たぬきニュース  国際情勢と世界の歴史

海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

6巻28ー30章

2024-08-27 04:34:13 | 世界史

【28章】
貴族と平民間の闘争が原因で、ローマ軍が編成されず、司令が決まらないという知らせがプラエネステに届いた。これを好機と見たプラエネステの将軍たちは直ちに軍隊を率いてローマに向った。プラエネステを出ると、放置された荒れ地が広がっていたが、彼らはそこを抜けて、ローマのコリナ門を目ざした。ローマの市民の間には恐怖が広がった。男たちは「武器を取れ」と叫びながら、城壁や市門に向かった。ローマ市民は反乱を中止し、敵に立ち向かった。T・クインクテイウス・キンキナトゥス が独裁官に任命された。独裁官は A・センプロニウスを騎兵長官に任命した。プラエネステの兵士たちはクインクテイウスが独裁官になったことを知ると、すぐに城壁から後退した。独裁官が徴兵を宣言すると、兵役に該当するローマ市民は迷わず集まった。ローマ軍の編制が進んでいる時、プラエネステ軍はアリア川の近くに陣地を定めた。ここを拠点として彼らは広範囲に略し、地域を荒廃させた。ローマにとって重要な輸入路であるアリア川の土手を占拠したことを、プラエネステの兵士たちは幸運と考えた。なぜならローマ市民がガリア人の襲来の時のようにパニックに陥るに違いないからである。ローマ人は敗北の日を「アリア川の日」と呼んで呪っており、最悪の戦場となったアリア川は彼らにとって恐ろしい場所に違いない。ローマ兵はアリア川と聞くだけで、ガリア人の幻影が目に浮かび、ガリア人のおぞましい叫び声が聞こえ、震えあがるだろう。こうしたあてもない想像にふけりながら、プラエネステ軍の兵士たちは彼らの幸運を場所に賭けた。一方でローマ軍はラテン人の兵士をよく知っており、彼らがどこにいようと恐れるに足りないと考えていた。ラテン人はレギッルス湖の戦いで敗れて以来、100年間ローマに臣従しきたのである。アリア川がローマの大敗北を想起させるとはいえ、ローマ兵はこの記憶を拭い去り、他の不吉な場所同様勝利の妨げにはならなかった。たとえガリア兵が再びアリア川に現れたとしても、かつて彼らから首都を奪回した時のように、再び戦うまでである。首都奪回の翌日、ローマ軍はガビーでガリア軍を壊滅させ、ガリア兵は一人も生き残ららず、自軍の全滅を祖国に知らせることもできなかった。
【29章】
プラエネステ軍はローマ兵が過去の敗北に引きずられていると期待し、他方ローマ軍は勝利だけを考え、両軍はアリア川の土手ので出合った。プラエネステ軍が戦陣を組んでで進んでくるのを見て、独裁官は騎兵長官  A・センプロニウスに言った。「敵はガリア兵と同じ場所にいるぞ。かつての戦いの再現を期待しているようだ。場所が縁起が良いことなど頼りにならないし、自分が弱ければ誰も助けてくれない、と彼らに教えてやろう。君と騎兵が頼っているは自分の武力と勇気だよな。諸君は全速力で敵の正面を突いてくれ。私と歩兵は崩れた敵に襲い掛かる。条約が守られているか見張っている神々よ!我々を応援してください。神々に違反した敵に罰を与えてください。連中は我々を裏切りました。彼らの訴えを無視してください」。
ローマの騎兵と歩兵の攻撃により、プラエネステ軍はあえなく崩れた。最初の一撃と叫び声で、彼らの戦列は乱れ、間もなくすべての隊列が崩れ、プラエネステ軍は大混乱となり、兵士は背中を見せて逃げだした。彼らは恐怖のあまりひたすら逃げ、陣地を通り過ぎ、プラエネステの町が見えるところまで来て、ようやく逃げるのをやめた。彼らは再結集し、適当な場所を見つけて陣地を構築し防御を固めた。市内に逃げこもうとしなかったのは、領内に火をつけられるのを恐れたからだった。領内には8つの町が存在した。これらの町が荒廃した後、結局プラエネステが包囲されるだろうと彼らは考えたのである。ローマ軍はアリア川で敵の陣地を略奪すると、プラエネステに向かった。ローマ軍が近づいてくると、プラエネステ軍はせっかく造った陣地を棄てて、市内に逃げ込んだ。プラエネステは周囲の8つの町を所有していた。ローマ軍はこれらの町を次々に攻撃し、ほとんど抵抗されずに攻略した。その後ローマ軍はっヴェリトラエへ向かい、勝利した。そして最後に戦争の発端であり、中心であるプラエネステに戻ってきた。プラエネステ軍は戦わず降伏した。ローマ軍はこの町を占領した。ローマ軍は戦争に勝利し、二つの陣地を奪取し、プラエネステの支配下にある8つの町を攻略し、主敵であるプラエネステの降伏を受け入れた。ティトゥス・クィンクティウスはローマに帰った。
   (プラエネステはローマの東35kmでラテン地域のはずれにある。現在のパレストリーナである。ヴェリトラエはアルバ湖の南東にあり、プラエネステから離れている。ヴェリトラエはヴォルスキの都市だったが、ローマの第4代国王アンクス・マルキウスによって征服された。)
勝利の行進で、クィンクティウスはプラエネステから持ち帰ったユピテルの像をカピトルの丘まで運んだ。ユピテル像はユピテル神殿とミネルバ神殿の間の奥まった場所に安置された。像の台座に独裁官の勝利を記した金属板がはめ込まれた。金属板には「ユピテルとすべての神々が独裁官ティトゥス・クィンクティウスに勝利をもたらした」と書かれていた。独裁官就任から20日後にクィンクティウスは辞任した。
【30章】
翌年の執政副司令官の半分が平民から選ばれた。貴族から選ばれた3人は C・マンリウス、P・マンリウス,L・ユリウスである。平民の3人は C・セクスティリウス、M・アルビニウス、L・アンスティティウスである。二人のマンリウスは貴族なので平民の3人より優位にあり、貴族であるユリウスより人気があった。二人のマンリウスはくじ引きをせず、他の執政副司令官と話し合いをせず、元老院と相談しただけでヴォルスキ戦の指揮官となった。後で二人と元老院は勝手に決めたことを後悔することになった。指揮官となった二人は偵察兵を出さずに、略奪を開しした。略奪に行った兵士たちが包囲されたという誤報を信じて、二人はすぐに援軍を送った。虚偽の報告したのはローマ兵のふりをしたラテン人であり、ローマの敵だった。二人のマンリウスは報告者の素性を調べるのを怠った。二人が派遣した援軍は突然待ち伏せ攻撃を受けた。不利な地形にもかかわらず、ローマ軍は勇気だけで必死に持ちこたえた。同じ頃、平原の反対側でローマ軍の陣地が攻撃された。二人の将軍の無知と性急さが原因で、ローマ軍は二方面で全滅しそうになった。幸運により、また指揮官の命令がないまま兵士たちは勇気だけで切り抜けるしかなかった。ローマ軍の危機が首都に伝えられると、いったん独裁官を任命することになった。しかし続いて第二報が届き、ヴォルスキ軍の動きが止まったこと知らされた。ヴォルスキ軍は勝利を目前にしながら、決着をつけられずにいた。間もなく彼らを呼び戻す命令が来て、ヴォルスキ兵は去っていった。
ヴォルスキ戦が終了すると、平和が続いたが、年末にプラエエステが再び反乱した。プラエエステはラテン人を誘ってローマに敵対した。
同じ頃セティアの植民者たちが、自分たちの人数が少ないと不満を言ってきたので、ローマは新たな植民団を送った。  
  (セティアはローマの南東65km、サトゥリクムの東。サトゥリクムはポンプティン地方の北部にあるが、セティアは同地方からはずれ、北方にあるが、高台にあるので、ティレニア海が見える。セティアはヴォルスキの町だったが、紀元前382年ローマは植民地を設定した。セティアは現在のセッツェである。)
プラエエステとの戦争が起きたが、国内は安定していた。安定をもたらした要因は、執政副司令官のうち半分が平民だったことである。彼らは平民に影響力を有し、平民の間で権威があった。

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6巻25-27章

2024-08-14 05:36:41 | 世界史

【25章】
捕虜を調べた結果、何人かはトゥスクルム人であることが分かった。彼らは他の捕虜と区別され、執政副司令官の前に連れて行かれた。取り調べにおいて、トゥスクルム人は「国家の承認のもとで我々は戦争に参加した」と述べた。現在の戦場であるサトゥリクムと違い、トゥスクルムは比較的ローマに近かったので、カミルスはトゥスクルムと戦争になれば厄介だと思った。トゥスクルムがローマとの同盟に違反した事実を一刻も早く元老院に知らせるため、彼はトゥスクルム人捕虜をローマに連れていくことにした。同僚の L・フリウスは陣地に残り、引き続き戦争を指揮してくれるだろう。今回の戦争の結果、カミルスは自分の戦術に固執すべきでないと悟った。自分以外にも優秀な指揮官がいることを知ったのだった。一方で、 L・フリウスとローマ兵たちは、カミルスが重大な過ちを見過ごすはずがないと考えていた。国家に最悪の災難を引き起こしたかもしれない失敗を、カミルスは決して忘れないだろう、と彼らは考えた。ヴォルスキ戦でローマ軍が最初敗北し、後で勝ったことについて、軍の兵士も首都の市民も、敗北の責任は L・フリウスにあり、勝利に導いたのは M・フリウス・カミルスだと考えていた。
トゥスクルム人捕虜を尋問した元老院は、トゥスクルムとの戦争を決定し、カミルスを司令官に任命した。カミルスが副将軍をつけてほしいと言うと、許可され、好きな人物を選んでよいと言われた。誰もが驚いたことに、カミルスは L・フリウスを副将軍にした。この寛大な行為により、カミルスは L・フリウスの汚名を消し去った。人々はカミルスを称賛した。
しかしトゥスクルムとの戦争は起きなかった。トゥスクルムはローマ軍に勝てないと判断し、同盟に永遠に忠実であることを誓い、和平を願うことにした。ローマ軍がトゥスクルムの領域に入ると、道路の近くの住民は逃げずに、耕作を続けた。町の門は開いており、市民は軍服ではなく、平服を着ており、ローマの司令官を歓迎して集まってきた。市内と郊外の市民は軍用の備蓄を物惜しみせず、ローマ軍の陣地に運んできた。カミルスは城門の近くに陣地を定め、郊外は平和な様子だが、市内も平和であるか認かめることにした。彼が市内に入ると、家々のドアは開いており、売り台にはいろいろな品物が並んでいた。働き人は仕事に忙しく、学校では子供たちが元気な声で音読していた。通りは女性や子供でいっぱいで、それぞれの用事で歩き回っていた。彼らはカミルスとローマ兵を見ても、驚かず、怖がらなかった。カミルスは念のため、戦争の兆候がどこかにないか探したが、無駄だった。平和を取り繕うため持ち去られた物はなかったし、運び込まれた物もなかった。すべてが穏やかで、平和な様子であり、戦争の足音がこの町に迫ったとは思えなかった。
【26章】
トゥスクルムの平和に偽りはなさそうなので、カミルスは町の長老たちを呼んだ。カミルスは彼らに言った。「あなたたちはローマに対する戦争を考え、ローマの怒りに対し武力で対抗しようとした。ローマの元老院に出頭し、あなたたちが処罰に値するか、元老院の判断をあおぎなさい。あなたたちは現在反省しているので、許されるかもしれない。ローマの国家が決定する前に、私はあなたたちを許すことはできない。私にできるのは許しを求める機会を与えることだ。元老院が最善の決定をするだろう」。
トゥスクルムの長老たちがローマに到着し、元老院の入り口に立った。数週間前までローマの忠実な同盟者だった者たちがうなだれてるのを見て、元老たちは哀れに思い、彼らをもはや敵とみなさず、友人としてもてなした。トゥスクルムの独裁者が代表して語った。「あなたがたは我々に戦争を宣言し、軍隊を派遣しました。我々はローマの将軍と兵士の前に呼び出され、彼らの命令に従い、我々は平服でローマに参りました。我々が着ているのは貴族と平民共通の衣服です。あなたがたに援軍を求められ、武器を提供された時しか、我々は軍服を着ません。ローマの将軍と兵士は我々の説明をうのみにせず、自分の目で確かめた結果、我々に戦争の意図がないと確信しましました。我々を信用してくれたことに感謝します。ローマとトゥスクルムとの同盟に我々は忠実でした。同盟の継続をお願いします。我々はローマの敵ではありません。ローマは真の敵国と戦ってください。実際にローマと戦って痛い経験をすれば、ローマの実力を思い知るかもしれませんが、我々は戦わなくても、ローマの強さを理解しています。これがトゥスクルムの決意です。忠実なトゥスクルムに神々が幸運を与えますように。あなた方が戦争を始める原因となった問題、実際に起きたことに対して我々は反論できません。しかし、あの者たちの行為が事実であるとしても、我々は彼らを許すべきと考えています。現在彼らは深く反省している証拠が十分あります。我々がローマを裏切ったことは認めざるを得ません。今更謝られても無意味かもしれませんが」。
トゥスクルムは平和を獲得し、間もなく完全なローマ市民権を得た。
【27章】
問題が解決し、カミルスは辞職した。彼はヴォルスキ戦で優れた戦術と勇気を発揮し、トゥスクルムの問題を幸福な終結に導いた。どちらの場合にも副将軍 L・フリウスに特別な配慮を示し、またフリウスが失敗した際、忍耐強く対応した。翌年の執政副司令官は以下の6人だった。ルキウス・ヴァレリウス(5回目の就任)、プブリウス・ヴァレリウス(3回目の就任)、C・セルギウス(3回目の就任)、L・メネニウス(2回目の就任)、P・P・パピリウス、Ser・コルネリウス・マルギネンシス。
この年、査察官の任命が必要になった。C・スルピキウス・カメリニウスと Sp・ポストゥミウス・レギレンシスが査察官になった。二人は新しく資産を評価しはじめたが、ポストゥミウスが死んだために、仕事が中断された。査察官の場合、一人でだけ新しい人物に代えてよいものか、わからなかった。その結果スルピキウスは辞職し、新たに選びなおすことになったが、選挙に不正が起きた。三度選挙を繰り返すことには宗教的な恐怖があった。この年の査察に神々が反対しているように思われた。このような失態は我慢できない、と護民官は元老院を批判した。
「元老院は執政副司令官の助言に従い、途中までなされた査察の結果を公表を恐れた。査察表には市民の不動産が記載されており、どれだけ多くの市民の土地が借金の抵当に入っているかわかるのだった。市民の半分が残りの半分によって破滅させられている実態が明らかになるだろう。元老院は様々な口実をあげ、戦争を繰り返している。兵役は富裕市民だけでなく平民にも課せられる。平民は負債を背負いながら、日々連戦している。ローマ軍はアンティウムからサトゥリクムまで進軍し、続いてサトゥリクムからヴェリトラエ、さらにトゥスクルムへと転戦した。そして今度はラテン人やヘルニキ族そしてプラエネスウテが攻撃されようとしているというではないか。これはきっとでっち上げで、貴族の本当の目的はローマの平民に復讐することだ。平民は従軍させられ、疲れ果て、首都に帰って休息できない。彼らはのんびり余暇を楽しめないし、市民集会に参加できない。護民官が借金の利息の軽減を要求したり、その他平民の窮状を訴えるのを聞くことができない。彼らの祖先が勝ち取った自由を思い出す気力が平民にあるなら、ローマ市民が借金の抵当として奴隷として売られるのを許さなないだろう。債務の実態が調べられるべきだ。債務を減らす方法が決まらないかぎり、平民は徴兵を認めないだろう。債務者が自分の借金の残額を知り、自分が抵当として奴隷になるべきか、それは利子が原因ではないかを知らなければならない」。
護民官が債務者に救済の道を示したので、平民の抗議運動は活発になった。多くの市民が債務の抵当として債権者に引き渡さていた。これは市民にとって切実な問題だった。一方元老院はプラエネステとの戦争のために新しい軍団の編制を決定した。護民官はプラエネステとの戦争に反対し、徴兵を妨害した。平民全員が護民官を支持した。政府は債務者に対する抵当権の執行を認めたが、護民官はこれを無効であると主張した。徴兵対象者の名前が呼ばれたが、誰も返事しなかった。元老院にとって、債権者の利益より軍団の編制のほうが、はるかに重要だった。プラエネステ軍が既に進軍を開始し、ガビーの郊外に到着しているという知らせがあったのである。このような状況になっても、護民官は徴兵に反対した。彼らの決心は、ますます固く、市内の騒動が続くうちに、敵はローマの城壁まで来てしまった。

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6巻22ー24章

2024-07-30 07:21:39 | 世界史

【22章】
翌年の執政副司令官 Sp・パピリウスと L・パピリウスは軍隊を率いてヴェリトラエに向かった。残りの執政副司令官 Ser・コルネリウス・マルギネンシス、Q・セルヴィリウス、C・スルピキウス、L・アエミリウスはローマに残り、首都の防衛にあたった。エトルリアの各地で戦争の動きあり、彼らに備えななければならなかったからである。ヴェリトラエに集まっていた兵の中で、反乱した植民者より、プラエネステからの応援兵が多かった。ローマ軍はただちに彼らを攻撃し、勝利した。戦場はヴェリトラエから近かったので、彼らは早い段階で唯一の避難所である城内に逃げ込んだ。ローマの二人の司令官はヴェリトラエを攻撃しなかった。成功しそうになかったし、ローマの植民地を破壊したくなかったのである。戦地からローマへ派遣された伝令は「我々はヴェリトラエ兵よりプラエネステ兵を多く殺害した」と語った。この報告を聞いて、元老院はプラエネステとの戦争を決定し、市民も同意した。翌年プラエネステ軍はヴォルスキ軍に合流し、サトゥリクムのローマ植民地を急襲し、植民者の執拗な抵抗にもかかわらず、植民地を占領した。勝者となった彼らは残虐にふるまった。この事件を知って、ローマの市民は歯ぎしりした。
   (日本訳注:サトゥリクムはローマの南東60km、ポンプティン地方の内陸の町。ティレニア海沿岸の都市アンティウムの東。サトゥリクムはラテン人のアルバ王国によって建設されたが、紀元前488年ヴォルスキに征服された。紀元前386年ローマはサトゥリクムを奪取した。)
M・フリウス・カミルスが6回目の執政副司令官に選ばれた。残りの執政副司令官は A・ポストゥミウス・レギレンシス、L・ポストゥミウス・レギレンシス、L・フリウス、L・ルクレティウス、M・ファビウス・アンブストゥスだった。元老院の特別命令により、フリウス・カミルスがヴォルスキ戦を指揮することになった。彼の副将はくじ引きで L・フリウスに決まった。L・フリウスはカミルスの名声をさらに高めるのに政治面で貢献した。性急なマンリウスが起こした騒動により、国家の威信は地に落ちていたが、副将フリウスは国家の威信を取り戻した。カミルスは高齢だったので、執政副司令官に就任するのを辞退しが、市民は受け入れなかった。年齢にもかかわらず、カミルスの胸は力強く鼓動動しており、視覚や聴覚も衰えていなかった。彼は国内の政治を注視していたが、戦争が始まると彼の関心はそちらに移った。4つの軍団が編成された。一個軍団は4000人の兵士からなっていた。翌日ローマ軍はエスキリン門(東側の門)に集合し、サトゥリクムに向かって出発した。サトゥリクムを占領した敵は自分たちの人数が多かったので自信満々で、ローマ軍を待ち受けていた。ローマ軍が近づいてくると、彼らはすぐに迎え撃った。彼らはできるだけ早く決着をつけるつもりだった。そうすれば人数の少ないローマ軍は指揮官が作戦する間もなく敗れるだろう、と考えた。ローマ軍の強みはは優秀な指揮官だけだからである。
【23章】
一方で、ローマ軍とカミルスの副将も闘志に燃えていた。ローマ兵は正将カミルスの用心深さと権威を信じ、何も恐れず猛攻するつもりだった。カミルスの作戦は戦闘を長引かせ、その間に巧妙な戦術を使用し、ローマ兵の強さを勝利に結びつけることだった。ローマ軍は自信がないと見て、ヴォルスキ軍とプラエネステ軍は執拗にローマ軍を攻め立てた。彼らは自軍の陣地の前で戦いを開始したが、数の優勢を頼みに、平原の中央にまで進み出てローマ軍の塹壕にまで軍旗を進めた。敵がローマ軍をなめているので、ローマ兵は怒った。 副将の L・フリウスはもっと怒った。彼は若く気性が激しく、兵士の絶望に影響された。兵士たちの士気に陰りが見えた。彼はカミルスの唯一の弱点である年齢をあてこすりなながら、兵士を勇気づけた。「戦場の主役は若者である。体力が頂点の時、勇気は頂点に達し、体力が失われると、勇気も失われる。かつてカミルスは最も優秀な戦士だったが、現在は臆病だ。昔の彼は戦場や敵の城壁に近づくと、直ちに攻撃し、勝利したものだが、現在はぐずぐずしている。時間をかければ、我が軍の戦力が増し、敵の戦力が減少するというのか。いかなる好運、いかなる時期、いかなる場所で彼は作戦を実行するつもりなのか。あの老人の計画のせいで、多くの兵士が失われるだろう。彼は軍隊の名誉を共有するだけでなく、兵士の損失に責任がある。国家の軍隊の運命を衰弱した老人に委ねることで、何が得られるだろう」。
陣地の兵士たちはの副将 L・フリウスの考えを受け入れ、多くの部隊が戦闘開始を要求した。そこで副将はカミルスに言った。「兵士の猛烈な戦意を抑えられません。我々が出撃をためらったので、敵は我々を完全に見下し、勢いを増しました。あなたの作戦に、全員が反対しています。兵士全員の考えを受け入れてください。さもなければ我々は敗北します」。
カミルスは答えた。「今日まで私は唯一の指揮官として行動してきた。私の能力と幸運を疑う者はいなかったし、私も自分の能力が低下したとは考えていない。私と同等の権限と地位にあるあなたが、私より体力があり、活動的なことを、私は知っている。私は命令するのに慣れていて、命令されるのが嫌いだ。しかしあなたは私の同僚であり、私はあなたの権威を否定しないし、邪魔するつもりもない。あなたが最善と考えることやらせてみよう。天が応援してくれるだろう。私は老人なので、前線から下がらせてもらいたい。私は老人であるが、戦闘において任務を果たすことができるし、不足するものはないと自分では思っているが、あなたにやらせてみよう。私の作戦が最善だったということにならないよう神々に祈る」。
兵士たちはカミルスの有益な助言を受け入れなかった。また、不滅の神々は愛国的な彼の祈りを聞き入れなかった。副将 L・フリウスに率いられ、兵士たちが陣地から撃って出ると、どんどん前に進んだ。カミルスは強力な予備部隊を陣地の前に置き、小高い丘の上から心配そうに戦況を見つめた。
【24章】
両軍が衝突すると、敵軍は後退し始めた。敵はローマ軍を恐れたわけでなく、これは作戦だった。彼らの後方はヴォルスキの陣地に向かってゆるやかに上り坂となっていた。彼らはは人数に余裕があったので、陣地に数個大隊を残しておくことができた。(一個大隊=480人)
数個大隊は伏兵であり、戦闘が始まり、ローマ軍が彼らのほうに近づいてきたら、飛び出すつもりだった。ローマ軍は敵を追いかけ、隊列を乱しながら上り坂に近づいた。チャンスと見て、伏兵の数個大隊が攻撃を開始した。勝っていると思い込んでいたローマ軍は新しい敵の出現に驚き、また上り坂の戦いで不利となり、後退し始めた。伏兵の数個大隊は容赦なく攻め続けた。間もなく、戦術的な後退をした本隊も攻撃を開始した。ローマ軍は総崩れとななり、少し前まで意気盛んだったことを忘れ、ローマ軍の栄光ある伝統を忘れ、散り散りになって逃げ出した。多くの兵がローマ軍の陣地へ向かって逃げた。カミルスは周囲の兵士に助けられながら馬に乗ると、予備の部隊を連れ出し、逃げ戻ってきた兵たちをひき止めた。カミルスは彼らをしかりつけた。「あれだけ勇ましく始めた戦闘の結果がこのあり様だ。これは誰の責任か。いかなる神の責任か。ほかでもない、諸君の向こう見ずな考えが原因だ。そして諸君は今や臆病だ。この瞬間から私が諸君の指揮官だ。ローマ兵であることを思い出し、勝利するのだ。陣地の防壁を頼りにするな。勝利するまで、私は誰も陣地に入らせない」。
兵士たちは自責の念に駆られ、逃げるのをやめた。予備部隊の旗手が走り出し、隊列が敵に向かって前進するの見て、彼らは反省し、互いに励ましあった。指揮官のカミルスは老人にもかかわらず、危険な最前線に出た。これを見て、兵士たちは戦場に響き渡るような掛け声を上げた。カミルスは百戦百勝の戦歴を持つ名将であり、年をとっても精神は変わっていなかった。副将 L・フリウスは不要になった。カミルスの命令により、フリウスは騎兵を指揮することになった。歩兵が総崩れの状態では、騎兵の出番はなく、フリウスは騎兵たちを叱責しなかった。フリウスは歩兵の指揮に失敗したので、もはや権威がなかった。彼は弱々しい声で騎兵全員に「作戦の失敗を許してくれ」と言った。「カミルスの反対を押し切って、私は兵士たちの向こう見ずな考えに同調してしまい、カミルスの慎重な作戦を無視した。カミルスは最悪な戦況においても、兵士たちに勇気を与えることができる人間だ。もしこの戦争が失敗に終わったら、私は諸君たちと一緒に惨めな敗北にうちひしがれるだろう。その責任は私一人が負うことになる。歩兵が逃げ腰なので、騎兵が戦うしかない。馬を降り、歩兵として戦ってくれ」。
槍を持ち、際だって勇敢な騎兵が出撃すると、戦場ではローマの歩兵は全面的に後退しいた。騎兵の将校も配下の騎兵も競って決然と、勇敢に戦った。彼らのたゆまない勇気が結果となって表れた。少し前までローマ兵に恐怖を与えてていたヴォルスキ兵はうろたえ、逃げだした。戦闘中において、また逃げる段階で、多くのヴォルスキ兵が殺された。ローマの騎兵はヴォルスキの陣地を襲撃し、ここでもヴォルスキ兵が殺された。

 

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6巻19-21章

2024-07-16 05:02:19 | 世界史

【19章】
元老院は個人の家で集会が開かれていることを問題視した。M・マンリウスの家はカピトルの丘にあり、丘の安全が脅かされているからである。元老の多くがセルヴィリウス・アハラのような人物が必要だと感じた。かつてアハラは危険人物を投獄するのではなく、殺害することにより内乱を終わらせた。しかし元老院は極端な処置を避け、表面的には穏健だが実効性のある決定をした。マンリウスの危険な計画が社会に害を与えないよう、最高官に対策を考えさせたのである。元老員の決定に従い、執政副司令官と護民官が集まり、必要な対策について話し合った。護民官はマンリウスの独裁者者的な性格を恐れれていた。市民は自由を失い、護民官の地位も廃止されるからである。それで護民官は元老院の決定を前向きに受け入れた。協議の参加者は武力行使と流血以外の手段を思いつかなかったが、そのようなやり方は恐るべき内戦に発展しかねなかった。二人の護民官、M・メネニウスとQ・プブリウスが発言した。「国家と危険人物の争いを貴族と平民の内戦にしてはならない。我々が平民と戦う必要はない。平民がマンリウスと敵と見るようにすればよい。平民の期待を膨らませたことが裏目に出て、マンリウスは自滅するだろう。まず裁判の日を決めるのです。平民はマンリウスが国王になるのを望んでいます。裁かれるのがマンリウスだとわかれば、群集はマンリウスを支持するのをやめ、裁判で有罪にするでしょう。貴族の一人が国王になる野心を抱いたために裁かれるのを見て、群集は自分たちの自由が失われかけたことに気づくでしょう。誰かに期待することの危険を知るでしょう」。
【20章】
話し合いの参加者全員が賛成し、マンリウスの裁判の日が決まった。これを知って
平民は動揺した。マンリウスは貴族仲間からから見捨てられ、親戚からも見捨てられ、いつも一人で、喪服姿で歩いていた。奇妙なのはマンリウスの二人の兄弟、アウルス・マンリウスとティトゥス・マンリウスが喪服を着ていたことだった。誰かが重罪で裁かれる時、彼の兄弟が喪服を着ることはなかった。アッピウス・クラウディウスが投獄された時、彼の敵であったカイウス・クラウディウスとクラウディウス家の全員が喪服を着たことを人々は思い出した。そして彼らは考えた。「マンリウスを裁判にかけるのは、大衆にとっての英雄を破滅させる陰謀だ」。
マンリウスは貴族でありながら、平民の側に移った最初の人だった。裁判が始まったが、反逆罪の証拠は提示されなかったようである。自宅で集会を開いただけでなく、反乱を呼びかける発言、黄金についての虚言が証拠とされたという記録は存在しない。にもかかわらず彼が重罪を宣告されたことは確かである。人々が裁判の結果を恐れたのは、マンリウスの行動が重罪に値したからではなく、裁判が特別な場所でおこなわれたからである。英雄的で偉大な行動をした者であっても、国王の権力を得ようとすれば、すべての功績を否定される。また人々から呪われるということを、マンリウスの裁判は教えている。
裁判が始まると、マンリウスは400人の市民に無利子でお金を貸したと語った。「そのおかげで、彼らは債権者に引き渡されれずにすにすみ、奴隷として売られずにすんだ」。続いてマンリウスは軍事的功績を数え上げ、殺害した30人の敵兵の遺品を証拠として差し出した。また40人の司令官から与えられた褒賞品を提示した。その中には守護神を象徴する王冠2個と軍功のあった兵士に与えられる王冠8個があった。さらに彼は市民たちを敵兵からから救ったと語った。その中には騎兵長官、C・セルヴィリウスがいると語ったが、セルヴィリウスは証人として出廷しなかった。マンリウスは戦場における功績を中心に彼の遠大な目的にふさわしい演説をした。彼は時折胸をたたき、輝かしい表現で自分の功績を語った。戦場で受けた傷の跡が荘厳に見えた。彼は繰り返しカピトルの丘を見上げ、危機にある自分を助けてくれるよう、ユピテルと他の神々に願った。自分が最悪の状態にある時、かつて自分に勇気を与えた神々がローマ市民に勇気を与えるよう、彼は祈った。最後に彼は審判員全員に呼びかけた。「カピトルの丘をしっかり見て、不滅の神々を見ながら、判決してください」。
兵役経験者はマルティウスの練兵場に集まり、百人隊ごとに判決しようとしていた。マンリウスを擁護する市民はカ後ろを向いてカピトルの丘に向かって手を伸ばし、神々に祈った。マンリウスの英雄的行為を思い出させる丘が見えないようにしない限り、これらの人々の呪縛を解けない、と護民官は思った。兵役経験者の頭はマンリウスの英雄的な行為と善行でいっぱいで、マンリウスに有罪の投票をするはずがなかった。投票は翌日に持ち越された。兵士経験者はフルメンタン門(北端の門)の外のぺテリンの森に集められた。この場所から、カピトルの丘は見えなかった。
  (日本訳注:これまで北端の門といえば、コリナ門であったが。コリナ門と対をなす形で、フルメンタン門があった。東にコリナ門、西にフルメンタン門である。フルメンタン門は現在のポポロ門である。)
カピトルの丘が見えない場所の集会でマンリウスの有罪が確定した。人々はマンリウスの訴えに心を閉ざし、恐ろしい刑を票決した。審判員である市民にとってぞっとする判決だった。信頼できる記録によれば、実は市民が票決したのではなく、反逆罪を裁くため二人の特別裁判官が任命され、彼らの決定に従い、護民官がマンリウスをタルペイアの崖から投げ落としたのである。マンリウスの比類ない栄光の場所であった崖が、彼の処刑の場所となった。彼の死後、二つの汚名が彼に与えられた。まず国家が彼を人非人として扱った。マンリウスの家はお金の神ユノーの神殿と硬貨の鋳造所の近くにあったので、今後貴族はカピトルの丘と砦に住んではならないことになった。次にマンリウスの親族が彼の名前を忌み嫌い、今後生まれる子供はマルクス・マンリウスという名前にしてはいけないと決めた。これがマンリウスの最後だった。自由な国に生まれなければ、彼は偉大な人物として人生を終えたかもしれない。暴君が誕生する危険がなくなると、人々は、マンリウスの良い点だけを思い出し、彼を失ったことを残念に思った。間もなく、疫病が流行し、多くの市民が死んだ。疫病の原因はわからなかったが、多くの人がマンリウスを処刑したからだと思った。カピトルの丘はマンリウスの血で呪われている、と彼らは考えた。「神々は目の前でマンリウスが処刑されるのを見て、不愉快に違いない。マンリウスは神々の神殿を救ったのだから」。
【21章】
疫病の後ローマは食料が不足した。二つの災難を経験した市民たちの間で、来年は複数の戦争が起きるという噂が広まった。年末に執政副司令官が選ばれた。L・ヴァレリウス(4回目の就任)、A・マンリウス、Ser・スルピキウス、L・ルクレティウス、L・アエミリウス、M・トレボニウスが選ばれた。マンリウス、スルピキウス、ルクレティウス、アエミリウスは3回目の就任だった。
ヴォルスキに加え、複数の敵が戦争を開始した。ヴォルスキはたえずローマ軍を訓練連する運命にあるみたいだった。キルケイとヴェリトラエの植民者は以前から反乱を企てていたし、ラテン人は信用できなかった。ラヌヴィウムはラテン都市の中で最もローマに忠実だったが、突然反乱した。(ラヌヴィウムはアルバ湖の真南、ヴェリトラエの西)。
戦争のきっかけはヴェリトラエの植民者が反乱後、長い間罰せられていないことだった。ヴェリトラエの植民者はヴォルスキ人だったので、本国のヴォルスキ人がローマを見下したに違いないと元老院は考えた。元老院はこれらの敵に対しただちに宣戦布告すると決定し、国民に同意を求めた。平民の同意を促すために、ポンプティン地方とネペテの土地の分配にあたる委員が任命された。ポンプティン地方の土地の割り当てに5人のの委員が、ネペテに植民地を設定するために3人の委員が決まった。この計画が市民に伝えられると、護民官は反対したが、全部の部族が戦争に賛成した。戦争の準備が一年近く続けられたが、疫病の被害が大きく、軍隊は出発できなかった。戦争の遅れを利用してヴェリトラエのヴォルスキ人植民者たちは元老院をなだめようと考えた。彼らの多くがローマに使節を送り、許しを求めることに賛成した。しかし、しばしば国家の利益は一部の人々の利益と結びついており、反乱の指導者たちはローマの許しと引き換えに自分たちがローマに引き渡されるを恐れて、植民者たちの平和の願いを押しつぶした。反乱の指導者たちはローマに使節を送らないよう長老たちを説得しただけでなく、ローマの領土に侵入し、略奪するよう、多くの平民にけしかけた。この敵対行為により和平の望みは消えた。またこの年、プラエネステが初めてはローマに反乱した。(プラエネステはローマの東35km、現在のパレストリーナ)
トゥスクルム、ガビニー、ラビクムはローマに応援を求めた。これらの町は以前にも侵略されていた。しかしローマの態度は冷たかった。ローマは援軍を送る余裕がなかったので、元老院は3つの町の訴えを信じようとしなかった。
  (ガビニーはガビーのことで、ローマの東18km。トゥスクルムはアルバ湖の北。ラビクムはトゥスクルムの北北東)

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6巻16ー18章

2024-06-30 18:34:35 | 世界史

【16章】
独裁官が言った。「無駄な言いのがれをやめよ。確かな証拠を出せ。それができないなら、虚偽の理由で元老院に罪を着せたことを認めよ。元老たちが盗みをしたと君が言いふらしたために、人々は彼らを憎むようになった。最も権威ある人々の名誉を失わせるのは重罪である」。
マンリウスは罪を認めなかった。「敵の質問に答える必要はない」。
独裁官はマンリウスを投獄せよと命令した。警吏が彼を逮捕すると、彼は叫んだ。「カピトルの丘に住む最高神ユピテル、女王神ユノーとミネルバ、あなた方を防衛する兵士が敵によって迫害されるのを許すのですか。ガリア人をあなた方の神殿から追い出した私の右手が縛られ、拘束されてもよいのですか」。
マンリウスが辱められるのを見るのを耐えられる者はいなかった。しかし国民は国家の最高権威に従わねばならず、越えてはならない一線を守る必要があり、護民官と平民は独裁官に怒りの視線を向けることはなく、抗議の声を発することはなかった。マンリウスが獄につながれると、多くの人が喪に服し、髪を切らなかったとつたえられている。獄の入り口の前に、群集が集まった。彼らは落胆し、悲しんでいた。
独裁官はヴォルスキ戦の勝利を祝ったが、彼の評判はかえって悪くなった。独裁官は戦場で敵に勝利したのでなく市民に勝利したのだ、と人々は不平を口にした。彼らは皮肉を言った。「勝利を祝う暴君の凱旋行進には足りないものがあった。独裁官の戦車の前を歩く捕虜たちの中に、マンリウスの姿がなかった」。
急速に反乱の機運が高まった。元老院が率先して混乱を抑えようとした。平民をなだめるために、元老院はサトゥリクムに200人の植民者を送ると決定した。
  (日本訳注:サトゥリクムはローマの南東60km、ポンプティン地方の内陸の町。沿岸の都市アンティウムの東。サトゥリクムはラテン人のアルバ王国によって建設されたが、紀元前488年ヴォルスキに征服された。紀元前386年ローマはサトゥリクムを奪取した。前386年はこの章の前年)。
植民者は2、5ユゲラ(1ユゲラは約四分の1ヘクタール)の土地を受けとることができた。しかしこれは少数の限られた市民への恩恵であり、受け取れる土地も狭かった。そしてマンリウススを裏切ることを促す賄賂だった。元老院の計画は裏目に出て、人々の怒りに油をそいだ。マンリウスの支持者たちは薄汚れた衣服を着て、険しい表情になり、彼らの意図が明らかになった。独裁官が戦争に勝利し辞任し、恐ろしい存在が消えると、人々の精神は自由になり、言いたい放題になった。
【17章】
人々は自分たちの代弁者をけしかけ、断崖の先端まで行くが、危険を前にして代弁者を見捨てる。たとえば Sp・カッシウスは、平民に土地を与えようとした。また Sp・マエリウスは自分のお金で市民を飢餓から救った。しかし二人とも破滅した。同じように、M・マンリウスも高利貸しに責めたてられ苦しんでいる市民を救い、自由な明るい生活を取り戻してやったが、自分は敵の手に渡されてしまった。平民は自分たちの保護者を見殺しにするのである。家畜を肥やしたあとで、と殺するのと同じである。執政官階級の貴族は独裁官の命令や呼び出しを拒否できないのだろうか。マンリウスは嘘を言ったとしても、また突然質問されて返事に窮したとしても、彼を投獄するのはやりすぎである。奴隷が嘘をついたからといって、投獄されることはない。独裁官と元老院はローマの最悪の日を忘れたのだろうか。ガリア兵がタルペイアの崖を登った夜はローマにとって最後の夜となったかもしれない。もし一人のローマ兵が物音に気づかなければ。見張りが眠ってしまった時、マンリウスが敵の接近に気づき、カピトルの丘は守られた。マンリウスは最初一人で戦い、負傷したが戦い続けた。カピトルの丘は最高神ユピテルの居所であり、マンリウスはユピテルを蛮人から守ったと言える。市民はマンリウスに精一杯のお礼として、半ポンド(1ポンド=454グラム)のトウモロコシを差し出した。それにより、元老院は救世主への感謝は果たされたと考えた。元老院はマンリウスを神のような人物、ユピテルに匹敵する人物と称賛し、人々は彼をカピトリヌスと呼んだ。元老院と市民から尊敬されたマンリウスが警吏に引き立てられ暗い獄につながれてよいのだろうか。すべての市民を助けた人間を助けようとする市民はいないのだろうか。
牢獄の前に集まった群集は夜になっても去ろうとせず、「マンリウスが釈放されなければ、牢獄の壁を打ち破る」と大声で言った。群集が実力行使をする前に、元老院はマンリウスの釈放を決定した。これで反乱は終らず、指導者を奪い返した群集は反乱を開始した。このような時、ラテン人とヘルニキ族使節がローマにやって来た。キルケイとヴェリトラエの植民者の使節も一緒に来た。彼らは弁明した。「我々はヴォルスキと同盟していない。われわれの仲間を釈放してほしい。我々の法律で彼らを裁きたい」。
ローマはラテン人とヘルニキ族の要求を拒否し、キルケイとヴェリトラエの植民者の使節に対してはさらに厳しい措置が取られた。彼らは母国を攻撃するという不敬な企てをしたからである。元老院は捕虜の釈放を断っただけでなく、直ちにローマを立ち去れと命令した。「さもなければ大使としての権利を認めない」。
大使は一般の外国人と異なり、安全を保障されているが、元老院は大使の地位を認めないと脅したのである。

【18章】
この年の末、マンリウスが指導する反乱の最中に、最高官の選挙がおこなわれた。新しい執政副司令官は Ser・コルネリウス・マルギネンシス(2回目の就任)、P・ヴァレリウス・ポティトゥス(2回目の就任)、M・フリウス・カミルス(5回目の就任)、 Ser・スルピキウス・ルフス(2回目の就任)、C・パピリウス・クラッスス、T・クインクティウス・キンキナトゥス(2回目の就任)だった。
年初は戦争がなかったので、貴族も平民も喜んだ。平民は従軍せずに済み、借金の重荷から解放されることを願った。現在強力な指導者がいるので、彼らは期待していた。貴族は戦争に注意を奪われずに国内問題に専念できた。貴族と平民は互いに戦う準備ができていたので、闘争は間もなく始まった。マンリウスは自分の家に平民を集め、昼も夜も指導者格の平民たちと革命の計画について話し合った。マンリウスはこれまで以上に激しい口調で憎しみをこめながら話した。名誉を重んじるマンリウスは生まれて始めて屈辱的な扱いを経験し、彼の怒りは尋常ではかった。クインクティウス・キンキナトゥスが独裁官だった時、Sp・マエリウスを投獄しなかった。しかし昨年の独裁官コルネリウス・コッススはキンキナトゥスを手本としなかった。コルネリウス・コッススはマンリウスを投獄すると、平民の憎しみをかわすかのように辞任した。元老院も知らんふりをしていた。このように考えて、マンリウスはくやしさを募らせ、ますます大胆になった。彼は激烈な調子で演説し、平民の感情を煽った。平民も怒りに火が付ていたので、熱心に彼の話を聞いた。マンリウスは以下のように述べた。
「諸君はいつになったら自分たちの力に気づくのか。動物だって本能で多くのことを知っている。諸君は自分たちの人数と敵の人数を知っている。仮に人数が互角な場合でも、諸君のほうが自由を求めて必死に戦うだろう。連中は権力を守ろうとするだけで、受け身だ。それに加えて諸君のほうが人数で圧倒的に優勢だ。従僕として貴族に使えている市民も反乱し、貴族を敵とみなすだろう。諸君が戦いを開始するだけで、勝負は決まり、再び平和になるだろう。だから、諸君が戦う姿勢を見せるだけで、連連中はひき下がるだろう。諸君は団結して立ち上がるべきだ。さもなければ、弱い個人としてすべてを耐えるしかない。諸君はまだ迷っているのか。私は諸君の期待を裏切らない。神々が私の見方であることを、諸君は知っているはずだ。私は諸君の敵を倒す人間だ。敵はうまい具合に私を処分した。何人かの市民を破滅から救った私が投獄されるのを見て、諸君は私を助けてくれた。私の敵が私にもっとひどい仕打ちをしようとしたら、私はどうなるだろう。カッシウスやマエリウスと同じ運命になるだろう。そうなったら、私は恐怖の叫びをあげるしかない。その時神々が介入してくれるかもしれない。しかし神々自身はは地上に降りて来れない。地上で私を助けてくれるのは諸君だ。神々が諸君に勇気を与えるだろう。私が兵士として野蛮人から市民を守った時、また非情な高利貸しから諸君の仲間を守った時、神々が私を勇気づけた。偉大な国家ローマの市民の精神が小さいはずはない。貴族との戦いにおいて、諸君の護民官が提供してくれるわずかな助力に満足してはいけない。諸君は貴族の支配を制限するのに熱心だが、それ以外にも貴族と論争すべき議題があるのに、諸君は関心がない。このような態度は葉諸君の本来の本能ではない。習慣により奴隷のような精神になってしまった。たとえば、諸君は外国に対しては気概があり、ローマが他国を支配するのは当然で正しい、と諸君は考えている。彼らと戦と戦い、彼らを支配するのに慣れているからだ。ところが自由を求めて国内の敵と戦う場合には、挑戦するだけで、完全な自由をに獲得きないでいる。情けない状態に甘んじている。どれほど素晴らしい指導者を得ても、また諸君自身どれほど勇気があっても、これまで完全な自由を獲得できなかった。力を発揮できて、運がよかった時、個々の目的を達成してきたが、最大の目的を達成できていない。今こそ真に偉大な目的に挑戦すべきだ。諸君が自分の幸運を試すなら、また、実績のある私に挑戦させれば、貴族に対する支配を獲得できるだろう。これまでのように貴族に抵抗するだけでは、いつまでたっても真の目的に到達できない。独裁官と執政官になる資格を平等にしなければならない。平民も独裁官や執政官になるべきだ。そうなれば、平民も貴族のように胸を張り、誇り高い精神を持つだろう。直ちに行動を始めよう。中央広場に行って席を確保しよう。借金を払えない市民に対する判決を阻止するのだ。私は『市民の保護者』になるつもりだ。私は市民に忠実であり、保護した経験もあるので、資格があるだろう。もし諸君の指導者に別の称号を望むなら、それにすればよい。諸君の目的の実現に向けて、私はさらに精力的に働くだろう」。
彼が最後に言ったことは、国王になるための最初の一歩だったという説があるが、彼の周りの陰謀者たちの目的について明確なことはわかっていないし、国王になる計画がどの程度実行されたかもわかっていない。

 

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6巻13-15章

2024-06-21 11:00:29 | 世界史

【13章】
ぼう大な数の敵は自分たちの表面的な優勢を信じ、がむしゃらに攻撃を開始した。かけ声勇ましく、彼らは短槍を投げた。しかし近接戦になり、ローマ兵の闘志に燃える表情を間近に見ると、彼らは陣形を維持できなかった。最前列が引き下がると、続いて次の列が退き、最後に後列の援軍までが退いてしまった。その時ローマの騎兵が襲ってきて、彼らは新たな恐怖を感じた。あちこちで戦列が崩れ、全軍が動揺し、兵士たちは次々に逃げ始めた。前列の兵士が倒されると、後ろの兵士は次は自分がやられるると思い、後ろを向いて逃げ出した。ローマ兵の激しい攻撃にもかかわらず、抵抗した兵士たちもいて、その場合が敵の戦列をを切り崩した。やがて、ヴォルスキと同盟軍の兵士全員が武器を捨て、あらゆる方向に逃げ出したので、騎兵隊に追撃命令が出た。「一人ひとりを追いかけずに、集団をまとめて倒せ」。
騎兵は逃げ道をふさぐため、槍を投げ、前方を走り回った。敵兵がおびえている間に、ローマの歩兵が追い付いてきて、敵兵を次々に倒した。敗残兵の始末は日暮れまで続いた。同日、ローマ兵はヴォルスキの陣地を占領し、戦利品を獲得した。捕虜以外の戦利品はすべて兵士に与えられた。捕虜の大部分はヘルニキ族とラテン人の貴族だった。平民は傭兵と思われ、戦力の中心は貴族だった。ヘルニキ族とラテン人が国家としてヴォルスキ族を応援したのは明らかだった。捕虜の一部はキルケイの市民とヴェリトラエの植民者だった。捕虜はローマに送られ、元老院の重鎮が素性を調べた。捕虜が語った言葉は独裁官への返事と同じだった。彼らは祖国を捨てると言った。言い逃れのためそう言ったわけではなく、それが彼らの本心だった。
【14章】
元老院はヘルニキ族といくつかのラテン都市に宣戦布告するに違いなかったので、独裁官は陣地を引き払わなかった。ところがローマ市内の混乱が悪化し、独裁官が呼び戻された。反乱の首謀者の活躍が目覚ましく、騒動は異常なレベルになっており、日に日に悪化した。M・フリウスの動機は彼の行動から明らかであり、庶民のためという主張は手段に過ぎず、真の目的は冒険的で危険な革命であった。
優秀な兵士である百人隊長が借金のために引き立てられて行くのを見ると、M・フリウスは多くの支持者と一緒に中央広場に行き、高利貸しの無慈悲さを糾弾した。「高利貸しは惨めな平民を容赦しない。貴族は横暴で、平民を助けようとしない。私の戦友である市民が鎖につながれ、奴隷として売られるのを見ると、私が砦と丘を救ったことが無意味に思える。高利貸しと政府はガリア人と同じだ。彼らは私の友人を逮捕し、売り飛ばすのだ」。 
言い終わると、フリウスは百人隊長の債権者に負債金を支払った。支払われた銅の重量が確認され、百人隊長は自由になり、家に帰ることを許された。百人隊長はフリウスに感謝し、神々と人々に訴えた。「私を解放したマンリウス、平民の守護者であるマンリウスに報いてほしいい」。
群衆はがやがや言いながら百人隊長の周りに集まった。百人隊長はヴェイイ戦、ガリア戦そして最近の戦争で負傷していた。彼がそれらの傷の跡を群衆に見せると、群衆はさらに興奮した。百人隊長は語った。「私が戦場にいた時、また家を再建していた間、私は利子を払っていた。私が払った利子の合計は元金に相当する。しかし元金を払わない限り、再び利子が生まれ、負債は増え続ける。私は借金に押しつぶされ,地下に葬られた気分だったが、マンリウスのおかげで生き返り、再び地上の光を見ることができた。マンリウスは父親が子供に対するように親切にしてくれた。私は再び昔のように中央広場と仲間を見ることができる。私はマンリウスに私の残りの人生を捧げる。私にとって大切な家、祖国、神々を支えているのは彼だ」。
百人隊長の言葉は平民の心をつかみ、彼らはマンリウスの熱狂的な信奉者となった。ちょうどこの時さらに大きな混乱を引き起こす事件が起きた。マンリウスは自分の土地を競売にかけた。その土地はヴェイイにあり、彼の遺産の主要な部分だった。彼は言った。「私の土地がある限り、借金をかかえた市民が債権者に引き渡されることはない」。
人々は感激し、市民の自由を守る指導者の盲目的な信奉者となった。行く先が地獄であろうと、彼らはマンリウスについて行くつもりだった。マンリウスの扇動はこれで終わらなかった。彼は自分の家で演説しや;彼の家は中央広場の集会のようになり。大勢の市民が集まった。マンリウスは徹底的に元老院を誹謗中傷した。中でも彼は怪しげなことを臆面もなく断言した。「ガリア人がかき集めた黄金はどこへ行った。貴族が隠し持っているのだ。貴族は国家の土地を奪うだけで満足せず、今や国家の資金を盗んでいる。この事実が明らかになれば、平民の借金はきれいさっぱり消滅するだろう」。
集まった人々は借金が消えるという話に希望を持っただけでなく、支配者の恥ずべきやり方に怒った。ローマはガリア人に黄金を払って戦争を終わらせたが、その時、資金を市民の税でまかなった。その後ローマ軍がガリア人に勝利し、黄金を取り戻した。黄金は市民全員に返還されるべきなのに、貴族がそれを独占したのである。集まった人々は隠されている巨額の黄金を見つけ出したいと思った。ここでマンリウスは黄金がどこにあるか見当もつかなかったので、時間稼ぎをした。「黄金のある場所については、いずれ明らかにする」。
人々は黄金を探すことに夢中になり、他のことは頭になかった。もしマンリウスの話が真実だと判明したら、人々のマンリウスへの崇拝は無制限になるだろう。逆に嘘であると判明したら、人々の怒りが爆発するだろう。
【15章】
国内がこのように危機的な状態になったので、独裁官が戦地から呼び戻された。独裁官は国内の事情を聴いた。翌日彼は元老院を招集し、自分に付き添うよう命令した。また彼は集会の審判員のひな壇に独裁官の席を設けるよう言った。元老たちが護衛のように彼をとり囲むと、独裁官は役人に M・マンリウスを呼んでくるよう言った。裁判への出頭をを告げられると、マンリウスは群集に向かって、いよいよ決戦だと合図した。彼が裁判に現れると、大勢の群集が彼を取り囲んだ。元老と平民が向き合い、両者は自分たちの指導者を見つめ、まるで戦闘開始の合図を待っているように見えた。独裁官が「静粛に!」と言うと、両陣営は静かになった。独裁官は話し始めた。「すべての問題で元老院と私は平民と理解しあえると確信している。それを妨げているのは平民に誤解があるからにすぎない。誤解を生んでいる問題についてマンリウスを取り調べたい。M・マンリウス、君は借金が消えるという期待を市民に与えた。ガリア人から奪い返した黄金で債権者に支払えばよいというわけだ。現在黄金は有力貴族のところにあるからだ。私はこの計画に大賛成だ。だから私は君にその黄金を奪い返してほしい。めんどりが卵を温めるように、一部の貴族が大切にしている宝物は本来国家の物だ。だからぜひそれを取り返してほしい。もし君が失敗したら、私は君を投獄する。取り返せない理由は、君が国家の物を盗んだ者たちの仲間であるか、君の主張が嘘であるかのどちらかである。嘘の話で市民が希望を持つことを、私は望まない」。
マンリウスは次のように反論した。
「私の考えは間違っていない。独裁官が任命されるのはヴォルスキに対してではない。ラテン人でもヘルニキ族に対してでもない。私と平民に対してである。ヴォルスキと戦うことが貴族の利益になる場合、彼らは敵とみなされる。また嘘の理由をでっちあげ、ラテン人やヘルニキ族と戦争を始める。貴族はその戦争を急に中断し、私を攻撃し始めた。独裁官はたった今自分を高利貸しの保護者であり、平民の敵と宣言した。人々が私に感謝し、友情を持っていることが、私を犯罪人とみなす理由である。私を滅ぼすためである。A・コルネリウスと元老の方々、大勢の市民がが私を守ろうとしていることが あなた方にとって犯罪なのです。ならば、彼らを私から引き離せばよいではないですか。彼らに親切な行為をして、窮地から救えばよいのです。あなた方の資産の一部を彼らに提供し、彼らが債権者に引き渡されるのを防げばよいのです。また借金はなくても困窮する者たちがおり、豊富な富を用いて彼らをを助ければればよいのです。私はなぜあなた方に出費を勧めるのでしょう。金持ちはつつましい資産で満足すべきです。他人に金を貸し、利子で儲けようとしてはなりません。元金が返却されたことで満足すべきです。もしあなた方が利子を禁止したら、私の周囲に大勢の市民が集まることはないでしょう。借金に苦しむ人々について心を痛めているのは私だけでしょうか。この疑問に答える前に、渡しはもう一つの疑問に答えなければならない。カピトルの丘と砦を救おうとしたのは、なぜ私だけだったのだろう。私はあの時市民全体を救うためにできるだけのことをした。今私は一部の市民を助けようとしている。ガリア人から取り戻した黄金のありかについては厄介な問題に見えるが、実は簡単だ。あなた方は黄金のありかを知っているのに、なぜ私に探せと言うのか。あなた方が自分の財布を振ればお金が出てくるのに、なぜ他人にそれをさせようとする。あなた方が正直でないからだ。手品の種を明かせと命令したものの、観客に手品のからくりを知られてはまずいと気づいて困っている。あなた方が盗んだ物を私が見つけ出す必要はない。あなた方が市民に公表すべきだ」。

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6巻10ー12章

2024-05-31 12:30:27 | 世界史

【10章】
すでに占領された町を奪回するのは、困難に思われた。特にネペテは住民の裏切りによって降伏に至ったので、ネペテの住民はあてにならなかった。しかしカミルスはネペテの指導者に伝言を送り、戦闘を再開するよう、求めた。「あなた方はローマとの同盟を頼り、援軍を求めました。ローマは信頼に応えます。同盟に忠実である証拠を示してください」。
ネペテの指導者たちは次のように答えてきた。「私たちは無力です。何もできません。エトルリア兵が城壁と門を守備しています」。
ネペテは戦うつもりがなかったので、カミルスは郊外を略奪して、彼らを奮起させようとした。しかしネペテの人々は降伏の誓約に忠実で、ローマとの同盟を解消するつもりだった。そこでカミルスは周辺の土地のsげミから木の枝を集めさせ、城壁の下の溝を埋め、攻撃を開始した。壁にはしごをかけ、ローマ兵は城内に入りこみ、一回の攻撃で町を制圧した。カミルスは町民に布告した。「武器を捨てたネペテ人の安全を保障する」。約束は守られた。一方エトルリア兵は武器を捨てたばあいでも殺された。エトルリア兵がネペテを占領するのを助けたネペテ人は首を切られた。それ以外のネペテ人は財産を取り戻し、ローマの守備隊が町に残った。二つの同盟市を占領から解放すると、ローマ軍は執政副司令官に率いられローマに凱旋した。
同年ローマはラテン都市とヘルニキ族に説明を求めた。「この数年、同盟の約束を怠り、ローマに援軍を送らないのはなぜか」。
ラテン人とヘルニキ族は全国の代表者を集め、ローマへの返答を話し合い、次のように答えた。「我々の市民の一部がヴォルスキ側で参戦したのは、政府の決定によるものではありません。彼らはの過ちは処罰され、一人も祖国に帰っていません。援軍を送らなかったのは、ヴォルスキの攻撃に備えなければならず、余裕がなかったのです。連続した戦争の後も、ヴォルスキからの脅威は消えていません」。
これは巧妙な言い逃れであり、元老院は彼らに対し戦争の必要があると考えたが、今はその時期ではないと、思いとどまった。  
【11章】
次の 執政副司令官は A・マンリウス、P・コルネリウス、二人のクインクティウス・カピトリヌス(TとL)、L・パピリウス・クルソー(二回目の就任)、C・セルギウス(二回目の就任)だった。この年、困難な戦争が起こり、首都でさらに厄介な内紛が起きた。ヴォルスキが戦争を開始し、ラテン人とヘルニキ人がローマを裏切り、敵に回った。予想もしない人物が内乱を起こした。輝かしい名声を持つ貴族である M・マンリウス・カピトリヌスは自尊心が強く、自分を過大評価し、指導的な人々を見下していた。彼はある人物に対抗心を持った。ある人物とは、数々の実績を持ち、傑出した人間、ほかでもない M・フリウス・カミルスだった。カミルスが執政副司令官の中で特別な地位を占め、兵士たちから愛されていることに、マンリウスは不満であり、次のように述べた。「カミルスは破格な扱いを受け、自分と同じ地位にある人々に同僚として接しないで、彼らを召使いのように扱っている。物事を正しく評価する人間なら、カミルスは祖国の救済に失敗したことがわかるはずだ。ローマが蛮族に占領されていた時、カピトルの丘と砦を救ったのはカミルスではない、私だ。カミルスがガリア人を攻撃した時、ガリア人は油断していた。彼らは戦争は終わったと考え、黄金を探すのに夢中で、ていた。武装したカミルスの兵士たちは彼らを追い払い、砦を解放した。兵士たちはカミルスの栄光を独占し、それ以外の市民は栄光を共有できない」。
このような考えで頭がいっぱいになり、残念なことにマンリウスは直情的な性格だった。彼は、市民に対する影響力が自分にはないと気づき、平民に訴えることにした。彼は平民を味方にしようとした最初の貴族だった。マンリウスは護民官のやり方を真似し、元老院を批判し、平民に支持されそうなことを述べた。自分の信念や判断を後回しにして、平民の感情に訴える発言をした.つまり彼は尊敬される市民として行動するより、ならず者のようにふるまった。これまで護民官の扇動のテーマとなってきた土地分配の要求で満足せず、彼は借金の制度全体を破壊しようと試みた。借金の法律が最も人々を苦しめていたからである。借金により、貧困に陥り、名誉を失うだけなく、自由を失い、獄につながれることを多くの自由市民が恐れていた。蛮人によって焼かれた家の再建のため、人々は巨額の負債を抱えており、裕福な市民でさえ大きな負担だった。
ラテン人とヘルニキ族が同盟から離脱していている時に、ヴォルスキが戦争を始めたので、国家は軍事力の強化を必要としており、元老院は独裁官を任命した。確かにヴォルスキは脅威であったが、元老院がもっと恐れていたのはマンリウスの革命だった。コルネリウス・コッススが独裁官になり、T・クインクティウス・カミトリヌスが騎兵長官になった。
【12章】
独裁官は、外敵より国内の敵のほうが厄介だと知っていたが、徴兵を実施し、ポンプティン地方へ出発した。ヴォルスキがポンプティン地方に侵略したと報告があった。直ちにヴォルスキを排除すべきと独裁官が判断しのか、または勝利によって自分の威信を高めようとしたのかである。私の読者は何度も繰り返さるヴォルスキとの戦争に飽きていると思うが、この時代からあまり隔たっていない時に書かれた著作を調べた結果、私はヴォルスキ戦がいかに大変であったかを知ったのである。繰り返し敗北したヴォルスキがなぜ再び十分な数の兵士を集めることができたか、という大きな疑問があり、読者も不思議に思うだろう。この疑問はその後多くの歴史家が指摘しており、いくつかの説明がなされている。おそらくヴォルスキは戦争で多くの兵を失うと、次の戦争の戦争のために新しく兵士を集めたのだろう。このやり方はローマと同じであるが、ヴォルスキは広い地域から兵士を集めることができたので、毎回の戦争の兵士は異なる地域の出身者だった。ヴォルスキの広い領土に無数の自由民が住んでおり、彼らはローマを敵と考える点で一致していた。しかしヴォルスキの領土には小さな集落も多く、ローマ人奴隷を働かせて暮す小さな村からは少数の兵士しか集められなかった。ヴォルスキについて詳しいことはわかっていないが、カミルスのローマ軍に敗れ多くの兵士を失った後も、ヴォルスキは新たに大軍を編成できた、という点で著者たちの考えは一致している。そしてこの時、ヴォルスキ軍にラテン人とヘルニキ族、さらにはキルケイの市民とヴェリトラエの部隊が加わり、大きな軍勢となった。ヴェリトラエにはローマの植民地があった。
     ーーーー(日本訳注)ーーーーーー
 ⓵ ラテン地域の沿岸部とポンプティン地方の境界に港湾都市アンテイウムがあり、アンテイウムから海沿いに南東に下ると、キルケイがある。キルケイはポンプティン地方の南東端に位置している。キルケイの背後は山となっていて、山が隆起した時に対岸の小さな島が陸地とつながり、岬となった。ラテン地域のはずれにあるアンティウムも小さな岬の付け根にあるが、キルケイの岬はもっと大きい。キルケイに町を建設したのはギリシャ人であり、彼らは石を切り出し、組み合わせて市壁を作った。丘の上に市壁が残っており、アクロポリスの跡と考えられている。紀元前495年ローマの国王タルクイニウス・スペルブスがキルケイに植民地を建設した。共和制の時代、紀元前491年ヴォルスキ軍がローマの植民者を追い払った。前393年、ローマ軍がキルケイを奪回した。その後まもなくキルケイ市民がローマに反乱し、ヴォルスキと同盟した。本文で語られているのはこの時の反乱である。
 ②ヴェリトラエはローマの南東40kmにあるヴォルスキの都市。アルバ湖から南東に少し離れている。前494年ローマはヴォルスキに勝利し、ヴェリトラエに植民地を設定した。ーーーーーーーーーーーーーー(日本訳注終了)

ローマ軍はポンプティン地方に到着し、基地を築いた。翌日独裁官は天の兆候を占ってから、神々に祈り、奉納し、神々の援護を願った。彼が高揚した気分で兵士たちのほうに進むと、夜明けとともに兵士は武装を始め、出撃命令を待っていた。独裁官は彼らに言った。「諸君、我々は勝利するだろう。神々の考えを占った神官がそう予言している。だから希望を持って戦え。敵は我々より弱い。槍を持たず、剣だけで戦え。先走ってはいけない。一歩も引かず敵の攻撃を受け止めよ。敵が短い槍を投げても、楯に当たらるだけだ。敵が無秩序に前進してきたら、剣をふるってなぎ倒せ。神々が諸君の見方であることを忘れるな。神々が諸君を戦場に送り出したのだ」。
次に独裁官は騎兵長官に言った。「クインクティウス、戦闘が始まるまで動くな。両軍の歩兵がぶつかり、敵が自信をなくし始めたら、攻撃を開始し、敵の戦列を崩せ」。
ローマの騎兵と歩兵は独裁官の指示に従って行動した。独裁官の作戦は兵士たちを裏切らなかった。運は独裁官に味方した。

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6巻4-6章

2024-04-30 10:04:16 | 世界史

【4章】
カミルスは同時に3つの戦争に勝利し、ローマ軍は勝利の帰還をした。カミルスの二輪馬車の前を歩く捕虜の中で、断然多かったのはエトルリア兵だった。彼らを市場で売り、巨額の金が手に入ったので、神殿の建設費用を寄付した女性たちに還付し、残りは3個の黄金の深皿を作る費用に当てられた。3つの深皿にはカミルスの名前が刻印されたと信じられている。しかしその後、カピトルの丘が火事になる前、ユノーの神殿の下方のユピテルのお堂に安置された。
3つの戦争中に、ヴェイイ、カペナ、フィデナエの住民にローマ市民権が与えられ、土地が支給された。自宅を再建するのをあきらめ、ヴェイイに移り、空き家を占拠した住民に対し、元老院はローマに戻るよう命令した。彼らは抗議し、命令に従わなかった。元老院は帰還の期限を定め、その日までに戻らない者は犯罪者であると宣言した。ヴェイイに移った人々は犯罪者になるのを恐れ、ローマに戻ることにした。彼らは団結して行動していたので、帰るという意見が多数になると、全員帰った。ローマの人口は元に戻り始め、政府の資金援助もあり、至る所に家が建った。公共事業監督官は個人の家の建設を国家の事業のように見なした。市民は住む場所が必要だったので、急いで家を完成させた。一年もたたずに、ローマは再建された。年末になり、翌年の執政副司令官が選ばれた。彼らの名前は T・キンキナトゥス・キンキナトゥス、Q・セルヴィリウス・フィデナス(5回目の就任)、ユリウス・ユルス、L・アキリウス・コルヴス、L・ルクレティウス・トゥリキピティヌス、Ser・スルピキキウス・ルフスだった。
アエクイ族に対して軍隊が派遣された。アエクイ族はすでに降伏しており、戦闘のためではなく、徹底的に略奪・破壊して将来戦う力を奪うためだった。別の軍隊がタルクイニアの支配地に派遣された。(タルクイニアはティレニア海沿岸のエトルリア都市で、現在はラツィオ州の北端に位置し、トスカナ州に近
い)。
ローマ軍はコルトゥオサという町とコンテネブラという町を攻撃し、占領した。コルトゥオサは戦闘なしに片づけたが、コンテネブラは数日間包囲に耐えた。コンテネブラの兵士は昼も夜も休みなく戦い続け、疲れ果ててしまった。ローマ軍は6個の部隊に分割され、交代で戦い、一つの部隊は6時間戦い、その後休憩に入った。コンテネブラは兵士の数が少なく、同じメンバーで、元気なローマ兵を相手にしなければならなかった。ついに彼らは降伏し、門を開き、ローマ軍が中に入れた。執政副司令官たりは戦利品の売上金をすべて国家に納めると決めていたが、発表するのが遅かった。執政副司令官たちがためらっているうちに、兵士たちは戦利品を自分の物にしてしまった。無理に取り上げようとすれば、へいしたちに憎まれるのが明らかだった。
ローマ成長していた。市民の家が増えただけでなく、この年カピトルの丘のふもとに、四角の石で土台が造られ、全体的に壮大なローマの街並みの中でも、特に目立った。
【5章】
市民が自宅の再建に取り組んでいた時、護民官が市民集会を開き、農地分配を提案して、市民を引きつけようとした。護民官はポンプティン地方の獲得について語った。(ポンプティン地方はティレニア海沿岸部で、ヴォルスキの領土に近い)。
「カミルスがヴォルスキを徹底的に打ちのめしたので、ポンプティン地方がローマの領土になるのは確実だ。貴族がこの土地を狙っており、平民にとって危険な敵はヴォルスキではなく、貴族だ。ヴォルスキは優勢で武器がある時に侵入するだけだが、貴族は国家の土地を手に入れてしまう。貴族の手に渡る前に、土地を市民に分配しなければ、平民には何も残らないだろう」。
しかし平民は護民官の言葉に無関心だった。彼らは自宅の建設に忙しかったのである。市民集会にはわずかの市民しか集まらなかった。平民は自宅の建設に財産を使い果たし、別の土地を開発する資金がなかった。
ローマは宗教的な勤めを最重要とする国家だったので、最近の災難は有力者たちに宗教的な恐怖心を与えた。彼らは将来について明るい予兆が現れるのを願い、暫定最高官を任命した。立て続けに三人が暫定最高官に就任した。M・マンリリウス・カピトリヌス、Ser・スルピキウス・カメリヌス、ヴァレリウス・ポティトゥスが順番に暫定最高官になり、最後のヴァレリウスが執政副司令官の選挙を実施した。選ばれたのは、L・パピリウス、C・コルネリウス、C・セルギウス、L・アエミリウス(2回目の就任)、L・メネニウス、L・ヴァレリウス・プブリコラ(3回目の就任)である。彼らはすぐに就任した。ガリア戦争の時に建設を約束したマルスの神殿が T・クインクティウスによって建てられた。クインクティウスはシビルの預言書の保管者だった市民県を与えられた人々は新しく4つの部族を構成した。ステラティン、トロメンティン、サバティン、アルニアンが加わった結果、部族の総数は25になった。
【6章】
護民官シキニウスがポンプティン地方の土地の分配について再び話をした。昨年と異なり、多くの市民が集会に集まり、土地を切望した。元老院ではラテン人及びヘルニキ族との戦争について話されたが、それより重要な戦争が迫っていたので、後回しにされた。エトルリア人が戦争を企てたのである。元老院は再びカミルスに頼った。カミルスは執政副司令官に任命され、5人の執政副司令官が彼に従うことになった。5人の名前は Ser・コルネリウス・マルンギネンシス、セルヴィリウス・フィデナス(6回目の就任)、L・クインクティウス・キンキナトゥス、L・ホラティウス・プブリウス、P・ヴァレリウスである。年の初めに、ポンプティン地方から避難民がやってきて、「アンティアテスが戦争を始めた。ラテン人の諸都市が彼らに援軍を送った」と語った。市民はこの事件に関心を奪われ、もう一つの敵、エトルリアを忘れた。
(日本訳注:アンティアテスはアンティウムにあるローマの植民地だったが、ヴォルスキに奪われてしまった。アンティウムはラテン人の古い都市で、アルバ湖の南方、ティレニア海の沿岸にあり、アンティウムの東はポンプティン地方)。
ラテン諸都市は弁明した。「政府は援軍を送っていない。市民が志願兵としてどこかへ行くのを禁じていないだけだ。現在戦争を軽く考えるラテン都市はない」。
元老院はこのような危機にカミルスがいることを天に感謝した。元老院は彼を独裁官に任命すべきだったと後悔した。戦争が迫っている時、一人の人が全権を握るべきだ、とカミルスの同僚たちも考えていた。同僚の執政副指令官たちはカミルスを上官と考えていた。カミルスの地位を高めても、自分たちの地位を貶めることにはならない、と彼らは信じていた。元老院は執政副指令官たちの態度を心から歓迎した。謙虚なカミルスは予期していなかった展開に戸惑いながら、同僚たちに感謝し、次のように述べた。「ローマの人々によって実質的に4度目の独裁官に任命され、責任の重さを痛感します。元老院が私に重い任務を与える決定をしたことは、光栄です。また同僚諸氏が私に示した敬意により、大きな責任を感じます。もし私がこれまで以上に積極的にかつ用心深く行動し、自分自身を越えるように努めます。同僚諸氏が驚くべき寛大さで私を高く評価してくれたことを裏切らないようにしたい」。
アンティアテスとの戦争については、ローマが敗北する危険は少ないとしても、厳しい事態になっていた。カミルスは同僚たちに助言した。「何があっても、恐れてはいけない。小さなことも見逃してはなららない。周囲の国々がローマを憎み敵意を抱いており、ローマは四方から包囲されている。これらの敵に対処するには複数の将軍と軍隊が必要である。それで、ヴァレリウス、君は作戦と指揮にあたり私を補佐し、私と一緒に複数の軍団を率いてアンティアテスと戦ってほしい。セルヴィリウス、君は第2軍を指揮して、ローマの市外に陣地を築き、敵のいかなる動きにも即応してもらいたい。最近我々の同盟国を襲ったエトリアの再来、および不穏な動きを始めたラテン人とヘルニキ族の攻撃に備えてもらいたい。君の祖父に匹敵する形で戦争を指導してもらいたい。もっとも君自身何度も最高官に就任しているのだから、助言は不要かもしれない。クインクティウス、君は老人や病気を理由に兵役を免除されているものを招集して、第3軍を編成してくれ。首都ローマを防衛してほしい。ホラティウス、君は武器と防具、トウモロコシなど戦争に必要なすべての物を用意してくれ。コルネリウス、君は我々を代表して行政委員会の議長に就任してほしい。宗教、市民集会、法律、など、市政に関するすべてを監督してほしい」。
全員が喜んでそれぞれの任務を果たすと誓った。軍事作戦の共同司令官となったヴァレリウスが言った。「私は M・フリウスを独裁官とみなし、私は彼の騎兵長官として活動したほうがよいと思います。唯一無二の司令官のもとで戦うことにより、勝利が約束されるのです」。
元老たちは非常に喜んだ。「戦争と平和、市政のすべてについて我々は大きな希望を持てる。現在の執政副司令官たちの間には驚くべき調和と信頼があり、独裁官を必要としないほどだ。彼らは互いに最適なやり方で命令し、又は従う用意があり、国家の栄光を優先し、自分の栄誉を後回しにしている」。

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6巻1-3章

2024-04-17 20:16:22 | 世界史

【6巻1章】
建国から占領までのローマの歴史については、最初国王が統治したが、後に王制が廃止され、執政官がローマを統治した。執政官の時代には一時的に独裁官に強い権限が委ねられることもあった。また数年間10人委員が執政官にとって代わった。その後執政副司令官が最高官になった。また5巻までは、外国との戦争や国内の激しい闘争が主な話題となった。しかしこれらの出来事には不明確な点も多い。遠い昔の出来事であり、長い年月の経過が私たちの理解を困難にしている。また過去の出来事について、唯一の信頼できる記録である年代記はもともと少ししか存在せず、しかもそれらはガリア人による大火で失われてしまった。事件についての神官の記述とその他の国家の記録、そして私人の記録が焼失したのである。ローマは根こそぎ切られた樹木と同じであり、再び無から再出発しなければならなかった。新しい苗木は美しく成長し、多くの実を結ぶだろう。ローマ市内の出来事と戦争について、時間軸に沿って正確に、あいまいさがない表現で記録され、公開されるだろう。破壊から立ち上がるのに貢献した人々が引き続き再出発の国家を指導した。再建を担った人々の中心となった M・フリウスは一年間指導者の地位に留まることを求められた。翌年、執政副司令官は最高官の選挙を主宰することを許されなかった。彼らが最高官だった時、ローマが占領されたのであり、引き続き選挙を主宰することは論外だった。暫定最高官が任命されることになった。市民は家の再建に取り組んでいた。これは骨の折れる仕事である上に、早く完成しなければならなかった。ちょうどこの時、Q・ファビウスが訴追された。彼はすでに執政副司令官を辞任していた。彼を訴えたのは護民官 Cn・マルクスだった。ガリア人がクルシウムに降伏を要求していた時。クルシウムを弁護するため、Q・ファビウスがガリア人のもとに派遣されたが、彼は国際法に違反して交渉相手に暴力をふるった。この事件について、護民官はファビウスを告訴したのである。厄介な裁判が始まろうとしていた時、Q・ファビウスが急死した。多くの人が、彼は自殺したと考えた。
P・コルネリウスが暫定最高官に就任したが、すぐに M・フリウス・カミルスに交代した。M・カミルスが執政副司令官の選挙を実施した。選ばれたのは以下の6人だった。L・ヴァレリウス・プブリコラ(二度目の就任)、L・ヴェルギニウス、P・コルネリウス、A・マンリウス、L・アエミリウス、L・ポストゥミウス。
就任後、彼らは真っ先に宗教について元老院に提案した。「占領時の混乱の中で多くの書類が散逸した。条約と法律の文書を見つけなければならない。法律については、12表法、さらには王制の時代の法律を探し出さなければならない」。
元老院はこれらの文書を探し出し、それらの一部を市民に公表するよう命令した。しかし宗教的な秘儀に関する文書は神官たちによって秘密にされた。神官たちは市民の宗教心を制約したかったのである。続いて執政副司令官たちは物忌みの日(宗教的な理由で日常的な活動を停止する日)について話し合った。7月18日は二つの災難が起きた。クリメラ川(テベレ川の支流で、ローマの北10kmで合流)の戦闘でファビウス家の人々が全員戦死した。その10年後、アリア川の戦闘でローマ軍が敗北し、ローマ占領の原因となった。二つ目の災難については、アリア川の日と呼ばれるようになり、この日には国家も個人も仕事を休むようになった。アリア川の戦闘について、次のように伝えられているという。
「戦闘の前日の16日(イデスと呼ばれる月の中日の翌日)、執政副指令官スルピキィウスは、勝利を祈願せず、神々に奉納しなかったので、ローマ軍は神々の援護が無いまま戦うことになった。このため毎月の16日は厄日とされ、宗教的な行事をしないよう命令されと言われている。また毎月の2日と7日も宗教的な厄日とされた。
(日本訳注)2日と7日が厄日とされた理由はわからない。ローマには長い月と短い月があり、長い月の7日は短い月では5日に、長い月の15日は短い月では13日になる。長い月は3月、5月、7月、10月で、残りは短い月。なお2日は数字でなく、初日の次の日と書かれており、短月でも変わらない。
英訳に納得がいかず、原文のラテン語をネットの翻訳サイトで調べたが文章翻訳はやはりよくわからなかった。ラテン文の単語を仏訳してくれるサイトがあり、それをにらめっこしながら、最後にローマの日付を確認したら、長月と短月で日付がずれることを発見した。なお私がこれまで翻訳してきた英訳はかなり原文に忠実で、今回はローマの日付け自体がわかりにくかったようだ。(日本訳注終了)
【2章】
ローマの嘆かわしい破壊の後、人々は復興のために最善の方法を選んでいたが、間もなく別の危機が彼らを襲った。宿敵ヴォルスキ族がローマを消滅させようと戦争を始めた。同時に貿易商人がエトルリアの不穏な動きを伝えた。エトルリア人の最高神ヴォルトゥムナ(女神で、黄泉の国に住む)の聖地ヴォルシニ(現在のオルヴィエトの近く)に、エトルリアのすべての州の指導者が集まり、戦争を前に結束を誓ったというのである。
(オルヴィエトはウンブリア州南西部にあり、ラツィオ州との境付近)。このような時に、ラテン人の諸都市とヘルニキ族がローマとの同盟を解消したので、ローマの市民は震えあがった。レギッルス湖での戦闘後、これらの同盟者はローマとの友好関係を100年間忠実に守ってきた。四方からローマに脅威が迫っていた。ローマは敵国から憎まれ、同盟国から軽蔑されていることが明らかになった。占領と破壊からローマが立ち直るのに貢献した人物に頼るしかないと元老院は考え、F・フリウス・カミルスを独裁官に任命した。カミルスはC・セルヴィリウス・アハラを騎兵長官に任命した。カミルスは裁判を停止し、すべての商売を休止させてから、兵役年齢の市民を徴兵した。兵役年齢より年上でも元気な市民は司令官への忠誠を誓い、別枠の百人隊を編成した。徴兵が終わり、装備が準備されると独裁官は3個師団を編成した。第一師団はエトルリア軍に対応することになり、ヴェイイの領土に向かった。指揮官は L・アエミリウス執政副司令官だった。第二師団はローマの防衛にあたり、城壁の外に陣地を築き、周囲に塹壕を掘った。マンリウス執政副司令官が第二師団を指揮した。独裁官は第三師団を率いてヴォルスキ軍に向かって進軍し、アド・メキウムという場所に至り、ヴォルスキの陣地を攻撃した。アド・メキウムはラヌビウム(アルバ湖の南)に近かった。ガリア人との戦闘でローマ兵が全滅したとヴォルスキ人は考え、ローマ軍を完全に見下していた。ところが、ローマ軍の司令官がカミルスであると聞いて、彼らは相当あわてた。ヴォルスキ兵は基地の周囲に土塁を築き、土塁の外側に木材を重ねて防壁とし、いかなる場所からもローマ兵が侵入できないようにした。カミルスはこれを見るとすぐに、木材に火を放てと命令した。この日は風が強く、ヴォルスキの陣地に向かって吹いていた。間もなく木材は燃え尽き、進入路ができた。火の勢いが陣地に向かい、熱気と煙と緑の枝のぱちぱち燃える音がヴォルスキ兵を襲った。ヴォルスキ兵が狼狽(ろうばい)している間に、ローマ兵は、燃えた木材の上を恐る恐る歩いていたが、木材の障壁を通り抜けると、次の土塁は難無く乗り越え、陣地に躍り込んだ。ヴォルスキ軍は粉砕され、兵たちはばらばらに逃げた。陣地の占領後、カミルスは戦利品のすべてを兵士たちに与えた。厳格なカミルスに寛大さを期待していなかった兵士たちは非常に喜んだ。逃げたヴォルスキ兵を追跡しながら、ローマ軍はヴォルスキの領土を端から端まで略奪した。70年間ローマに挑み続けたヴォルスキはついに降伏した。ヴォルスキを征服したローマ軍はアエクイの土地に向かって移動した。アエクイ族も戦争を計画しており、ボラエ(ローマの東35km、ラビクムに隣り町)に集結していた。ローマ軍はアエクイ軍を急襲し、彼の陣地を攻略し、ボラエを奪取した。
(日本訳注;ローマ軍の編成について師団という表現が用いられたのは初めてである。一般に軍団は複数の師団からなる。ガリア人によるローマ破壊後のローマは、徴兵できる市民の数が減っており、軍団を編成できなかったようである。)
【3章】
勝利をめざすローマ軍の原動力はカミルスだった。ローマ軍が勝利に向かっていた時、別の戦場では、恐ろべき危機が迫っていた。エトルリアのほぼすべての都市が武器を取り、ローマの同盟市ストゥリウムを包囲した。(日本訳注;ストゥリウムはエトルリア人の町で、ローマの北50km、ヴィテルボの南30km。現在ヴィテルボはラツィオ州ヴィテルボ県の県都。)
ストゥリウムの使節がローマの元老院にやって来て、窮状を訴え、助けを求めた。元老院は独裁官に至急ストゥリウムの救援に向かうよう求めた。しかし独裁官は先延ばしした。ストゥリウムの状況はこれ以上待てないほど悪化していた。ストゥリウムは小さな町で、戦闘員が少なく、彼らは眠る時間もなく防衛を続け、疲れ切っていた。そのうえ、包囲された町の過酷な宿命、食料の欠乏に襲われた。ストゥリウムは一定の条件と引き換えに降伏した。市民は武器を捨て着のみ着のままで家と暖炉を捨て、故郷を後にした。故郷を追われた人々の哀れな行列が続いた。この時ようやくカミルスのローマ軍が到着した。悲しみに打ちひしがれた人々はカミルスの足元に身を投げ出した。市民の苦境を代弁し、指導者がカミルスに助けを求めると、女性と子供たちが泣き出した。女性と子供たちは夫や父とともに亡命者となり、とぼとぼ歩いてきた。ローマぐんのの到着が遅れたことが、彼らの悲しみの原因だったので、カミルスは彼らに同情した。カミルスは彼らにこの場所に留まるように言ってから、ローマ兵に向かって、「武器以外の荷物をここに置け」と命令した。カミルスは少数の護衛兵をその場に残し、身軽になった兵士を率いてストゥリウムに向かった。カミルスの予想通り、ストゥリウムは無秩序だった。勝利したエトルリア兵は浮かれていた。勝利後の軍隊が規律を失うのは普通だった。門は開いたままで、衛兵はいない。兵士たちは家々から奪った物を抱えて、道路をぶらぶらしていた。その結果、勝利したエトルリア軍はその日のうちに敗者になっってしまった。彼らは再結集する時間もなく、武器を取る時間さえなかった。彼らは戦わずして、新しい敵によって殺された。逃げ惑うエトルリア兵は門を出て郊外に出ようとしたが、門は閉まっていた。ローマ兵が町に入った時点で、独裁官は門を閉めさせた。騒ぎを知って武器を取ったエトルリア兵もいたし、団結して戦おうと呼びかけた兵士も多かった。彼らは必死だったので、激しい戦闘が始まりそうだった。この時、ローマの広報兵が市内を駆け回り、大声で言った。「武器を捨てよ。武器を持たない者の安全を約束する」。
追い詰められ、抵抗を決心した者たちは希望を見いだし、市内の各地で兵士たちは武器を捨てた。幸運なことに、安全な結末となった。降伏した兵士は非常に多く、いくつかの場所でめんどうだった。日暮れ前に、ストゥリウムの人々は自分たちの町を取り戻した。負傷した市民はいなかったし、町も破壊されずにすんだ。生命を保証されたエトルリア兵が戦かわずして降伏したからである。

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5 巻53ー55章

2024-03-31 18:09:33 | 世界史

【53章】
カミルスは話を続けた。
「諸君は反論するかもしれない。『市内のすべてが蛮人に汚されてしまった。清めの生贄(いけにえ)をささげても、元には戻らない。都市が破壊され、火事で多くの家が消失してしまった。貧しい平民は家を再建できない。このような状況では、ローマを捨て、ヴェイイに移住するしかない。ヴェイイは汚されず、元のままだ』。
しかし私が言わなくても、皆さんは知っているはずだ。ヴェイイへの移住はもっともらしい言い訳に過ぎない。真の理由は別にある。ヴェイイへの移住は初めて持ち上がったわけではない。蛮族の襲来以前にも提案されたことがある。その時は公共の建物も個人の家も破壊されていなかったし、ローマは安全だった。護民官の諸君!あなたたちは、あの時はやめてよかったが、今度はやるべきだと考えているのだろう。しかしそれは間違いだ。私がこれから言うことに、驚かないでほしい。私の考えは諸君とかけ離れているので、よく考えて理解してほしい。ローマが無事だった時は移住することも可能だったが、今はだめだ。あの時我々は勝者として獲得した都市に移住するので、後世に名誉ある行為と伝えられたろう。現在我々が移住するのは、ガリア人にとって栄光となり、我々にとって汚辱であり、痛恨の極みだ。我々は勝者としてローマを去るのではなく、敗者として去るからだ。アリア川で敗北したローマ軍の逃亡と同じだ。ローマが占領され、カピトルの丘が包囲されたことと同じだ。首都を防衛できず蛮人に占領されたことはローマにとって致命的だった。市民は家庭の神を捨て、町を去るしかなかった。しかしガリア人は最後に敗れ、彼らはローマを滅亡させることはできなかった。我々がローマを再建できないはずがない。我々がローマを捨てたら、ガリア人が再び襲来し、ローマに住むかもしれない。彼らは信じられないほど人数が多いので、土地が不足しているからだ。諸君は、ローマがガリア人の土地になってもよいのか。ローマにやって来るのはガリア人とは限らない。ローマの仇敵、ヴォルスキやアエクイがやって来てローマを自分の町とするだろう。彼らがローマ人となり、諸君がヴェイイ人になってもいいのか。それとも荒野となったローマを敵には渡さず、自分たちで所有したいのか。しかしそれは恥ずべきことだ。諸君が破廉恥で犯罪的なことを考えるのは、家を再建するお金がないからか。新しい家を間口の広い立派な建物にしようとするのは誤りだ。我々の祖先は掘っ立て小屋に住んでいた。我々も、とりあえず掘っ立て小屋でよいではないか。神殿と神々に取り囲まれて、牛飼いや農民のように粗末な家に住もうではないか。祖国を失った民になってはならない。牛飼いや難民だった我々の祖先は数年で新しい町を建設した。その頃のローマは森林と沼地だった。現在の我々も消失した家を再建する苦労を惜しんではならない。幸い、砦とカピトルの丘はそのままだし、神殿もこれまで通り立っている。もし自分の家が焼けたら、多くの場合家を建て直すではないか。それと同じで、町全体が消失したら、市民全員で再建すればよいではないか。
【54章】
「仮にヴェイイに移住したとして、犯罪又は事故で火事が発生したら、どうするのだ。その時たまたま風が強かったら、町の大部分がに延焼してしまうだろう。そうなったら、諸君はフィデナエやガビー(ローマの東18km)に移住するのか。または別の移住先を探すのか。我々の祖国ローマ、生まれ育った土地ローマは諸君にとって特別な場所ではないのか。諸君の祖国愛の内容は、自分の家屋だけか。祖国とはそのようなものではない。私は亡命生活を思い出すのがつらい。私に対する不正な判決を思い出すのはもっとつらいが、生まれ故郷のローマの良い思い出もある。七つの丘、平野、テベレ川、そして空である。これらの自然は子供の頃から慣れ親しんだ風景である。これらの風景がローマの人々にとっても大切なはずであり、彼らもローマに残りたいと思うだろう。ヴェイイに移住してから故郷を懐かしく思っても、手遅れだ。神々と祖先がこの地を選んだのは、理由がある。いくつもの丘が町を取り囲み、西側を川が流れている。テベレ川のおかげで、奥地の国々の産物が運ばれて来るし、川を下り海へ出れば、海外の供給品を輸入できる。テベレ川により海と結ばれているので、有益な目的に役立ち、海に面していないから、外国の船に襲われる危険がない。ローマはイタリアの中央に位置しているので、領土を拡大するのに不思議なくらい適している。ローマは若い都市なのに、すでに大都市である。市民の皆さん! 今年は建国から365年になります。長い間ローマは古い国家の間で戦ってきました。また個別の都市やアエクイ族やヴォルスキ族と戦い、堅固な城壁に守られた多くの町と戦ってきました。中でも強大な敵はエトルリアでした。北イタリアの大国エトルリアはティレニア海とアドリア海にまたがる領土を有し、海上でも陸でも戦うことができます。ローマはこれらの大小の国に勝利してきた。これはローマの運命だったのです。ところが今になって皆さんはローマを捨てようとしている。まったく意味不明だ。皆さんの考えを理解できる者はいない。ローマ人の勇気はヴェイイに移っても失われないかもしれないが、ローマに与えられた特別の運命は他の場所に移せない。昔カピトルの丘で人間の頭蓋骨が発見された。人間の頭が発見された場所は世界の支配権の所在地であるという予兆であった。当時のローマの人々はそのように宣言した。カピトルの丘を切り開いたとき、ユベンタス神(若者と再生の女神)とテルミナス神(境界を守る神)の予兆が現れ、我々の祖先は喜んだ。ユベンタス神もテルミナス神もローマを去ろうとしないだろう。ヴェスタ神も永遠の火が去ることを許さないだろう。天から降ってきた盾とその他の神々も、皆さんがローマに留まるなら喜ぶだろう」。
【55章】
カミルスの演説は聴衆に深い印象を与えたと伝えられている。特に人々の宗教心に訴えた部分がそうだった。市民集会が決定に至る前に、元老院がこの問題について決定した。カミルスの演説後、元老院が審議していた時、兵士の集団が守備地から帰ってきて、中央広場を行進した。彼らが市民の会議場に入った時、百人隊長が旗手に止まれと命令した。「軍旗をここに立てよ。ここで止まるのがよい」。
百人隊長の声を聞いて、元老たちが元老院から飛び出して来た。彼らは喜びながら言った。「この場所に軍旗を立てたのは、神々が我々に与えた予兆だ」。        大勢の市民が集まってきて、元老の言葉に賛同した。ヴェイイへの移住は取りやめとなった。市民は家屋を立て直すことにし、とりあえずやれるところから始めた。タイルの購入費は国家が支給し、市民は自由に木材や石材を切り出すことが許された。その代わり、彼らは一年以内に家を建てなければならなかった。再建を急ぎ、無計画に始めた結果、道路がまっすぐにならなかった。土地の所有権があいまいになり、空き地に次々と家が建てられた。昔の下水道は公共の土地に引かれていたが、今や家々の地下を走るようになった。都市の構造は計画されず、行き当たりばったりに家を建てたので、難民が集まった場所のようだった。(5巻終了)

 

(日本訳注)ーーー【5巻について】ーーーー
ローマ史の中でも、5巻は特に劇的な事件を扱っている。ローマ史には強烈な性格の人物が何度か登場するが、5巻でも、上杉謙信のような人物が数人登場する。中でもカミルスは行動から彼の性格がわかるだけなく、彼のl言葉が長く引用されており、彼の精神についてよく理解できる。彼の行動原理は、人間の世界の出来事を決定するのは神々であるという信念である。彼は地上の現実に沿って行動しない。現実無視で突っ走り、迷わない。常人には理解できないことが、彼には見えており、その知見に従って行動する。ローマの歴史の節目で彼のような人物が何度か登場してきたが、ローマが最大の危機に直面した時代に、カミルスの精神が鮮明に浮かび上がった。(日本訳注終了)

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