たぬきニュース  国際情勢と世界の歴史

海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

5巻50-52章

2024-03-19 21:48:15 | 世界史

【50章】
カミルスは宗教的な務めを厳格に果たさないと気が済まなかったので、不死の神々を敬う法律の制定を元老院に求めた。法律の条項は以下の通りである。
⓵ 敵が立ち入ったすべての神殿は修復され、清められねばならない。境内の境界は変更されねばならない。清めの儀式の作法について、執政官が聖なる書物を参照して確認しなければならない。
② エトルリアの都市カエレ(ローマの北西55km、ティレニア海沿岸)の市民と友好的な関係を築かなければならない。ローマの宗教的な宝物と神官たちがカエレに避難したからである。カエレの市民の親切な行為により、神官たちは神々への奉仕を続けることができた。
③ カピトルの丘で祝祭が開催されねばならない。最高神ユピテルが危機の中で御自身の丘と砦を守ったからである。独裁官である私は祝祭(=競技会)を執り行う神官団を、丘と砦に住む市民から選ぶ。
④ 蛮族の来襲を予言する夜の声が無視されてしまった。予言した心霊をなだめるために、新道に告知の神(アイウス・ロクティウス)の神殿を建てなければならない。
間もなく、告知の神の神殿が建てられることになり、神殿の建設費のために、ガリア人に支払う予定だった黄金と戦争前に神殿から運び出された黄金がユピテルの神殿に集められた。その他の神々にも感謝の奉納をする必要があったが、個々の神殿にどれだけ奉納すれればよいかわからなかったので。すべての神々が神聖であると宣言してから、これらの神々への奉納金を一括してユピテルの神殿の下に保存することにした。ところが資金が枯渇していたので、信心深い女性たちに頼ることになった。ガリア人に支払う平和の買い取り金が国庫に不足していた時も、女性たちの献金のおかげで神殿の宝物を渡さずに済んだ。女性たちは市民から感謝され、彼女たちが埋葬される際に弔辞が述べられることになった。埋葬の際弔辞が述べられるのは男性だけだった。元老院のもとに献金が集まり、神々へ奉納された。
護民官が繰り返し演説した。「廃墟となったローマを捨て、ヴェイイに移住しよう、ヴェイイは我々を待っている」。
カミルスはすぐに演説会場に出向いた。元老全員が彼に同伴した。
【51章】
カミルスは次のように述べた。
「市民の皆さん! 護民官に反対するのは私にとって心苦しいのです。アルデアでの亡命生活はつらかったのですが、護民官と争わずにすむのが唯一の慰めでした。たとえ元老院が1000回決議をしても、市民会議が決議しても、私は祖国に帰るつもりはなかったのです。現在も私の気持ちは変わりませんが、皆さんの運命が悪いほうに向かおうとしているので、私は黙っていられないのです。大切なのは、我々の祖国が同じ場所にとどまり、安定することです。単に私が現在の場所にとどまりたいというわけではありません。戦争が起きない限り、私は国家の問題に口を出さず、静かに暮らしたいのです。戦時に出征しないのは、他の人にとっては不名誉なことかもしれませんが、私にとっては犯罪です。年をとっても同じです。我々が、敵に包囲された祖国を奪い返したのはなぜでしょう。祖国を解放したのはなぜでしょう。今になって祖国を捨てるためですか。ガリア人がアリア川で勝利し、ローマを占領した時でも、ローマ人はカピトルの丘と砦に踏みとどまりました。神々もローマにとどまった。それなのに、ローマが勝利し、首都を奪回した今になって、カピトルの丘と砦を放棄しようとする。運命がローマに味方している時に、諸君はローマを廃墟にするのか。諸君がやろうとしていることはガリア人がやったことより、ローマにとって致命的だ。
ローマが建国された時、まだ宗教は確立していなかったが、新しい国家は次世代から世代へ受け継がれた。このころすでに天の摂理がローマに働いていた。今では神々を敬う気持ちのない市民はいないはずだ。ここ数年ローマでは繁栄と荒廃がめまぐるしく入れ替わった。これを見れば、神々の導きに従えばうまく行くし、それを無視すれば災難が降りかかることがわかるはずだ。何よりもまず、我々はヴェイイとの戦争を教訓にしわなければならない。我々は長い間ヴェイイと戦い、苦労してきた。神々の示唆に従い、アルバ湖の水を抜いた結果、やっと我々はヴェイイに勝利した。また我々に降りかかった未曽有の災難も同じ理由で起きた。ガリア人は突然やってきたのか。そうではない。天の声が彼らの襲来を予告したのだ。天の声を聴いた市民が報告したのに、ローマの最高官が彼の報告を無視した。ガリア人のところに派遣されたローマの使節が国際法に違反し、暴力をふるった。しかもローマの執政副司令官は宗教心が薄く、使節を罰せずに許した。このようないくつもの過ちが戦争を招いたのである。ローマ軍は破れ、首都が占領され、和平のために金を払うことになった。神々がローマに罰を与えたのだ。これはローマに対する教訓であり、、世界に向けての教訓だ。困難の中で、ローマの人々は神々への信仰の重要さを思い出し、最高神ユピテルが住むカピトルの丘に逃げこんだ。首都のすべてが破壊されたが、神殿の宝物だけは守られた。宝物の一部を地面に埋め、残りを近隣の都市に運び去った。神々と人間に見捨てられたにもかかわらず、ローマは神々への礼拝を中断しなかった。その結果我々はローマを奪回することができた。また、失われたローマの威信と名声を回復することができた。物欲で目がくらみ、条約を無視し、誠実さを失ったガリア人は獲得した金の量を確認していたが、そこで運が尽き、ローマ軍に敗北し、全滅した」。
【52章】
カミルスは話を続けた。
「神々を敬う気持ちがあるか無いかで、物事の流れはこのように変わる。市民の皆さん! 以前の罪と敗戦が招いた破壊からやっと立ち上がろうとしている時に、あなた方はなんと恐ろしい犯罪を計画しているのでしょう。我々の都市ローマは神々の承認と祝福により建設されました。天は神々の加護を我々に知らせました。市内のいたるところに、宗教的なゆかりのある場所や神の存在を示す場所が存在します。決められた日に、決められた場所で生贄(いけにえ)をささげなければなりません。市民のみなさん! あなた方はこれらの神々を棄てるのですか。国家の神々であると同時に市民の神々であり、日々神棚に向とかって拝んでいる神々を棄てるのですか。皆さんは C・ファビウスとなんと違うことか。カピトルの丘が包囲されていた時、偉大な若者、ファビウスは砦から出て、槍を構える蛮族の前を平然と通り過ぎ、キリナル神(槍と戦士の神、サビーニ族がローマに伝えた神)にいけにえを捧げました。蛮族も彼を称賛しました。あなたたちはファビウスと同じローマ人ではないみたいだ。戦時にあっても貴族の家は宗教的な勤めを中断しない。それなのにあなたたちは平和な時に神々と国家の神官たちを棄てるのか。大神官とそれぞれの神に仕える神官たちが任務をを放棄してもよいのか」。
カミルスは話を続けた。
「ヴェイイで神々に奉仕すればよい、と言う者がいるかもしれない。あるいはヴェイイからローマに通って今まで通り奉仕すればよいと言うかもしれない。しかし礼拝は正しくなされなければならない。すべての神々に定められた儀式に従って礼拝しなければなりません。カピトルの丘の主神ユピテルのために、長椅子と祝宴を定められた日に用意しなければなりません。ローマの支配権の象徴であるヴェスタ女神(かまどと家庭の神)のために火を燃やし続けなければなりません。ヴェスタの神殿で永遠の火が安全に守られていることは皆さんも知っているでしょう。剣の神マルスと父神キリヌス(槍の神)についても同じです。ローマの建国と同じくらい古く、中には建国以前から存在する神々を、耕作者がいないた土地に置き去りにするつもりですか。また聖なる盾を放置するのですか。
(日本訳注;第2代国王ヌマの時代に盾が空から降ってきた。神聖な盾が盗まれないよう、ヌマは同じような盾を11作らせた。この盾は統治の正当性を示す神器となった)
現在のローマ人は昔のローマ人とまるで違う。我々の祖先は古式の礼拝と儀式のやり方を我々に残した。最も古い儀式はアルバ山とラビニウムで続けられてきた。礼拝は神々のいる墓所でやらなければならない。もし長年我々の我々の敵であった都市で礼拝するなら、それは敵の神々に祈ることだ。神々を勝手に移動させるなら、天が怒るだろう。思い出してほしい。不注意や事故が原因で祖先が残した礼拝の細部を省略してしまった時、我々は礼拝をやり直してきたではないか。
ヴェイイとの戦争が長年続き、ローマは敗北するしかなかった。その時、アルバ湖に予兆が現れ、神聖な礼拝を復活させると今度は良い予兆が現れ、ローマは勝利することができた。祖先の神々を礼拝する一方で、我々は外国の神々をローマに移し、新しい神々とした。最近では、女王神ユノーをヴェイイから移っていただき、アヴェンティーヌの丘を住まいとした。ローマの女性たちは熱狂的にこの女神を歓迎し、大々的に祝った。また、蛮人の襲来を予言した不思議な声のために神殿を建てることにした。新道で声を発した霊は「アイウス・ロクティウス(明言する声)と命名された。また我々は毎年の祝祭にカピトルの丘での競技会を加えた。
以上、神殿について、また聖なる礼拝と儀式について話してきたが、神官についてはどうだろう。ヴェスタの神殿の巫女たちは他の場所に住むことができない。彼女たちを置き去りにしてヴェイイに移住することは忌まわしい犯罪である。ローマがガリア人に占領されるまでは、ヴェスタの神殿の何かが他所へ運び出されたことはなく、巫女が神殿から出ることもなかった。ユピテルの神殿の神官たちも市内から出ることはできない。神の法により、たとえ一晩であっても、市外に出ることは許されない。あなたたちは彼らの聖務をヴェイイの神官たちにやらせるつもりですか。ユピテルの神殿の神官たちがヴェイイに住み、ローマに通うことははできません。昼にローマで聖務をして、夜ヴェイイに帰るなら、彼は神と国家に対し、毎晩重罪を犯すことになります。その他の宗教的な行事も、天の啓示に従い、ローマの市内で続けられててきた。それらをすべて忘れ去り、捨て去るのですか。部族会議は最高指揮権を与え、兵士会では、執政官または執政副司令官が選ばれます。これらの会議をどこで開くのですか。また天がローマに与える予兆はローマ領内に現れるのであり、他の場所には現れない。市民会議をヴェイイでやることはできません。神々と市民に捨てられ、荒野となったローマにわざわざやって来て、会議するのですか」。

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5巻47ー49章

2024-02-29 15:38:48 | 世界史

【47章】
ヴェイイで戦争の準備が進んでいた時、ローマの砦とカピトルの丘は危険な状態にあった。ガリア人はカピトルの丘に登る容易な道を発見した。それはカメンタ(出産を見守り、母子を保護する女神)の神殿に通じる崖道は比較的登りやすかった。あるいは彼らは、ヴェイイからローマに来た使者の足跡を発見したのかもしれない。夜の薄明かりの中、ガリア人は丘を登り始めた。困難な箇所に行き当たると、まず武器を持たずによじ登り、登り終えると後続の者から武器を受け取った。また先に登った者が後から来る者を引き上げた。互いに助け合いながら登り、彼らは崖の頂上に達した。彼らは音を立てずに登ったので、ローマの見張りが気づなかっただけでなく、夜の物音に敏感な番犬も目を覚まさなかった。ところがガチョウに気づかれてしまった。ガチョウはエサを与えなければなず、残り少ない食料を減らしたが、ユーノー女神にとって大切な生き物だったので、厳しい封鎖の中でも相変わらず飼われていた。ガチョウたちは守備隊の安全に貢献した。驚いたガチョウの鳴き声と羽をバタバタする音で、M・マンリウスが目を覚ました。マンリウスは優秀な兵士で、三年前は執政官を務めた。彼は武器を取ると、仲間の兵士たちのところにを走っていき、「武器を取れ」と叫んだ。それから彼は崖のほうに行き、最初に崖の頂上に這い上がろうとしていたガリア人に盾の先端を打ち付け、叩き落した。突き落されたガリア人は後続の者の上に転げ落ち、ガリア人は将棋倒しになった。頂上に手をかけた別のガリア人たちを、マンリウスは剣でなぎ倒した。間もなくマンリウスの仲間の兵士たちがやってきて、ガリア人に向かって槍を投げたり、岩を投げ落としたりした。ガリア人は全員丘の下に落ちた。危機が去り、夜の残りをローマ人は眠りにあてた。危険はとりあえず去ったが、まだ敵は丘の下のいるので、不安な中でのひと眠りだった。夜が明けると、トランペットが響き渡り、守備兵は副司令官の前に集まり会議を開いた。敵を撃退するのに貢献した兵士に栄誉が与えられ、見張りをおろそかにした兵士は罰せられた。勇敢だったマンリウスが副司令官と兵士全員から称賛された。兵士たちはそれぞれ1ポンド(453グラム)の食糧と1ピント(473ミリリットル、1リットルの半分弱)のワインを彼に持ってきた。どちらもわずかであるが、封鎖の中で誰もがギリギリの生活をしていた時に自分に必要な物を提供したのである。兵士たちがどれほどマンリウスを尊敬していたかがわかる。次に、ガリア人が登ってくるのに気づかなかった見張りの兵士たちが呼び出された。彼らが前に出ると、執政副司令官の Q ・スルピキウスが言った。「私はこれらの者を軍法により処罰しなければならない」。 
しかし兵士全員が反対の声を上げた。「見張り全員が悪いのはではない。あの場所を受け持っていた兵士の責任だ」。兵士全員の一致した判断により、一人の兵士が有罪となった。その兵士は崖から身を投げた。
これ以後守備隊は警戒を厳重にした。ふもとのガリア人もローマの動きを警戒するようになった。ローマとヴェイイの間で打ち合わせがなされたことを、彼らは知ったのである。
【48章】
戦争と包囲に起因し、恐るべき災難が発生した。飢饉が両軍を襲ったのである。またガリア人には疫病が発生した。彼らは二つの丘の間の低地を陣地としていたが、地面を焼き払った後、マラリアが発生した。風が少し吹いただけで、ほこりと灰が舞い上がった。ガリア人は寒冷で湿った気候に慣れていたので、暑さと疫病に耐えられなかった。おまけに、土埃に灰が混じり、彼らはのどを詰まらせた。疫病が蔓延すると、彼らは羊のように死んでいった。死者を一人一人埋葬するのが面倒になり、死体を山のように積み上げ、まとめて焼いた。地元の人はこの場所を忌み嫌い、後にガリア人の墓場と呼んだ。ガリア人は戦意を喪失し、停戦の条件についてローマに話し合いを求めた。ガリア人の側では、指揮官が各人の意見を求めると、誰もが「食べ物がないのだから降伏するしかない」と述べた。停戦成立後、カピトルの丘のローマ人はあちこちのガリア人の見張りに向かってパンを投げた。しかし間もなく深刻な飢饉と疫病が抑えがたくなり、ガリア人の苦しみが限界に達した。この頃独裁官はアルデアで兵を集めていた。彼は騎兵長官 L・ヴァレリウスに命じてヴェイイのローマ兵をガリア人との戦闘に向けて準備させた。彼らはガリア人と互角に戦えるはずだった。一方カピトルの丘のローマ兵はと絶え間ない警戒任務で疲れて果てていた。それでも彼らは気力で疲労を克服できたかもしれないが、飢餓に打ち勝つことはできなかった。彼らは日々独裁官の援助の合図を待った。独裁官から合図がなかか発信されず、彼らの食料が尽き、希望も消えた。見張りに出る兵士は武具の重みで膝がくずずれそうになった。ローマの兵士たちは降伏するか、ガリア人の要求を受け入れ、停戦するしかないと主張した。というのも、ガリア人は一定の条件が受け入れられれば包囲を解く用意があると、ローマ側にそれとなく伝えていた。この問題について、元老院が話し合った結果、停戦を求めることになった。停戦の条件は執政副司令官に一任された。執政副司令官 Q・スルピキウスとガリア人の首長ブレンヌスが話し合った。将来世界の支配者となる国民が安全を金で買うことになり、交渉の結果1000ポンド(453kg)支払うという合意が成立した。これはローマにとって不名誉なことだったが、さもしいガリア人がインチキな重量計器を使用したので、支払う金の量が増えた。執政副司令官が抗議すると、傲慢なガリア人は剣を秤の上に投げ、聞くに堪えない言葉を発した。「敗者はみじめなものよ」。
【49章】
しかし神々も人間も、ローマが平和を金で買うことを望まなかった。運命の変化し、黄金が渡され、ガリア人が金の総量を確認し、執政副司令官が抗議していた時、独裁官が現れた。彼はローマ人に「金を取りもどしなさい」と言ってから、ガリア人に「即刻ローマを立ち去れ」と宣告した。ガリア人はこれを拒否して反論した。「正式な取り決めが既になされている」。
すると独裁官は言った。「私は独裁官に就任しており、私の承認を得ずに下僚が結んだ取り決めは無効である。私の言うことに不満があるなら、戦争の準備をすればよい」。
そして独裁官はローマ兵に言った。「金を荷車に積み、戦いの準備をせよ。祖国の安全は金で買うものではない。剣で祖国を奪い返すのだ。神々の神殿を思い描き、妻や子供そして祖国のために戦うのだ。祖国の土地とその他のすべてが野蛮人によって破壊されてしまった。祖国は元の姿をとどめていない。祖国を取り戻すのが諸君の義務だ。野蛮人に復讐するのだ」。
独裁官は最善の陣形を組んだ。カピトルの丘のふもとは高かったり低かったりしていているうえに、地面の半分が焼かれていたので、戦場として厄介だった。しかし独裁官が軍事的な判断力を駆使して、兵士が動きやすく、有利な場所を選んだ。ガリア人はローマが態度を急変させたのであわてていたものの、彼らも武器を取ってローマ軍に襲いかかった。しかしガリア人は怒りで我を忘れ、作戦を立てなかった。今や幸運はガリア人を見捨て、神々はローマに味方し、ローマ軍の作戦はしっかりしていた。両軍の最初の衝突で、ガリア人は簡単に敗北した。アリア川の戦闘ではローマ軍が簡単に敗れたが、今度は立場が入れ替わった。ガリア人はガビー(ローマの東18km)に向かって逃げたが、ガビーに至る街道の8番目の里程塚の付近で、彼らは再結集した。二度目の戦闘になり、ガリア人は粘り強く戦ったが、カミルスの作戦と采配の前に再び敗れた。ガリア人は皆殺しとなり、彼らの陣地は占領された。生き残ったガリア人が一人もいなかったので、彼らの敗北を祖国に伝える者がいなかった。独裁官は勝利者として帰還した。兵士たちが仲間同士でふざけあう時、独裁官をロムルスとか、祖国の父とか、第二の建国者などと呼んだ。独裁官は蛮族からローマを奪い返すことに成功したので、このように呼ばれるのにふさわしかった。彼は蛮族に勝利した後、再びローマを救った。ローマは平和になったが、多くの家が焼かれ、食べ物が不足していた。市民はヴェイイへの移住を考え、護民官がこれまで以上にヴェイイへの移住を勧めると、平民は乗り気になった。カミルスは大きな流れに決然と立ち向かい、移住に反対した。元老院にとってカミルスは唯一の希望だった。彼らはカミルスに言った。「不安定な時期にローマを見捨てないでほしい」。元老院はカミルスが独裁官に留まることを決定した。戦争の終了後、人々が動揺している時、カミルスは人々に冷静なることを求め、彼らをを落ち着かせた。誰もがカミルスは救世主であると実感した。

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5巻44ー46章

2024-02-20 14:26:03 | 世界史

【44章】
カミルスは次のように述べた。
「アルデアの皆さん! ローマはあなた方の古い友人です。私はローマ人でしたが、現在はアルデアの市民です。私に話す機会を与えてくださり、感謝します。どうしようもない事情により、話さずにはいられません。私は自分の立場を忘れてはいません。状況が切迫しており、共通の危険を前にして、誰もが自分にできることをして、国家に貢献しなければなりません。現在の危機において私が何もしないなら、皆様に恩返しする機会を失うことになります。戦争においてこそ、私は役に立ちます。ローマにいたとき、私は戦争で負けたことがないので、何度か司令官に選ばれました。平和な時代になると、ローマの人たちは私を追放しましました。アルデアの皆さん! ローマはこれまでアルデアを助けてきました。今度はあなた方がローマを助ける番です。戦争に勝利する喜びを皆さんは覚えてており、私が説明するまでもありません。ローマとアルデアの共通の敵に勝利し、偉大な名声を獲得しようではありませんか。今アルデアに向かっているガリア人はまとまりがなく、バラバラです。彼らの強みは体が大きいことと人数が多いことだけで、決意も忍耐力もありません。恐ろしい外見で、不気味な声を上げても、彼らは見かけだけで、実際の戦闘力はありません。ローマとの戦い方を見ればわかります。彼らがローマを占領できたのは、門が開いていたからです。しかし砦とカピトルの丘の少数の守備隊によって彼らは撃退されました。彼らは包囲を続けるのが面倒になって、途中でやめてしまった。今は、少数のグループに分かれて、野原をうろついている。彼らは野獣のようにがつがつ食べ、ワインを飲みすぎて酔いつぶれてしまう。夜になると、一か所に野営せず、あらゆる方向に並んで眠る。検問所はなく、見張りも守備兵もいない。ローマで成功したので、これまで以上に油断している。もしあなたたちがアルデアを守りたいなら、祖国の土地をガリア人に奪われたくないなら、直ちに武器を取り、私とと一緒に全力で戦ってほしい。戦いといっても、一方的にガリア人をやっつけるだけだ。もし敵が眠りこけていなかったら、敵を羊のように殺すことができなかったら、ローマから追放された私が今度はアルデアから追放されても仕方がない」。
【 45章】
友人も敵も、アルデアの市民全員が、カミルスほど偉大な将軍はいないと確信した。議会が解散し、一休みすると、アルデアの市民は軍隊を招集する合図が出るのを待ちきれなかった。夜の静けさの中、合図が出た時、兵士たちはすでに市門の前に集結しており、彼らはカミルスを待った。カミルスが現れ、すぐ出陣した。間もなく彼らはガリア人の野営地を発見した。カミルスが説明したように、ガリア人は無防備で、あちらこちらに横たわっていた。アルデアの兵士たちは大声で叫んでから、襲いかかった。戦闘というより、単なる虐殺が始まり、無防備で熟睡していたガリア人は目が覚める間もなく死んだ。野営地のはずれで寝ていたガリア人は驚いて起き上がり、敵がどこから現れたか、また何者であるかもわからず、慌てて逃げ出した。アルデア兵の中に逃げ込む者さえいたので、ガリア人のうろたえぶりがわかる。相当な数のガリア人はアンテイィウムの近郊に逃げ込んだが、同市の市民に包囲された。
同じ頃、ヴェイイの郊外でエトルリア人が虐殺された。これまでヴェイイの市民はローマに同情していた。四百年間隣人であったローマが、見たことも聞いたこともない蛮族に滅ぼされるのを見て、彼らは哀れんだのである。しかし今やローマを憐れむ気持ちを忘れ、彼らははローマの郊外に侵入し、誰からも罰せられずに多くの物を獲得した。略奪を終えると、彼らは遠くからヴェイイを眺めた。ヴェイイはローマにとって最後の要塞であり、希望だった。ヴェイイに逃げ込んでいたローマ兵たちは、ヴェイイの市民がローマの郊外を動き回るのを見ていた。略奪を終えたヴェイイ人は集結し、略奪品を先頭に歩き出した。ローマ兵は絶望して見ていたが、次第にヴェイイの市民に対して怒りが込み上げてきた。「ガリア人がローマを標的としたおかげで、ヴェイイは攻撃を免れたというのに、彼らはローマの災難を見て喜んでいるのだ」。
ローマ兵は略奪者たちを懲らしめる気持ちを抑えられなかった。ヴェイイに逃げ込んだローマ兵たちは百人隊長のカエディキウスを指揮官に選んでいた。カエディキウスは怒り狂う兵士たちをどうにか抑え、襲撃を日没まで引き延ばした。カエキリウスはカミルスに遠く及ばなかったが、攻撃を夜まで待ったのは適切だった。略奪者たちに対する攻撃は成功した。攻撃はさらに続いた。生き残ったヴェイイ人を案内人とし、市外の製塩場に行き、そこにいた大勢の市民を突然襲撃し、虐殺した。ローマ兵は勝利に満足し、ヴェイイに帰った。
【46章】
この時期、誰もローマを訪れなかった。ガリア人の包囲は不完全で、抜け道があっても気にしなかったが、彼らは包囲を続けた。戦闘はなく、ガリア人は封鎖線を出入りする人間を見張っているだけだった。ある時ローマの戦士の振る舞いが敵と味方の賞賛の的となった。ファビウス家は毎年キリヌス神(戦士の神で、サビーニ族がローマに伝えた神)へ生贄を捧げていた。C・ファビウス・ドルスオが長衣にガビンの帯をしめ、両手に聖なる器を持って、カピトールの丘を降りてきた。彼はガリア人が見張る中を平然と歩き、キリナル神殿に向かった。ガリア人たちはファビウスを威嚇したり、挑発したりしたが、彼は動じなかった。神殿に着くと、彼はしきたりに従い、厳粛に儀式を執り行った。儀式を終えると、相変わらず平然とした表情と物腰で帰っていった。神に対する聖なる務めをいかなる人間も妨害できない、とファビウスは深く信じており、死の恐怖さえ彼を押しとどめることはできなかった。勤めを終え、彼はカピトルの丘の仲間のもとへ戻った。ガリア人はファビウスの異常な大胆さに恐れをなしたのか、あるいは宗教的な畏怖を感じたのか、どちらかだろう。いずれにしてもガリア人は野蛮な民族であり、神を恐れる気持ちが深かった。
(日本訳注:ガビンの帯は長衣のすそをまくりあげ、腰に止めるもので、歩きにくい長衣を短衣に変える帯。ガビンは不明。おそらく外国の地名で、帯の発祥の地)。
ヴェイイのローマ兵は次第に勇気を取り戻し、再び戦力になろうとしていた。またローマが占領された時逃げ出したローマ人もヴェイイに集まってきた。さらにラティウム各地の志願兵もローマの勝利と戦利品をを期待してヴェイイに集まってきた。ガリア人からローマを奪回する機運が熟したのである。ただし、身体は頑健になったが、頭脳となる指導者がいなかった。現在彼らがいるヴェイイを奪取した指揮官カミルスを、人々は思い出した。カミルスの作戦と指導力のもとで、ほとんどの兵士が果敢に戦った。百人隊長カエディキウスは次のように言った。「神々の命令がなくとも、仲間に要望されなくても、私は指揮官を辞任する。私は自分の地位を忘れていない。我々には本来の司令官が必要だ」。
全員一致で、カミルスをアルデアから招くことが決定された。しかし元老院の承認が必要だった。非常時にあっても、ローマ人は国家の法律を忘れなかった。ローマ市内の大部分が失われていたが、元老院を尊敬する気持ちは失われていなかった。ガリア人の検問を突破するのは非常に危険であり、恐ろしかったが、ポンティウス・コミニウスという名前の元気な兵士が元老たちに会いに行く役目を買って出た。彼はコルク材の小さないかだでテベレ川を下り、ローマに向かった。対岸に上がると近道を選び、断崖をよじ登った。この崖は絶壁だったので、ガリア人は見張りは不要とみなしていた。コミニウスは無事にカピトルの丘を登った。彼は国家の指導者たちの前に案内されると、ヴェイイのローマ兵の要望を伝えた。元老院は以下の決定をした。「部族会議がカミルスを呼び戻す決定をすれば、彼を独裁官に任命できるだろう。そして兵士たちは希望する司令官を持つことができる」。
ヴェイイから来た使者は同じ道を通って急いで帰った。元老院の代表がアルデアに行き、カミルスをヴェイイに連れてきた。部族会議はカミルスの国外追放を解除し、彼を独裁官に任命した。昔の記録はこう述べているが、実際には、部族会議の決定の後に、カミルスはアルデアを出発したのだろう。ローマ人民の決定がなければ、彼は帰ることができない。独裁官に任命されることもないし、軍隊を指揮すこともできない。

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5巻40ー43章

2024-01-30 17:07:24 | 世界史

【40章】
こうして、死ぬ運命の老人たちは互いに慰めあった。兵士たちが砦とカピトルの丘に向かうのを見送り、彼らは励ましの言葉をかけた。「ローマの最後の運命が諸君の勇気にかかっている。360年間ローマが勝ち続けたことを忘れないでほしい」。
ローマの希望と救いを担う兵士たちが、ローマの陥落と同時に命を落とす人々に別れを告げると、女性たちが泣きだし、この場面を一層悲しいものにした。絶望した女性たちは夫と息子の後を追いながら、「私たちを見捨てないで」と泣きながら訴えた。これほど残酷な運命はなかった。結局多くの女性が息子の後を追って、カピトルの丘に登った。非戦闘員を多く抱えることは防衛戦にとって不都合だったが、だれも反対しなかった。彼女たちの受け入れを拒否することは非人間的だった。他にも市内から去りたい人が大勢いたが、カピトルの丘は小さな丘であり、トウモロコシの蓄えも不十分だったので、これ以上の受け入れは不可能だった。主に平民からなる群衆が列をなしてローマを脱出し、テベレ川を渡り、ヤニクルムの丘に逃げた。彼らはそこからローマの地方や近隣の都市に行った。彼らには指導者がいたわけでなく、互いに合意もしていなかった。安全を保証するはずの国家から見捨てられ、絶望した人々は自分の考えと目的に従って行動した。キリヌス(戦士の神)神殿の神官とヴェスタ神殿の処女たちは自分たちの財産を心配せず、どの聖なる品物を優先して持ち出すべきかを検討していた。(キリヌス神は王制初期にサビーニ人がローマに持ち込んだ)。神官と巫女たちはすべてを運び出すことはできず、どれかをあきらめるしかなかった。また運び出すにしても、安全な場所を選ばなければならなかった。考えたあげく、彼らは良い方法を思いついた。神物を土製のツボに入れて、神官の家の隣のお堂の地面に埋めることにしたのである。現在(紀元前1世紀後半)、この場所で唾を吐くことは禁止されている。残りの物は各自が運ぶことにした。彼らはテベレ川にかかるスブリキウス橋(アヴェンティーヌの丘のふもとから対岸に渡る橋)に向かう道路を歩いて行った。彼らがヤニクルムの丘を登っていくのを、L・アルビニウスという名前の平民が見ていた。アルビニウスは兵役に不適な市民の一人で、同類の者たちと一緒に丘に向かっていた。このような危機にあっても、ローマ人は神々を敬う気持ちを失わない。アルビニウスは妻子と一緒に荷車に乗っていた。国家の神官たちが歩いて神器を運んでいるのに、自分たちが荷車に乗っているのは不都合だと、アルビニウスは考えた。彼は妻と子供たちを荷車から降ろした。巫女たちと神器を荷車に乗せると、アルビニウスは目的地のカエレに行った。(カエレはエトルリアの都市で、ティレニア海沿岸にある。ヴェイイの西で、ローマから比較的近い。地図では Caisra となっている)。
【41章】
カピトルの丘は状況の許す限り完全に防備された。老人たちもこの仕事に参加し、完了すると、自宅に帰っていった。彼らは死を覚悟して敵が来るのを待った。最高官を経験した老人は当時の地位と名誉と功績を表す記章のついた衣服を着て死を迎えることにした。その服は神々の馬車を乗り回した時着ていたのだった。また市内を凱旋行進した時もその服を着たのである。彼らはこのように正装して家の前に座った。数人の著者によれば、M・ファビウスの提唱に従い、彼らは国家と市民に命をささげるという神聖な語句を詠唱した。
戦闘の後一晩休んだガリア人は意気揚々とローマに入ってきた。戦闘といっても内実がほとんどなかったので、ガリア人はいたって元気だった。攻撃も戦闘も不要な入城だったので、ガリア人は落ち着いており、気がたっていなかった。彼らは空いていたコリナ門(北端の門)から入り、中央広場まで来ると、いくつもの神殿や砦を見回した。どれも防備が施されていないようだった。念のため広場に守備兵を残し、は分散し、略奪品を探して通りを進んでいった。通りに人の姿はなかった。数人彼らは数人のグループを組み一軒一軒ドアを開けて中に押し入った。獲物を独占しようと遠くまで出かけていく連中もいた。しかし無人の街は異様であり、これは何かの策略で、間もなく一斉攻撃が始まるかもしれないと考えはじめた。彼らは急いで隊列を組み中央公園に戻った。平民の家の前にはバリケードが築かれていたが、貴族の広間はドアが開いていた。ガリア人は締まっている家より、ドアの開いた家を警戒し、入るのをためらった。屋敷の入り口に座っている人々を見て、彼らは畏敬の念を抱いた。衣服とたたずまいに気品があるだけでなく、表情に威厳と神々しさがあった。ガリア人は彫像を見るように彼らに見入った。やがて一人のローマ貴族、M・パピリウスがガリア人の激情に火をつけた、と伝えられている。一人のガリア人がパピリウスの頭を象牙の武器でなぐりつけてから、満足そうに自分のひげを撫でた。ガリア人はみな長い髭を生やしていた。M・パピリウスは最初の犠牲者となった。他の人々は椅子に座ったまま殺された。著名な人々に続き、平民が殺され、生き残った人はいなかった。ガリア人は再び家の中を略奪してから、家に火をつけた。
【42章】
とは言っても、放火された家は少なかった。攻略した町に火を放つ場合、大々的にやるものであるが、ガリア人はそうしなかった。戦闘がなかったので、彼らの破壊本能が呼び起こされていなかったのだろうか。それとも指揮官たちはローマの降伏を望んでいて、「降伏しなければ家を全部焼くぞ」と脅したのだろうか。町を人質として取り、相手の戦意を弱めようというのである。ともかく、焼かれた家の数は少なく、攻略したその日に町全部を焼き払うやり方ではなかった。砦にいたローマ人は市内にガリア人があふれ、通りを歩き回るを見ていた。略奪に続き、いたるところで市民が殺されると、彼らは居ても立ってもいられなくなった。こちらではガリア人のどなり声がしたかと思うと、あちらでは女性と男の子の悲鳴があがる。かと思うと、ごうごうと燃える音がし、家が焼け落ちる。運命の女神が彼らを国家の滅亡に立ち会わせているのだった。彼らは命だけは助かったものの、それ以外のすべてを失った。ローマを脱出し、ローマの陥落を見なかった者たちも哀れである。生まれた土地から離れている間に、彼らの所有物が野蛮人のものになってしまった。恐るべき日が終わり、夜となっても、平安にはならなかった。一時間の休みもなく、別の悲劇が繰り返された。すべてが破壊され、焼け落ちるのを見て、彼らは数えきれない悲劇に打ちのめされたが、彼らに残された一つの地点、小さく貧弱な拠点、アヴェンティーヌの丘を守る決意は一瞬も揺るがなかった。このような出来事が日々くリ返されるうちに、彼らは惨めさに慣れ、自分の右手の刀に注意を向けるようになり、残された唯一の希望は戦闘であると気づいた。 
【43章】
数日間ガリア人は建物を相手に無益な戦いを続けた。町は灰となり、市内の人間は死んでしまったが、丘の上には、ローマの武装集団が残っていた。彼らは降伏しないと決心していた。ガリア人は散々彼らを脅したものの、彼らは降伏を拒否した。ガリア人は結局丘の上の敵と戦うしかなかった。夜が明けると、ガリアの指揮官は戦闘を命令する合図を出し、全員を中央広場に集めた。彼らは雄たけびしてから、楯を上に向け、盾と盾の間の隙間をなくして前進した。ローマ人は冷静に待ちうけ、敵を恐れなかった。守備兵が増やされ、すべての登り口に配置された。敵の声がすると、精鋭の兵士たちが声のする方角に送られた。彼らは敵を自由に登らせ、急峻な崖まで登って来たところを突き落とした。勾配が急であれば、敵を突き落とすのが容易だった。ガリア人は用心深くなり、丘の中腹で待機した。するとローマ兵は崖をなだれ落ちるように下って行った。ローマ兵の突然の猛攻により、ガリア人の多くが死傷した。ガリア人は崖から突き落とされたり、恐ろしい攻撃を受けたりして、二度と丘を登ろうとしなかった。丘の上の敵との戦闘ををあきらめ、彼らは丘を封鎖する準備を始めた。しかし彼らはこの時まで封鎖を考えていなかったので、自分たちの食料を用意していなかった。ローマ市内のトウモロコシは全部焼いてしまったし、郊外のトウモロコシは、ガリア人が市内に入って以後ヴェイイに運ばれていた。そこでガリア人は二つに分かれ、半分が包囲を続け、他の半分は近隣の都市に行って食料を徴発することにした。徴発部隊はアルデア(ローマの南、ティレニア海に近い)に行った。これは運命の女神のいたずらであり、そこで彼らはローマ人の勇気に出会うことになった。アルデアはカミルスの亡命地だった。彼は自分の不運を嘆くより、祖国の運命を嘆いていた。彼は神々と人間たちを責めながら自分を苦しめた。「ヴェイイとファレリーを占領したローマ兵はどこへ行った。すべての戦争で彼らが見せた勇気は不滅であり、勝利は結果にすぎない」。アルデアの市民がカミルスに告げた。「ガリア人がこちらに向かっている。アルデアの市民は不安になり、対策を話し合っている」。
カミルスはこれまでアルデアの議会に出席したことがなかったが、この時は霊感に取りつかれ、議会に赴いた。

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5巻37ー39章

2024-01-23 16:06:06 | 世界史

【37章】
運命の女神は狙いを定めた人間を盲目にする。計り知れない災難が国家に降りかかろうとしている時、それを避ける努力がなされなかった。フィデナエやヴェイイなど近隣の国家との戦争の際、多くの場合最後の手段として独裁官が任命された。しかし、見たことも聞いたこともない僻遠の民族が海と地の果てからローマに迫っていたのに、独裁官は任命されず、いかなる対策も取られなかった。無謀な行為により戦争を引き起こした三人が司令官となり、これまでにない多数の市民を徴兵した。三人は今回の戦争の規模を理解せず、戦争回避のための交渉を考えなかった。一方でガリアの大使は帰国し、ローマに軽くあしらわれたと報告した。「我々の要求は無視され、国際法に違反した者たちに栄誉が与えられました」。
ガリア人は感情を制御できない民族だったので、ローマに対し怒り、軍旗を取って急いで進軍を開始した。彼らが行軍する音を聞いて、通りすがりの都市の市民は慌てて武器を取り、郊外の人々は避難した。ガリア人は人数が多く、人馬の群れが遠くまで続いた。ガリア人は大声で「ローマを滅ぼしてやる」と叫びながら進んだ。ガリア人がローマに向かっているという噂や報告を最初に伝えてきたのはクルシウムの人たちだった。その後、他の都市が次々に同じ報告をしてきたので、ガリア人の進軍の速さが分かり、ローマの市民は恐怖におののいた。急いで二つの軍団が編成され、ただちに出陣した。ローマからわずか17kmのところで両軍が衝突した。そこはクルストゥメリウム山から勢いよく流れ下るアリハ川がテベレ川に合流する地点で、街道の下が戦場となった。このあたり一帯ににガリア人が押し寄せていた。勢いに乗ったガリア人は不気味な叫び声をあげ、不調和な音をたてるので、ローマ兵は恐怖を感じた。
【38章】
ローマ軍の司令官は陣地の設営場所を確保せず、兵士が身を隠す塹壕も掘っていなかった。司令官は神々に無関心なだけでなく、敵の戦闘力についても無関心で、神々が示す良好な兆候もなく、戦闘を命令した。敵に回りこままれないよう、ローマ軍は戦列を左右に広げた。それで縦の厚みが薄くなった。中央部においてガリア軍のほうがはるかに優勢であり、ローマ軍は対抗できなかった。右翼側の地面が少し高くなっており、ローマ軍の司令官は予備の部隊を投入して右翼を増強した。劣勢が明らかな中央のローマ軍は放置され、彼らは見捨てられたように思い、逃げだす兵士もいた。優勢な右翼はローマ兵の支えとなり、逃げた兵士にとって安全地帯となった。ガリアの首長ベンヌスはローマ軍の中央部の兵数が少ないのを見て、罠があると感じた。中央を攻めていると、敵の予備部隊が側面と背後から襲ってくるかもしれない、とベンヌスは考えた。そこで彼は「ローマの増援部隊を攻撃せよ」と命令した。注意を要するのは丘の上の増援部隊だけであり、それを叩き潰せば、ガリア軍が圧倒的に優勢だった。勝利は容易だ、とベンヌスは考えた。運命の女神が野蛮人に味方していただけでなく、野蛮人の戦術も勝っていた。ローマ軍の側には、特筆すべき司令官も兵士もいなかった。ローマの兵士は恐怖のあまり、逃げることばかり考えていた。恐怖に支配された彼らは、ローマに向かって逃げず、テベレ川を渡ってヴェイイに逃げた。地続きのローマより、川で隔てられたヴェイイのほうが安全だと思ったのである。一方で、丘の上ローマの増援部隊は有利な場所にいたので、しばらく持ちこたえたが、隣の部隊の近くでガリア人の叫び声がした。続いて背後からもガリア人の叫び声がしたので、増援部隊は慌てて逃げ出した。この部隊はまだガリア人と戦っていなかったし、敵の顔も見ていなかった。彼らは敵の声を聞いただけで逃げ出したのであり、対抗して掛け声を上げることさえしなかった。彼らは戦っていなかったので無傷だったが、密集して互いに押し合いながら逃げているうちに、敵に追いつかれ、殺されてしまった。一方、ローマ軍の左翼の兵士たちは、全員が武器を捨てテベレ川の岸に沿って逃げた。しかし、多くの者が殺された。川に飛び込んだ者は助かったが、泳げずに溺れた者、また甲冑の重さのためテベレ川に流された者がいた。無事にヴェイイに逃げた兵士たちは首都の防衛に参加しようとしなかっただけでなく、ローマ軍の敗北を報告すらしなかった。増援部隊以外の右翼の兵士たちのはテベレ川からは遠く、丘のふもとに近かったので、ローマに向かって逃げた。市内に入ると、彼らは門を閉める余裕もなく、砦に逃げ込んだ。
【39章】
ガリア人は突然の大勝利に、あっけにとられた。勝利を信じられれず、彼らはしばらくその場にとどまった。気持ちが落ち着くと、彼らは騙し打ちを警戒した。それもないとわかると、ローマ兵の死体から首を取ると,彼らの慣習に従い、生首を山のように積み上げた。周辺に敵がいないことを確認すると、ガリア人は行進を開始し、日没前にローマに到着した。隊列の先頭を進んでいた騎馬兵が首長に報告した。「ローマの城門が開いていて、見張りの兵士もいません。城壁の上に守備兵がいません」。
簡単な勝利に続き、ローマの無防備はガリア人を驚かせた。彼らは罠を恐れると同時に、知らない都市で夜の市街戦は危険だと考え、ローマとアニオ川の中間で野営することにした。ガリア人は偵察兵を派遣し、他の門と城壁の周囲を調べさせた。敗北したローマ軍は最後の防衛に必死なはずであり、彼らがいかなる策略を考えているか知る必要があった。一方ローマの人々は、大多数のローマ兵がヴェイイに逃げてしまったことを知らなかった。ローマに帰ってきた兵士だけが生き残りだと彼らは思った。すべての戦死者と負傷者のためにローマの人々は嘆き、悲しみがローマの街を覆った。ガリア人が近くに来ているという報告があり、人々の悲しみは恐怖に変わった。間もなく、荒々しい叫び声や雄たけびが聞こえてきた。壁の外をガリアの騎兵たちが走り回っていたのである。敵が今にも攻撃してきそうなので、ローマ市民がはらはらしながら夜を過ごしているうちに、夜が明けた。敵が城壁まで来た時は、すぐにも攻撃が始まると市民は思った。攻撃の意図がなかったら、敵はアリア川に留まるはずだからである。(アリア川はテベレ川の小さな支流、ローマの北16km)。また日没前にも、攻撃が始まると感じた。暗くならないうちに攻撃してくるかもしれなった。夜になると、敵は大規模な夜襲を計画しているのかもしれないと心配した。夜が明けると、市民は恐怖のあまり理性を失いかけた。門から敵の旗が入ってくるのを見て、市民の恐怖は頂点に達した。緊張の連続で精神が限界に来ていたので、最後の一撃となった。それでも、市民は兵士と違って踏みとどまった。アリハ川がテベレ川に合流する地点の戦闘で兵士は逃げ出してしまったが、市民は抵抗を決意した。わずかな兵数でガリア人に正面から立ち向かうことはできなかったので、砦とカピトルの丘の防衛を強化し、ここを拠点に防衛戦をすることにした。兵役の年齢の市民に加え、身体が丈夫な元老たちが妻子と共に陣地に入った。大量の武器と食料を運び込み、戦闘に備えた。これはローマの神々と自分たちを守る戦いであり、ローマの偉大な名声を守る戦いだった。国家の神聖な品物が戦火と殺戮に巻き込まれないよう、神官と巫女たちがこれらを遠くへ運び出さなければならなかった。生き残ったローマ人が最後の一人となっても、国家の宗教を守らなければならない。神々が住む砦とカピトルの丘を守り抜けば、市民の精神的な支柱である元老たちが生き残るのである。国政を導く元老に加え、兵役の年齢の市民の何割かが戦闘を生き延びるなら、たとえローマが破壊され、市内に残った老人たちが殺されても、ローマはは滅びないだろう。老人は戦禍がなくても、残された年月は少ない。平民の老人たちが残酷な運命を受け入れ安くするために、かつて執政官を務め、ローマに勝利をもたらした人々が「自分たちも彼らと運命を共にする」と表明した。「年老いた肉体で武器も持てず、戦えない我々が兵士たちの負担となるのを避けたい」。

 

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5巻35-36章

2023-12-31 14:00:33 | 世界史

【35章】
続いて別のガリア人が同じ道を通ってアルプスを越えた。彼らはチェノマンニ族で、指導者はエリトヴィウスだった。
(日本訳注)

ガリアにはチェノマンニという名前の部族が二つあった。一つはマルヌ県のチェノマンニ族である。マルヌ県の北隣のノルマンディーに住む部族とマルヌ県の東に住む部族が初回のアルプス越えに参加しており、チェノマンニ族が噂を聞いて、二回目のアルプス越えを企てたのかもしれない。なおノルマンディーのアウレルチとマルヌ県のチェノマンニは同族である。
もう一つはマルセイユのチェノマンニ族であり、名前は同じだが、マルヌ県のチェノマンニ族と無関係である。初回のアルプス越えをした集団はマルセイユに行ってから、アルプスに向かっており、フランス中央部・北部のケルト人がイタリアに向かったのを知って、自分たちもと思ったかもしれない。しかし温暖で快適なマルセイユに住む人々にとって、イタリアはそれほど魅力的ではなく、近隣の民族から逃げる必要でもなければ、動機は低い。
2回目のアルプス越えをしたのはマルヌ県のチェノマンニ族である可能性が高い、としか言えない。初回のアルプス越えはブールジュの部族が中心となり、彼らに6部族の人々が加わった。リヴィウスは「二回目の集団は初回と同じルートでアルプスを越えた」と書いているが、彼が語るアルプス越えの経路からは二回目の集団がフランスのどこからアルプスに向かったかはわからない。トリノ経由でアルプスを越えたことはわかるが、フラン側の起点はわからない。リヴィウスはフランス側の起点には関心がなく、彼にとってアルプス越えとは「トリノの峠道とその先の渓谷を通る」ことなのである。近代・現代において「アルプス越え」はフランス側の起点とイタリア側の終点が注目される。トリノは終点の一つである。リヴィウスがフランス側の起点に関心がないため、二回目の集団がマルヌ県から出発したか、マルセイユから出発したのかについてヒントは得られない。もっともカエサルのガリア遠征以後も、ローマ人の関心は北イタリアまでで、フランスについては関心が低かったので仕方がない。(日本訳注終了)

後続のガリア人が到着すると、最初にイタリアに来たガリア人の指導者は喜んで彼らを迎えた。新しく来た人々は、現在のブリクシア(現在のブレシア)とヴェローナに町を建設した。さらにリブイ族( Libui;居住地不明)とサルエス族(マルセイユ北東のリグリア人)がやって来て、古代のリグリア人であるラエビ族の近隣に住んだ。古代のラエビ族はチキヌス川流域に住んでいた。

(日本訳注)⓵チキヌス川はスイスを水源とし。ミラノの西を流れ、パヴィア付近でポー川に合流。
②リグリア人のラエビ族はチキヌム(現在のパビア)に町を建設した。パビアはミラノの南。(日本訳注終了)

さらにボイイ族とリンゴネス族がペンニン・アルプス(イタリア・アルプス=アオスタ渓谷とピエモンテ)を越えた。こうしてポー川とアルプスの間の地域はすべて新来の人々によって占拠された。

(日本訳注)⓵ボイイ族はオーストリアとハンガリーに住んでいたケルト人。
②リンゴネス族はブルゴーニュ地方のラングルに住んでいたケルト人。ラングルは現在高地マルヌ県の都市。高地マルヌ県にはマルヌ川の水源がある。(日本訳注終了)

移住者たちはいかだでポー川を越え、エトルリア人を追い払い、さらにウンブリア人をも追い払った。そこで彼らの侵攻は止まり、彼らはアペニン山脈の北に留まった。最後にセノンネ族(セーヌ盆地のケルト人、初回のアルプス越えに参加した)がやって来て、ウティス( Utis;場所不明)からアエシス(Aesis;ウンブリア州のアッシジ?)に至る地域を占拠した。クルシウム(現在のキウジ。トスカナ州南東部、ウンブリア州に近い)を攻撃したのはこのセノンネ族であるとわかった。セノンネ族はその後ローマに襲来した。彼らは単独でクルシウムに来たのか、ポー川以北のすべての部族と共に来たのか、わからない。クルシウムの人々はガリア人の異様な姿に恐れおののいた。またガリア人の人数はあまりに多く、見慣れない武器を持っていた。ポー川の両岸でエトルリア軍が何度も敗北したという話がクルシウムの人々に伝わっていた。クルシウムは大使をローマに派遣し、元老院に助けを求めた。クルシウムはローマの同盟国ではなく、友好な関係にさえなく、ローマは彼らを助ける義務がなかった。もっともローマがヴェイイと戦っていた時、クルシウムは同族のヴェイイを助けなかったので、ローマの敵ではなかったかもしれない。そういうわけで、クルシウムの大使は積極的な援助を得られなかった。ファビウス・アンブストゥスの三人の息子が大使としてガリア人のもとに派遣された。三人の大使はクルシウムを攻撃しないようよう警告した。「クルシウムはガリア人に何の損害も与えていない。クルシウムはローマの友人であり、同盟国である。状況次第では、ローマ軍はクルシウムを防衛するだろう。ローマは戦争を避けたい。ローマは未知の相手との戦争を望まない。平和的にガリア人と知り合いになりたい」。

【36章】
ローマの大使が託された伝言は十分平和的だったが、残念ながら使節のニ人はガリア人に似ていて、気性が荒かった。元老院の意向を伝えると、ガリア人の指導部は次のように返答した。
「我々はローマという名前を初めて聞いたが、クルシウムの指導者が危機にあって助けを求めたのを見ると、ローマは勇敢な国民に違いない。武力によらず、話し合いでクルシウムを守りたいということであるが、我々も平和的に解決したい。そこで我々の要望を述べたい。我々は土地が不足しており、クルシウムの領土の一部を我々に譲渡してほしい。クルシウムは耕作できる範囲をはるかに越えて、土地を所有している。我々の要求が認められない限り、平和的な解決はない。あなた方の面前で、クルシウムに返答してもらいたい。土地が得られないなら、我々は諸君の面前でただちに戦闘を開始する。ガリア人の勇気がいかなる民族をも越えているを見てくれ。そしてローマの人々に報告してほしい」。
これに対し、ローマの大使は言った。「どんな権利があって他国の土地を要求するのか。戦争をちらつかせて、他国の土地を奪うつもりか。諸君はエトルリアと何の関係があるのか」。
するとガリア人は居丈高に答えた。「我々は武力で権利を獲得する。勇敢な者は何でも所有できる」。
双方の闘志に火が付き、ガリア人は武器を取りに行った。国際法に違反し、ローマの大使も武器を取った。運命が急速にローマを破滅に向かわせた。クルシウム軍の兵士たちは初めてローマ人を見た。勇敢で高邁な三人のローマ人を見て、彼らは圧倒された。ガリアの首長がエトルリアの旗手に襲い掛かかろうとした時、Q・ファビウスが首長に向かって馬を走らせ、首長の横腹に槍を突き刺し、なぎ倒した。彼が首長の首を取ろうとした時、これを見たガリア人が叫び、ガリアの兵士全員にファビウスの行為が伝わった。ガリア兵はクルシウムが敵であることを忘れ、ローマに対する怒りで頭に血が上った。ガリア人はクルシウムから去った。
ガリア人の一部はローマに向かって進軍すべきだと主張した。年配のガリア人はまずローマに大使を送り、正式に抗議し、国際法違反の代償としてファビウス兄弟を引き渡すよう要求すべきだと考えた。一方ローマに帰った大使たちは結果を元老院に報告した。元老院はファビウス兄弟の行動を間違いと考え、ガリア人の要求を正当であると認めたが、高い地位にある人間を犯罪者と正式に断罪することに、政治的にためらいを感じた。ガリア人との戦争に負けた場合、自分たちだけの責任にならないよう、元老院はガリア人の要求にどう対処すべきか、市民の判断に委ねた。ちょうど年末だったので、翌年の執政副司令官の選挙となった。選挙においては勇気があり、影響力のある人間が支持を得た。処罰されるべき三人が執政副司令官に選ばれた。選挙結果はガリア人の大使を怒らせ、これをローマの最終的な決断、つまり戦争の宣言と受け止めた。彼らは元老院を威嚇してから帰っていった。
ファビウス家の三人以外の執政副司令官は Q・スルピキウス・ロングス、Q・セルヴィリウス(4回目の就任)、P・コルネリウス・マルグネンシスだった。

 

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5巻32ー34章

2023-12-10 14:27:15 | 世界史

【32章】

執政副指令官に選ばれたのは L・ルクレティウス、セルヴィウス・スルピキウス、C・アエミリウス、L・フリウス・メドゥリヌス(7回目の就任)、アグリッパ・フリウス、C・アエミリウス(2回目の就任)だった。彼らは7月1日に就任した。 L・ルクレティウスと C・アエミリウスはヴォルシニ湖周辺のエトルリア人との戦争を指揮することになった。アグリッパ・フリウスとセルヴィウス・スルピキウスはサルピヌム人との戦争を指揮することになった。ヴォルシニ湖の敵との戦闘が先に始まり、敵は大軍勢だったが、それほど強くなかった。最初の衝突後、彼らの隊列が崩れた。ローマの騎兵に包囲され、8000人が武器を捨てて降伏した。これを知ったサルピヌム人はローマ軍と正面から戦っても負けるだけと判断し、城壁に頼って防衛に専念することにした。ローマ兵はサルピヌムの領土とヴォルシニ湖周辺の二都市の領土を全面的に略奪した。ローマ兵は何の抵抗も受けなかった。多くの兵を失ったヴォルシニ湖周辺の二都市はローマ軍に降伏を申し出た。敵対行為への賠償金の支払いを条件に、二都市は20年間の休戦を認められた。賠償金にはローマ兵の給与の支払いが含まれていた。

この年マルクス・カエディキウスという名前の平民が執政副司令官に次のように報告した。

「ヴェスタ神殿の上方を通っている、新街道を歩いていた私が礼拝堂のそばに来た時、夜の静けさの中で、人間の声とは思えぬ大きな声が響き渡りました。『ガリア人が近づいていると高官に告げよ』」。

身分の低い者からの情報であり、ガリアは遠く、未知の国であったので、執政副司令官はカエディキウスの話を信じなかった。危険が迫っている時に、神々の警告が無視されただけではなかった。恐ろしい運命からローマを救うはずの人間、M・フッリウス・カミルスがローマから追放された。護民官 L・アプレイウスはヴェイイでの戦利品の問題でカミルスを告発した。カミルスは息子を失ったばかりだったのに、アプレイウスは容赦しなかった。
(日本訳注)ヴェイイ攻略後カミルスは兵士に略奪を許したので、平民に不満はない。ヴェイイの膨大な富のすべてを兵士に与えたので、貴族は怒っていた。長年の戦争により、国庫が底をついていたので、ヴェイイの富の何割かは、国庫に回すべきだった。カミルスは捕虜を奴隷として売却し、売上金のすべてを国庫に納めており、一定の配慮をしたが、国家主義者には不十分に思えた。護民官の多くは平民派であるが、アプレイウスは国権派だったのだろう。あるいはアプレイウスは平民派だったが、どういう理由であれ、カミルスを断罪したかったのかもしれない。(日本訳注終了)
カミルスは一族とその従者たちを家に招き、彼をどう思っているか探った。彼の一族の従者は平民のかなりの部分を構成していた。彼らは罰金が高額でも支払う用意があるが、カミルスを無罪にはできないだろうと述べた。カミルスは不滅の神々に祈った。「無実の私が理由のない苦しみを味わうことになった。恩知らずの人々が私を必要とする日が遠からず来ることを願っています」。
こうして彼は亡命した。彼が不在のまま、15000アスの罰金が言い渡された。
 【33章】
波乱の多い人間の世界に唯一確かなことがあるとすれば、カミルスがいればローマは陥落しなかったということである。カミルルスがローマを去ってから、ローマの破滅の日が急速に近づいた。クルシウム(Clusium)から使節が来て、ガリア人と戦う際め援軍を送ってほしと願った。(クルシウムは現在のキウジ、トスカナ州南東部、ウンブリア州との州境に近い)


言い伝えによると、エトルリアは果物が豊富で、ワインの産地だったので、ガリア人はその噂を聞いて、とりわけワインは彼らにとって珍しく、おいしい飲み物だったので、アルプスを越えてエトルリア人の土地に侵入したのだという。クルシウムのアッルンという人物がワインをガリアに輸出し、ガリア人を魅了し、彼らをエトルリアに呼び込んだのだという。アッルンの妻がルクモという人物に誘惑された。ルクモはアッルンに保護される立場にあったが、大きな影響力を持つ若者であり、アッルンは彼を処罰できず、外国の力を借りることにした。それで彼はガリア人を呼び込んだのだというのである。アッルンまたはクルシウムの誰かがガリア人を招き入れた可能性はあるが、クルシウムを攻撃したガリア人は最初にアルプスを越えた人々ではなく、ずっと前にイタリア北部に移住した人々の子孫である。ガリア人がイタリアに入ってきたのはこの時より200年前である。ガリア人が最初に襲撃した都市はクルシウムではない。ずっと以前からアルプス山脈とアペニン山脈の間に住むエトルリア人はガリア人と戦争を繰り返していた。ローマの覇権が成立する以前は、エトルリア人の支配が陸と海の広い範囲に及んでいた。彼らの勢力範囲は地名を見ればわかる。イタリア半島は海に囲まれているが、西の海は「トゥスク人の海」と呼ばれており、東の海はアトリア海と呼ばれている。ローマ人はエトルリア人をしばしばトゥスク人と呼んでいた。アトリアはヴェネト地方の町であるが、エトルリア人の植民地だった。ギリシャ人は西の海をティレニア海と呼び、東の海をアドリア海と呼んでいる。
(日本訳注)
⓵ トゥスクとトスクは同一であり、トスカナは「トゥスク人の土地」という意味である。エトルリアの植民地アトリアは後にエトルリアの都市となった。
② ギリシャ人はエトルリア人をティレニア人と呼んでいた。(日本訳注終了)
ローマ人もギリシャ人も、イタリア半島をエトルリア人の土地と考えていた。エトルリア人は最初アペニン山脈の西側に住んでいて、12の都市が成立した。その後彼らは山脈の東側に12の植民地を建設した。西側の一つの都市がそれぞれ一つの植民地を建設したのである。これらの植民地はポー川を越えアルプス以南の全域に進出した。唯一の例外はヴェネトの人々で、彼らはアトリア海北部の入り江の周辺に留まった。アルプスの諸部族、特にラエティ族は間違いなくヴェネトの原住民と同類で、厳しい風土の影響により野蛮であり、言語以外先祖の性格を失っていた。彼らは野蛮でありながら、文明人のように堕落していた。
(日本訳注)
⓵ ヴェネトの原住民の故郷はアルプス南麓のガルダ湖とパドヴァの間の地域である。ガルダ湖は現在ヴェネト州の北西部にあり、ロンバルディア州との境界になっている。パドヴァはヴェネト州の都市である。ヴェネトの原住民の言語はラテン語などのイタリック語とケルト語とゲルマン語の混合だった。エトルリア人が植民地としたのはアトリアだけで、それ以外のヴェネトの居住地には侵入しなかった。
② 博物誌の著者プリニウス(紀元後23年生ー79年没)によれば、ラエティ人はエトルリア人であり、ポー川周辺に住んでいたが、ガリア人に追われ、アルプスに移住した。紀元前600ー400年にガリア人はアルプスを越えて、イタリアに侵入したので、この時ラエティ人がアルプス山中に逃げたと考えられてきた。しかし現在の歴史家はラエティ人の移動を否定している。ラエティ人はもともとアルプス山中に住んでいたと考えられている。ほとんどのエトルリア人がイタリアに向かったのに、ラエティのグループだけがアルプス山中に留まったようだ。あるいはプリニウスの移動説は正しく、ガリア人に追われたのではなく、ずっと昔にポー川周辺からアルプス山中に移住したのかのかもしれない。ラエティ人の居住地域はローマ属州ラエティアとほぼ重なる。(日本訳注終了)

【34章】
ガリア人のイタリアへの侵入について、以下のように説明されている。タルクイヌス・プリスクスがローマの国王だった時(紀元前6世紀前半)、ガリアのケルト人を支配していたのはビトゥリゲス族だった。ガリア地方の住民の三分の一がケルト人だった。ビトゥリゲス族はケルト人の支配者を長年輩出してきた。この時国王になっていたのはアンビガトゥスだった。彼は勇気があり、広い土地を所有していることで有名で、広大な領域を支配していた。彼の時代に作物の収穫が豊富になり、ガリアの人口が急激に増えた。人口が多すぎて、統治が困難になった。年老いた国王は人口過剰をどうにかしたいと考え、妹の二人の息子を運に任せて見知らぬ土地に移住させることにした。国王の二人の甥、ベラブススとセゴヴススは進取的な性格の若者だった。移住先の住民に追い払われても対抗できるだけの仲間が必要なので、二人は遠征への参加者を募集した。どこへ行けばよいか、神意を占うと、セゴヴススにはヘルシニアの森(フランス北東部からドイツ南部に至る山地)が勧められた。神々はベラブススにもっと快適な土地、即ちイタリアを与えることにした。ベラブススは6部族の余剰な人口を集めた。6部族の名前はビトゥリゲス、アヴェルニ、セノンネ、アエドゥイ、アンバリ、カルヌト、アウレルチである。大勢の騎兵と歩兵を引き連れ、セゴヴススはトゥリスカスティン(ローヌ川流域、リヨン以南)までやって来た。彼の前にアルプスが巨大な障壁のように立ちはだかった。「越えられない」と彼らが感じても、驚くにあたらない。記録をたどる限り、当時アルプス越えの道は存在しなかった。ヘラクレスについての神話を信じれば別であるが。巨峰が天まで届き、向こう側は未知の世界だった。ガリア人たちは行く先を阻まれたが、それでもどこかに山越えの道がないか、探し回った。
彼らには宗教的な恐れもあった。新しい土地を探し求めた人々がサルエス人(マルセイユの北東に住んでいたリグリア人)に襲撃されたという話が伝えられていた。犠牲になった人々はフォカイア(ギリシャのイオニア地方の都市)からマッシリア(現在のマルセイユ)にやって来たギリシャ人だった。この事件はガリア人にとって悪い前兆だったので、ギリシャ人が最初に上陸した場所の防備を強化するのを手伝った。幸い、サルエス人は防壁の建設を妨害しなかった。
ガリア人はタウリニ(現在のトリノ)の峠道とドゥーリア渓谷を通ってアルプスを越えた。ティキヌス川のずっと手前でエトルリア人と戦闘になり、勝利した。彼らが住むことにした場所(現在のミラノ)はインスブレ族(先住のケルト人)の領土だと知った。インスブレという名前はヘドゥイ族(現在のブルゴーニュ地方に住んでいたガリア人)の土地と同じ名前である。部族は違うが同じケルト人の土地なら縁起が良いので、ガリア人はそこに町を建設し、メディオラヌム(ミラノ)と名付けた。
(日本訳注)
⓵ドゥーリア渓谷は現在のドラ・バルテア川:Dora Baltea。モンブランの水源からアオスタを通り、トリノの東でポー川に合流。
②ティキヌス川は現在のチキノ川。スイスの水源から南に流れ、ミラノの西を過ぎてポー川に合流。
③ リヴィウスは「この時代アルプス越えの道はなかった」と書いており、ガリア人がどのような経路でアルプスを越えたか、興味をそそられるが、彼の記述は現代人にはわかりにくい。近代・現代において「アルプス越え」はフランス側の起点とイタリア側の終点が注目され、トリノは終点の一つである。しかしリヴィウスはフランス側の起点には関心がなく、彼にとってアルプス越えとは「トリノの峠道とその先の渓谷を通る」ことなのである。リヴィウスはフランス側の起点に関心がないため、読者にはフランス側の出発点が分からない。ガリア人がフランス中央部からリヨンの南まで来たことまでは、はっきりしているが、そこでアルプス越えを決心していながら、急にマルセイユに行ってしまう。マルセイユからドリノまでの軽路は全然わからない。現在ではフランス側の起点はグルノーブルやその北や南の都市であり、終点はトリノやその他のピエモンテ州の都市である。ガリア人のアルプス越えから350年後、ハンニバルもフランスからアルプスを越えてイタリアに入っている。ハンニバルのアルプス越えは関心が高く、どのような経路でアルプスを越えたか、研究されてきた。グルノーブル方面からトリノ周辺に向かったという説が有力である。沿岸部にはローマ軍が来ているかもしれなかったので、ハンニバルはローヌ川中流から、アルプスに向かった。アルプスを越えた後は、ポー川流域のガリア人を味方にしてからローマと戦うつもりだった。
④ インスブレ族はケルト人で、ミラノに最初に町を建設した。34章はガリアのケルト人のアルプス越えが語られているが、アルプス南麓には別のケルト人がずっと以前から住んでいた。彼らはレオンティと呼ばれている。レオンティの居住地の南に住んでいたのがインスブレ族である。インスブレ族は紀元前6世紀前半にミラノに町を建設したが、その後エトルリア人に圧迫され、エトルリアの支配を受け入れ たようである。トリノから東に進んだガリア人が衝突したのはインスブレ族ではなく、エトルリア人だった。紀元前750-500年の地図によると、エトルリアの支配がミラノ周辺に及んでいるものの、ここはエトルリアの辺境であり、エトルリアは都市を建設していない。
⑤ リグリア人はイタリア北西部の沿岸およびフランスのプロヴァンスに住んでいた独自の民族。リヴィウスはプロヴァンスのリグリア人について書いている。「マルセイユに到着したギリシャ人を、リグリア人が襲撃した」。
(日本訳注終了)

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5巻29-31章

2023-11-30 05:44:16 | 世界史

【29章】

護民官の煽動はこれまで成果がなかったが、平民は土地改革を提唱する護民官の再任を求めた。これに対抗し、貴族は土地改革を否決した護民官の再選をはかった。結局平民が勝利した。元老院は仕返しに、翌年の最高官を執政官にすると決定した。平民が執政官という職を憎んでいたため、もう何年も執政副司令官が最高官になっていた。15年ぶりに執政官が復活した。執政官に選ばれたのは L・ルクレティウス・フラヴゥスとセルヴィウス・スルピキウス・カメリヌスの二人だった。年初に護民官は懸案を実現しようと決意した。彼らは団結しており、拒否権を行使する護民官はいなかった。これに対し執政官は頑強に抵抗した。全ての市民がこの問題に没頭している時、アエクイがヴィテリアのローマ植民地を襲撃し、成功した。ヴィテリアはアエクイの領土にある。

(日本訳注)ヴィテリア(vitellia)は2巻39章で一度登場している。発音がやや違い、ヴェテリア(Vetellia)となっていたが、同じ町である。2巻39章では、ヴォルスキ軍はティレニア海沿岸部から軍事遠征を開始し、北上した。本文は次の通り。

「続いて彼らは荒野を渡り、ラテン街道に入り、ラヴィニウム(沿岸部、コリオリの西)を奪回すると、コルビオ(場所不明)、ヴェテリア(場所不明)、トゥレビウム(場所不明)、ラビクム(ローマの東)、ペドゥム(ラビクムの北東)を奪取した」。

沿岸部のラヴィニウムから北上して、ヴェテリアを経由してラビクムに至ったことがわかる。ラヴィニウムからラビクムまではかなり距離があり、ヴェテリアの位置は推測できない。ただしアエクイの領土はほぼローマの東にあり、おそらくヴィテリアはラビクムの近くだろう。次の地図ではローマの東にプラエネステがあり、プラエネステの西にラビクム(Labicun)がある。(日本訳注終了)

 

 

ヴィテリアのローマ人は大部分無事だった。夜陰に乗じた卑怯な攻撃がかえって幸いし、植民者はこっそり反対側に逃げ、ローマに向かった。L・ルクレティウスがアエクイの討伐に派遣された。アエクイ軍とローマ軍の戦闘になり、ローマ軍が勝利した。ローマ軍は首都に帰還した。首都ではもっと深刻な試練がルクレティウスを待っていた。かつて二年連続で護民官を務めた A・ヴェルギニウスとQ・ポンポニウスが告発され、裁判の日が定められた。元老院の全議員が二人を守ろうとした。彼らにとってこれは名誉の問題だった。私人としての生活でも、公的な立場においても、二人は何一つ責められる点がなかった。起訴の理由は元老院に気に入られようとして拒否権を行使したことだった。平民の怒りが元老院の影響力を上回り、罪のない二人がそれぞれ10,000アスの罰金を科された。これは最悪の先例となった。元老院は深く落胆した。カミルスは真っ向から平民を批判した。「自分たちの代弁者である護民官を敵のように扱うのは裏切りだ。この不正な判決は護民官から拒否権を奪い、彼らの権力を無効にしてしまった。護民官が節度をを失っても元老院が我慢すると期待するのは考え違いだ。護民官の横暴が同僚の拒否権によって制止されないなら、元老院は別の手段を見つけるだろう」。

同時にカミルスは執政官の責任をも追及した。

「元老院が護民官を操ることは国法の破壊である。執政官はこれを許してはならない」。

カミルスはあからさまな批判を繰り返したので、人々は日を追うごとに彼を嫌うようになった。

【30章】

護民官提出の法案はヴェイイへの移住を制度化するものだったので、カミルスはこれを阻止するよう繰り返し元老院を説得した。「祖国と神々の神殿のために戦う決意がないなら、法案が採決される日に、元老たちは中央広場に行くべきでない。家庭の炉と神殿の祭壇を守らなければならない。私自身についていえば、国家の存立が危うい時、自分の評判を気にするようなら、私が獲得した町が市民の行楽地となってもかまわない。私の記念碑が勝利の日の行進をいつも思い出させ、都市のあらゆるものが私の名声を思い出させてくれるのだから。しかし住民がいなくなり、守護神さえも去ってしまったヴェイイに再び人が住み始めることは天に対する冒とくである。まして、見捨てられた土地にローマ人が移住するなら、勝利したローマが征服された土地となるだろう」。

傑出した人物の訴えを聞いて、元老たちは奮い立ち、老いも若きも法案が採決される民会にやって来た。彼らは分散して各部族のところに行き、自分と同族の人々の手を取り、涙を浮かべながら祖国を見捨てないでくれと懇願した。「祖先と我々はローマのために勇敢に戦い、勝利した」と言いながら、カピトルの丘とヴェスタの神殿を指さし、またその他複数の聖なる神殿を指さした。「ローマ市民を亡命者にしないでほしい。住む家を追われた人々のようにしないでほしい。祖国と家族の神を捨て、敵であった都市へ移住させないでくれ」。

さらに彼らは「ヴェイイを陥落させたのは誤りだった」とさえ言った。「ヴェイイに移住するなどという考えが生まれたのは、ヴェイイを奪取したからだ」。

元老たちは暴力に訴えるつもりがなく、ひたすら懇願し、しばしば神々の名前を引用したので、多くの投票人は宗教的に重要な問題についての選択であると理解した。一つの部族の過半数が反対し、ヴェイイへの移住案は否決された。元老院は非常に喜び、翌日執政官の勧めに従い、ヴェイイの土地を平民全員に分配すると決定した。家族の長ではなく、子供たち一人一人に一定のユゲラ(広さの単位、71mx35m)の土地が与えられることになったので、人々はできるだけ多くの子供を育てるだろうと考えられた。

【31章】

元老院が気前良く土地を与えたので、平民の感情が良好になった。翌年の最高官が執政官と決定されても、平民は反対しなかった。翌年の執政官に選ばれたのは L・ヴァレリウス・ポティトゥスと M・マンリウスだった。マンリウスは後にカピトリヌスという称号を与えられることになる。二人は大競技会を開催した。ヴェイイとの戦争が行き詰っていた時独裁官 M・フリウスが競技の開催を約束したのであるが、ようやく約束が果たされた。またフリウスは女王神ユノーの神殿の建設を誓っていたが、それもこの年実現した。特に女性たちがこの神殿の建立に強い関心を示したと伝えられている。大勢の女性が神殿の周りに集まった。

アルギドゥス山にアエクイ軍が進出し、取るに足らない戦闘が起きた。

(日本訳注;アルギドゥス山はアルバ湖の東側の丘で、ラテン街道がこの丘を通っていた。)

アエクイ兵はローマ軍が近づくと逃げてしまった。ヴァレリウスはとことん追いかけた。元老院はヴァレリウスを凱旋将軍と宣言し、もう一人の執政官マンリウスをも称賛した。

同じ年、ヴォルシニ湖周辺のエトルリア人が戦争を始めた。異常な暑さと干ばつのせいで、ローマの周辺で疫病が流行し、ローマ軍の出動は不可能だった。これを好機と見て、ヴォルシニ湖周辺のエトルリア人は大胆になり、サルピヌム人(ヴォルシニ湖北東の都市)と連合してローマの領土に侵入した。ローマは戦争を宣言した。

(日本訳注)ヴォルシニ湖は現在ボルセナ湖と呼ばれており、ローマの北120km、現在のラツィオ州ヴィテルボ県の北端にあり、北西はトスカナ州、北東はウンブリア州となっている。ヴォルシニ湖周辺に二つのエトルリア都市があり、一つはヴォルシニ湖岸にあり、もう一つは湖の少し北、トスカナ州、ラツィオ州、ウンブリア州の州境にある。この二つの都市と同盟したサルピヌムはヴォルシニ湖の北東のオルヴィエート(ウンブリア州南西部)と推定されている。ヴォルシニ湖周辺の二つの都市と同様、サルピヌムは強大な都市であり、堅固な城壁に守られ、広大な領土を持っていた。サルピヌムはエトルリア連盟に所属していない、独立都市だった。(日本訳注終了)

査察官 C・ユリウスが死んだ。M・コルネリウスが査察官に任命されたが、彼の在任中にローマが占領されたので、彼の任命には宗教的な誤りがあったと考えられた。これ以後死者の部屋で査察官を任命することはなくなった。

執政官が二人とも疫病にかかったので、暫定執政官が新たに神意を占うことになった。元老院の決定に従い執政官が辞任し、M・フリウス・カミルスが暫定執政官に任命された。カミルスは P・コルネリウス・スキピピオに暫定執政官の職を譲った。コルネリウスは L・ヴァレリウス・ポティトゥスに職を譲った。ヴァレリウスは6人の執政副指令官を任命した。最高官が6人いれば、全員が病気で倒れる危険が少ないからである。

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5巻26-28章

2023-11-19 07:19:46 | 世界史

【26章】

執政副司令官の選挙において、貴族は M・フリウス・カミルスを当選させようと努力し、成功した。近いうちに戦争が起きそうなので、有能な将軍が必要だと彼らは主張した。しかし内実は、腐敗した護民官に対抗できる人物が必要だったのである。カミルス以外の執政副司令官は 以下の4人だった。L・フリウス・メドゥリヌス(6回目の就任)、C・アエミリウス、L・ヴァレリウス・プブリコラ、S・ポストゥミウス、P・コルネリウス(2回目の就任)。

護民官は最初おとなしくしていた。カミルスがファリスク人との戦争に出かけてしまうと、チャンスが生まれたが、出鼻をくじかれた護民官はやる気を失っていた。彼らはカミルスを非常に恐れていた。彼らの敵カミルスはファリスク人に勝利した。ファリスク人は安全な作戦を選び、城壁に頼り防衛に専念した。しかしローマ軍が畑を荒らし、農家を焼き討ちすると、彼らは城外に出てきた。とはいえ遠くへは行かず、城の1マイル(1.6km)のところに、陣を敷いた。場外ではあったが、その場所は接近が困難で比較的安全だった。周辺一帯が荒れ地で、ところどころ大きく陥没し、道路は非常に狭い場所がり、崖もあった。カミルスは捕虜に周辺の様子を聞き、さらに道案内させた。カミルスは真夜中に陣地をたたみ、夜が明けると、町を見下ろす高台にローマ軍を導いた。別動隊は塹壕を掘り、本隊は戦う準備をした。塹壕を掘っていると、敵は邪魔しに来たが、ローマ兵は彼らに襲い掛かった。ファリスク兵はパニックにおちいり、逃げ出した。彼らは陣地で抵抗する気力もなく、城内に逃げ帰った。しかし城門に逃げこむ前に多くの兵が殺され、負傷した。ローマ兵は敵の陣地を奪取し、戦利品を獲得した。カミルスは戦利品を売却し、売上金を財務官に渡した。兵士たちは非常に怒ったが、カミルスの厳格な処罰を恐れて、何も言えなかった。兵士たちは厳正なカミルスを憎んでいたが、同時に尊敬していた。

ローマ軍は次にファリスク人の町を包囲し、通常の攻城設備を建設した。ファリスク兵はチャンスをうかがい、ローマ軍の前哨地点を攻撃してきた。それでしばしば小競り合いとなった。時間がたつにつれ、どちらの軍も勝利が遠のいた。ファリスク人はあらかじめトウモロコシなどを備蓄していたので、ローマ軍より、食料の心配がなかった。ヴェイイ戦の時と同じように、包囲は長引くように思われた。しかし幸運にも、カミルスの偉大な精神を発揮する機会が訪れた。彼の能力は以前の戦争で証明済みであり、彼は今回も勝利を手に入れた。

【27章】

ファリスク人は子供の監督と世話をする人間を雇っていて、ちいさな男の子たちは数日間彼のもとに預けられた。現在でもギリシャ人の間に同じ習慣がある。身分の高い家庭の子供たちの教育は、学識があると評判の教師にまかされていた。平和な時代には、この教師は子供たちを市外に連れ出し、運動や競技をさせていた。彼は戦争が始まっても、この習慣をやめなかった。城門に近い場所を選ぶこともあれば、遠くに行くこともあった。良い場所を見つけると、男の子たちはいつもより長く運動したり、会話をした。ある時彼らはローマ軍の前哨地点の近くに来た。教師は子供たちをローマ軍の陣地に連れて行くと、本部のテントにまで行き、カミルスに面会した。これだけでも悪党の行為なのに、さらにひどい言葉を発した。「ファレリー(ファリスク人の最大の都市)はすでにローマに征服されたので、ファレリーの為政者たちの子供たちもローマの支配下にあります」。

教師に対し、カミルスは言った。「恥知らずな奴め。お前はローマという国家そしてその司令官がお前と同類だと考えたのか。ローマは裏切り者など祖相手にしない。あさましい申し出をしても無駄だ。ローマとファリスク人の間に正式な外交関係がない。お互いに赤の他人だ。しかし同じ人間として最低限の共通性があり、我々ローマ人はそれを前提に行動するだろう。戦時ににおいても平時においても正当な権利が認められている。戦争において、我々は勇気だけでなく正義を重視してきた。我々は子供を傷つけない。町を占領した時でも、子供を敵と見なさない。武器を持った人間しか相手にしない。我々が挑発も攻撃もしていないのに、ヴェイイ戦の時でも、我が陣地を襲撃した奴らが我々の敵だった。ヴェイイは前例のない卑劣さで勝利を得た。我々はそのような連中を許さない。卑劣なファリスク人はヴェイイと同じ運命をたどるだろう。我々は特別な作戦によってヴェイイを滅ぼした」。

カミルスは教師を裸にし、後ろ手に縛ると、子供たちに引き

渡した。彼は子供たちに棒を与え、「裏切りを懲らしめなさがい」と言った。子供たちは教師をなぐりながら、ファレリーに帰った。この様子を見ようと、ファレリーの市民が集まってきた。ファレリーの高官たちは元老院を招集し、異常な事件について話し合った。ローマの仕打ちを憎み、怒りが頂点に達した元老もいた。彼らはいきり立って言った。「たとえヴェイイのような結果になろうと、ローマと最後まで戦おう」。

しかし最後には彼らでさえ、平和を求める大多数の市民の側に回った。すでにカペナは降伏していたので、ファレリーの市民は降服に傾いていた。ファレリーの元老院や広場では、名誉を尊ぶローマ人と正義を愛する将軍についての話でもちきりだった。市民全員の希望により、ローマ軍の陣地にいるカミルスへ使節を派遣することになった。カミルスに降服を願い出るためだった。またカミルスの許可を得て、ローマの元老院に降伏を申し出るためだった。

ファレリーの使節たちはローマの元老院に紹介されると、次のように述べたと伝えられている。

「元老院の皆様。我々はローマの将軍に敗れました。あなたがたに降伏を申し出ます。戦いの結果につては、いかなる神も予測できず、人間にはなおさら不可能です。我々はローマの支配を受け、ローマの法律に従う方がよいと考えました。敗者を支配下に置くことは勝者にとって最大の栄光です。この戦争を通じて、人類の救いとなる前例が生まれました。ローマ人は勝利より名誉を重んじました。我々はローマの精神に打ち負かされので、進んで敗北を受け入れることにしました。我々はあなたがたに従います。武器を引き渡し、人質を差し出します。城門を開き、都市をあなた方に明け渡します。我々の忠誠心が揺らぐことはありません。我々はローマの支配に満足するでしょう」。

最後に使節たちはカミルスに感謝した。もちろんローマの人々もカミルスに感謝した。ローマはこの年の兵士の給与をファリスク人に払わせた。ローマの人々に戦争税を負担させないためだった。和平が実現し、ローマ軍は首都に帰還した。

【28章】

カミルスは正義感と信念により敵を屈服させた。白馬に引かれた馬車で帰還した時より気高い栄光に包まれ、彼はローマに帰った。黄金の深皿はまだデルフィに送られていなかった。カミルスの無言の批判に耐えられず、元老院はに黄金の深皿をギリシャに届けることにし、三人の使者を任命した。 L・ヴァレリウス、 L・セルギウス、A・マンリウスがカミルスの代理として、黄金の深皿をアポロに献呈することになった。しかし三人の乗った船はシチリア海峡付近で、リーパリ島を根城とする海賊に襲われ、彼らの島に連れていかれた。この島の海賊は国家が運営しており、略奪による収益は島民に分配された。ティマスティテウスがこの年の最高官だった。この人物は島民の中では異色であり、むしろローマ人に似ていた。彼はローマの使者

たちの名前を知っていて、人柄と地位を尊敬していた。また彼らがアポロへの贈り物を運んでいることを知っていたので、島の人々に訓戒した。島民は宗教的な勤めのように指導者の言うことを受け入れた。使者たちは迎賓館に案内さた。いよいよ出発となり、護衛の船数隻に伴われ、デルフィへ向かった。帰りも護衛の船に守られながら、使者たちは無事ローマへ帰った。リーパリ島の指導者とローマの間に友好関係が生まれ、ローマはティマスティテウスに贈り物をした。

この年アエクイと戦争になり、勝敗があいまいなまま終わり、ローマ軍も市民も自分たちが勝ったのか負けたのかわからなかった。ローマ軍を指揮していたのは、二人の執政副司令官、C・アエミリウスとスプリウス・ポストゥミウスだった。最初二人は共同で指揮していたが、敵が敗走したので、アエミリウスはヴェッルゴを奪取し、ポストゥミウスは郊外を略奪することにした。

(日本訳注)ヴェッルゴはヴォルスキの町あるいは村。場所

不明。紀元前445年ローマがここを占領し、砦を築いた。しかしローマの前進基地はヴォルスキにとって目障りであり、彼らは砦を奪った。ローマはこれを取り返し、ローマとヴォルスキが争奪を繰り返した。(日本訳注終了)

ヴォルスキが敗走したので、ポストゥミウスは少し油断していた。彼の兵士たちは勝手に略奪をした。すると突然アエクイが攻撃してきて、ローマ兵はパニックに陥り、慌てて近くの丘に逃げた。ヴェッルゴのローマ兵も不安になった。丘の上は比較的安全だった。ポストゥミウスは兵士たちを集め、彼らに訓戒した。「驚いて逃げるるとは何事か。相手は負けてばかりいる臆病者ではないか」。

兵士全員が司令官の叱責はもっともだと納得した。彼らは恥ずべき失態を後悔した。彼らは失敗を取り返すことを誓った。「敵が喜ぶのもつかの間だ」。

兵士たちは「ただちにアエクイの陣地を攻撃しましょう」と進言した。丘から見おろすと一面の平野であり、その中にアエクイの陣地が見えていた。あの陣地を夕方までに攻略できなければ、どんな厳罰もやむを得ない、と兵士は覚悟を決めた。司令官は兵士たちの士気をほめた。「一休みしたら、四時までに戦闘の準備をせよ」。

一方アエクイはローマ兵を軽く見ており、ローマ兵は夜の間に逃げるだろうと考えていた。アエクイの兵士たちはヴェッルゴへ至る街道に行き、ローマ兵を待ち伏せることにした。彼らが街道に向かった時、まだ夜が明けていなかったが、一晩中月明かりがあり、彼らの動きはよく見えた。

戦闘が始まると、叫び声がヴェッルゴまで聞こえ、ローマ兵はポストゥミウスの部隊の陣地が攻撃されと思った。兵士たちは分散して逃げ出し、トゥスクルムに向かった。司令官アエミリウスは必至で引き留めようとしが、無駄だった。ポストゥミウスの部隊が全滅したという噂がローマに伝わった。

ポストゥミウスは夜が明けるのを待つつもりだった。暗い中で敵を遠くまで追撃するなら、待ち伏せの危険が高かったからである。しかし兵士たちの戦意が高く、ポストゥミウスは攻撃開始を命令した。ローマ軍が猛烈な勢いで襲い掛かったので、アエクイ軍はひとたまりもなかった。逃げ惑う兵士が殺戮された。勝者の勇気より怒りが勝っている場合の常であるが、アエクイ兵は一人残らず命を失った。トゥスクルムから悲観的な情報がローマに届き、市民は不安になった。間もなく、ポストゥミウスの急使がやって来て、ローマ軍の勝利とアエクイ軍の全滅を伝えた。

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5巻23-25章

2023-10-31 19:07:35 | 世界史

【23章】

悪い予兆の原因が除去され、将来が期待された。ヴェイイとデルフィの予言者の説明が常識の範囲だったので、何をすればよいか、はっきりしていたからである。偉大な司令官、M・フリウスを執政副司令官に選び、やるべきことはすべてやった。長年決着がつかず、何度も敗北したヴェイイ戦に勝利し、ヴェイイの占領が発表されると、市民は喜んだ。市民は勝利をあきらめていたので、奇跡が起きたように感激した。元老院が感謝の祈りを命令する前に、多くの女性が神殿に集まり、神々に感謝した。元老院は四日間祈りを続けるよう命令した。通常感謝の祈りの期間はもっと短かった。今回の勝利は以前の勝利をはるかに超えて偉大な勝利だった。独裁官が帰還すると、身分を問わず、多くの市民が彼を見ようと集まった。勝利の帰還をした司令官を、市民は熱狂的に歓迎した。数頭の白馬が引く馬車に乗り、カミルスが市内に入ってきた。彼は人間を超えた英雄に見えた。しかしローマ人には生きた人間を神聖化する習慣がなく、この様子は人間にふさわしくないと思った人も少なくなかった。独裁官が主神ユピテルのように白馬に引かれて現れると、人々は神を冒とくする行為ではないかと思った。独裁官の姿は輝かしいものだったが、人々の心が彼から離れる遠因になった。ローマに帰ると、独裁官は、女王である神ユノーの神殿と母神マトゥタの神殿をアヴェンティーヌの丘に建てる命令書にサインした。神々と国家に対する任務を完了し、カミルスは独裁官を辞任した。しかしアポロ神への約束が残っていた。カミルスは戦争の直前の祈りで、アポロに戦利品の十分の一を捧げると誓っていた。カミルスがやり残した宗教的な義務について、神官団は市民が果たすべきと決定した。しかし兵士たちに略奪品の一部を返還させるのは難しかった。最初から戦利品の一部をこれに充てるべきだった。結局容易な方法に頼ることになった。権威ある神アポロと彼の壮大な神殿にふさわしい黄金の王冠を献呈するために、兵士や家庭に献金を求めた。ローマ人の宗教心に訴えたのである。

彼らが獲得した戦利品の十分の一に相当する額を国庫に納めることになった。アポロへの献金を要求され、平民はカミルスを嫌うようになった。

ちょうどこの時ヴォルスキとアエクイの使節がローマに来て、和平を求めた。ヴォルスキは平和の約束を何度も破っていたので、ローマは彼らと妥協したくなかったが、長年の戦争で疲れていたので、彼らの要求を受け入れた。

【24章】

ヴェイイ占領の翌年、6人の執政副司令官が選ばれたが、その中に二人のプブリウス・コルネリウスがいた。コッスス・プブリウス・コルネリウスとスキピオ・プブリウス・コルネリウスである。残りの4人は M ・ヴァレリウス・マクシムス(2回目の就任)、カエソ・ファビウス・アンブストゥス(3回目の就任)、L・フリウス・メドゥリヌス(5回目の就任)、Q・セルヴィリウス(3回目の就任)だった。

二人のコルネリウスがファリスク人をとの戦争に決着をつけ、ヴァレリウスとセルヴィリウスがカペナを処理することになった。どちらの場合もローマ軍は戦闘も包囲もせず、郊外で略奪し、農家の作物を持ち帰った。果実はすべてもぎ取られ、畑には何一つ残らなかった。カペナは損失に打ち砕かれ、ローマに対する抵抗をやめた。彼らは和平を求め、ローマは了承した。しかしファリスク人はローマとの戦争を続けた。

この時ローマの国内で二つの大きな問題が発生した。最初の問題はヴェイイへの移住だった。この問題を解決すために、政府はヴォルスキとの国境地帯に植民地を建設することにした。3000人の市民が植民に応募し、それぞれに幅12ユゲラ(1ユゲラ=30メートル)、長さ37ユゲラの土地を与えることになった。土地の区割りをするため、三人の役人が任命された。しかしローマ市民は土地の供与を問題のすり替えとして、政府を軽蔑した。それは子供だましのあめ玉だまであり、人々が本当に求める物を忘れさせるためのごまかしだったからである。「どうして平民はヴォルスキの地方へ追放されなければならなないのだ。もっと近くに、裕福なヴェイイに土地があるではないか。ヴェイイの土地はローマの土地より地味がよく、広い」と人々は思った。軍事力を失ったヴェイイは安全なだけでなく、公共の建物や個人の家そして広場も立派であり、ヴェイイはローマ以上に素晴らしいとローマの人々は考えていた。後に、ガリア人によってローマが蹂躙されると、ヴェイイに移住したいという願望を持つ市民がさらに増えた。また、少し違った考え方をする人もいた。ヴェイイへの移住を一部の平民と一部の元老だけに制限し、ヴェイイとローマを一つの国家に統合するのが現実的だというのである。しかし、貴族はヴェイイへの移住に反対し、国家統合にも反対した。彼らは言った。

「このような提案が市民会議で票決されたら、我々は人々の面前で自決する。一つの都市でさえ、国内が分裂しているのに、二つの都市になったら収拾がつかなくなる。諸君は征服する側となるより、征服される側になりたいのか。敗北したヴェイイが敗北前より強い国になるのを望むのか。ローマ市民の多くがローマを捨て、ヴェイイに行ってしまい、貴族と愛国者だけが取り残されるだろう。しかしそうはならない。いかなる大国も、ローマ市民に故郷を見捨てさせることはできない。T・シキニウスはローマ市民を連れて、ヴェイイに行き、ヴェイイに新しい国家を建設しようと考えているが、誰も彼について行かないだろう。シキニウスはローマを建設したロムルス、神の子であり自身も神であるロムルスを見捨てようとしているのだ」。

【25章】

もう一つの問題はアポロへの奉納金だった。奉納金を市民に負担させようとした結果、おぞましい喧嘩が起きた。元老院が護民官の一部を味方に引き入れたので、平民は暴力に訴えようとした。これに対抗して、貴族は配下の若者たちを差し向けた。叫び声に続き乱闘が始まろうとすると、元老の重鎮が駆け付け、手下の者たちに「思う存分痛めつけろ。殺してもかまわん」とけしかけた。群衆は喧嘩相手が地位が高く家柄の良い若者だったので、暴力を加えるのをためらった。群衆は他の貴族に襲い掛かることもなかった。カミルスはあちこちで演説した。「市民が怒るのは、やむを得ない。彼らはあれこれ心配事があり、宗教的な任務のためにお金を出す余裕がない」。

神への奉納は国家がすべきことなのに、十分の一税というかたちで、市民に負担させ、国家は義務を放棄した。これについて、カミルスの良心は知らんふりできなかった。「私はアポロに戦利品の十分の一を奉納すると約束したが、戦利品には兵士が持ち帰らなかった、ヴェイイの市内の不動産が含まれる。また兵士はヴェイイの郊外と支配地には手を付けなかった。郊外と支配地の動産と不動産も戦利品に含まる」。

カミルスが厄介な問題を提起すると、元老院は困り果て、神官団に判断を委ねた。カミルスは神官団と話しあうことになり、その結果、神官団は次のように決定した。

「ローマが所有することになった、ヴェイイの全ての財産の十分の一をアポロに奉納しなければならない。」。

神官団はカミルスの主張を認めたのである。国庫が資金を提供し、執政副司令官が黄金を購入することになったが、国庫には十分な資金がなかった。女性たちが話し合い、宝石類を国庫に寄付するとにした。元老院は女性たちの寛大な行為に心から感謝した。言い伝えによれば、女性たちが聖なる祝祭や競技に行くとき馬車が用意され、祭日も平日も彼女たちは二輪車で送り迎えされたという。彼女たちが寄付した宝石は適正な金額で売却された。黄金の深皿が作られ、デルフィまで運ばれた。アポロへの奉納という教的な大問題が解決すると、護民官は煽動を開始した。人々の不満が国家の指導者たちに向けられた。中でもカミルスが最大の標的になった。「ヴェイイで獲得した戦利品を、カミルスは国家と神々与えてしまった」と人々は言った。戦利品をこのようなことに振り向けることは、平民にとって無駄遣い等しかった。

 

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