盗難事件に関する規定でも、神の「公正(2)」が表されている。「償わなければならない」(22:1,3,4,5,6,7,9,12,14)と被害者への相応の補償を命じている。神は、このようにして民の間に起こりうる諸問題への適切な対処のための基準を授けられた。
続く諸規定の中には、カナンの異教的習慣との対決(22:18-20)、共同体の中の社会的弱者の保護(22:21-27)、神との関係(22:29-31)、コミュニティにおける正義(23:1-9)などが定められている。公正なる神は、民の中の弱い立場にある者の「叫びを聞かれる神」であり、情け深い方でもある。神は不当な扱いにうめく者の叫びを聞き入れ、正しく裁きを下すことを示している。教会という神の共同体に属する私たちの互いの間にも、ふさわしい公正と憐みが保たれるように求めていくべきであろう。
出エジプト記23:10-24:18 (2009年11月)
神はイスラエルの規定に「休むこと、祝うこと」を加えることで、彼らの生活の安定を図られた。7年毎の耕作地の休耕は、土地の豊かさを保つために役立った。また、安息日の休息は、イスラエル人ばかりでなく、外国人の奴隷や家畜も休むことになり、共同体全体の生活の安定にもつながったであろう。また、年毎に3度の祭り(過越・初穂・収穫)が催されることで、神の恵みを心に留めて感謝する機会となった。こうした日常生活における休息とお祝いという定期的なサイクルは、実り豊かな人生の基盤として神が備えられたものである。
神がモーセに告げたシナイ契約の終わりに、「主の守りと導き」の約束がある。神はご自分の選んだ民への契約に対して誠実な態度を取る方である。神の臨在を象徴する使いを先導として備え、イスラエルを約束の地へと守り導く。しかも、約束の地を良い状態で受け継ぐようにとの細やかな配慮まで予告されている。私たちは、この使いにキリストを想起し、私たちに対する主の守りと導きへの信頼を深めることができる。
神は仲介者モーセを通して、いけにえの血により、イスラエルとの「契約の締結」に及んだ。契約の血ということばは、最後の晩餐における主イエスのことばに通じる。私たちは、主イエスの血による新しい契約により、神との関係に生きる者たちであることを覚えたい。神と私たちとを結ぶのは、ただ主イエスの十字架の御業である。
出エジプト記25:1-26:37 (2010年1月)
主は幕屋の建設を命じて、幕屋を『わたしは彼らの中に住む』という臨在の象徴となさった。その建設資材となる奉納物を受け取るようにとモーセに命じた。ここにどの時代の信仰者にも通じる3つの原則を見ることができる。①心から進んでささげる(25:2)ことは新約時代の教会で献金の心得に適用されている。 ②神の臨在の約束(25:8)は主イエスの受肉や聖霊の内住において実現している。 ③完全な服従(25:9)は、モーセと対比してさらに優れた完全な仲介者イエスにおいて実現し、私たちも主の足跡に従うようにと招かれている。
具体的な幕屋の設計に入る。まず、契約の箱(あかしの箱)について。箱の中身は「わたしが与えるさとし(あかし)」(25:16)、つまり契約のことば、十戒である。その契約の箱の上部に「贖いのふた」が置かれる。その語は、「覆う」とか「ふた」の意味であるが、「なだめる」とか「贖う」という意味も含む。箱の中身、さとしは神の義と聖を示すものであり、そのふたは神の憐みと贖いを示すものだと言えるだろう。その箱の置いてある場所が、モーセにとって『神との会見の場』となり、イスラエルに伝えるべきことばを神から授かる場となった。
幕屋は垂れ幕で仕切られ二つの部屋に分けられた。それが聖所と至聖所である。『垂れ幕で仕切られた至聖所』には神の臨在を示す契約の箱が置かれ、暗い状態に保たれた。それは暗やみや雲に包まれてご自身を示す神の臨在にふさわしい。そこには大祭司でさえ年に一度しか入ることが許されず、聖なる神と罪ある人の隔たりを思わせる。それゆえに、イエスの十字架の死の瞬間に神殿の幕が裂けた出来事は、罪の贖いが実現したことを象徴的に示していると言えるだろう。私たちはキリストの贖いのゆえに神に近づくことが奨励されている。(ヘブル10:19-25)
しばらくUPしていないことに気付きました・・・
というか、一応、頭の片隅にはあったものの、こんなに溜まっていたのには自分もびっくり
私はどこまでマイペースなのだろう・・・
出エジプト記21:12-23:9 (2009年10月)
イスラエルの民が共同体として平和と秩序を保つための基準として与えられた規定。殺人事件や傷害事件の扱い。加害者の処罰は「必ず殺されなければならない」(21:12,14,15,16,17)という厳粛な命令(もちろん不慮の事故に関しては免責の規定もあるが)。罪の重さをあいまいにはしない神の「公正」なるご性質。罪に対する処罰の原則は、「目には目。歯には歯。手には手。足には足。」(24)というもの。ただし、イスラエルのその後の歴史では真意が曲解されてしまったようだ。被害者側の報復の権利を主張する根拠として考えられたようだ。主イエスの山上の説教(マタイ5:38-)ではこの規定を引き合いに出して、むしろ復讐心からの積極的な解放を教えている。そのことからすると、本来はこの規定に加害者側の家族や財産を不当な報復から守る歯止めの一面もあったと考えられる。これらの規定は底なしの報復の連鎖を防ぎ、民に対する神の慈しみとも調和する。
続く盗難事件に関する規定でも、神の「公正(2)」が表されている。「償わなければならない」(22:1,3,4,5,6,7,9,12,14)と被害者への相応の補償を命じている。神は、このようにして民の間に起こりうる諸問題への適切な対処のための基準を授けられた。
続く諸規定の中には、カナンの異教的習慣との対決(22:18-20)、共同体の中の社会的弱者の保護(22:21-27)、神との関係(22:29-31)、コミュニティにおける正義(23:1-9)などが定められている。公正なる神は、民の中の弱い立場にある者の「叫びを聞かれる神」であり、情け深い方でもある。神は不当な扱いにうめく者の叫びを聞き入れ、正しく裁きを下すことを示している。教会という神の共同体に属する私たちの互いの間にも、ふさわしい公正と憐みが保たれるように求めていくべきであろう。
出エジプト記23:10-24:18 (2009年11月)
神はイスラエルの規定に「休むこと、祝うこと」を加えることで、彼らの生活の安定を図られた。7年毎の耕作地の休耕は、土地の豊かさを保つために役立った。また、安息日の休息は、イスラエル人ばかりでなく、外国人の奴隷や家畜も休むことになり、共同体全体の生活の安定にもつながったであろう。また、年毎に3度の祭り(過越・初穂・収穫)が催されることで、神の恵みを心に留めて感謝する機会となった。こうした日常生活における休息とお祝いという定期的なサイクルは、実り豊かな人生の基盤として神が備えられたものである。
神がモーセに告げたシナイ契約の終わりに、「主の守りと導き」の約束がある。神はご自分の選んだ民への契約に対して誠実な態度を取る方である。神の臨在を象徴する使いを先導として備え、イスラエルを約束の地へと守り導く。しかも、約束の地を良い状態で受け継ぐようにとの細やかな配慮まで予告されている。私たちは、この使いにキリストを想起し、私たちに対する主の守りと導きへの信頼を深めることができる。
神は仲介者モーセを通して、いけにえの血により、イスラエルとの「契約の締結」に及んだ。契約の血ということばは、最後の晩餐における主イエスのことばに通じる。私たちは、主イエスの血による新しい契約により、神との関係に生きる者たちであることを覚えたい。神と私たちとを結ぶのは、ただ主イエスの十字架の御業である。
出エジプト記25:1-26:37 (2010年1月)
主は幕屋の建設を命じて、幕屋を『わたしは彼らの中に住む』という臨在の象徴となさった。その建設資材となる奉納物を受け取るようにとモーセに命じた。ここにどの時代の信仰者にも通じる3つの原則を見ることができる。①心から進んでささげる(25:2)ことは新約時代の教会で献金の心得に適用されている。 ②神の臨在の約束(25:8)は主イエスの受肉や聖霊の内住において実現している。 ③完全な服従(25:9)は、モーセと対比してさらに優れた完全な仲介者イエスにおいて実現し、私たちも主の足跡に従うようにと招かれている。
具体的な幕屋の設計に入る。まず、契約の箱(あかしの箱)について。箱の中身は「わたしが与えるさとし(あかし)」(25:16)、つまり契約のことば、十戒である。その契約の箱の上部に「贖いのふた」が置かれる。その語は、「覆う」とか「ふた」の意味であるが、「なだめる」とか「贖う」という意味も含む。箱の中身、さとしは神の義と聖を示すものであり、そのふたは神の憐みと贖いを示すものだと言えるだろう。その箱の置いてある場所が、モーセにとって『神との会見の場』となり、イスラエルに伝えるべきことばを神から授かる場となった。
幕屋は垂れ幕で仕切られ二つの部屋に分けられた。それが聖所と至聖所である。『垂れ幕で仕切られた至聖所』には神の臨在を示す契約の箱が置かれ、暗い状態に保たれた。それは暗やみや雲に包まれてご自身を示す神の臨在にふさわしい。そこには大祭司でさえ年に一度しか入ることが許されず、聖なる神と罪ある人の隔たりを思わせる。それゆえに、イエスの十字架の死の瞬間に神殿の幕が裂けた出来事は、罪の贖いが実現したことを象徴的に示していると言えるだろう。私たちはキリストの贖いのゆえに神に近づくことが奨励されている。(ヘブル10:19-25)