たぬきニュース  国際情勢と世界の歴史

海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

第一回十字軍 アンティオキア戦④

2019-02-20 19:48:43 | 世界史

十字軍が最初にイスラム教徒から奪還することになった都市、アンティオキアは難攻不落の要塞だった。町の西をオロンテス川が流れ、東側には小高い山(シルピウス山)があったうえに、堅固な城壁で守られていたからである。にもかかわらず、場内の守備兵の裏切りにより、十字軍はアンティオキアの攻略に成功した。

しかしながら、攻略の数日後に、モスルのケルボガ軍を主力とする大勢のトルコ軍が到着し、アンティオキアの十字軍を包囲した。包囲開始の時点で、十字軍はすでに食糧不足に陥っており、包囲開始直後に餓死者が出始めた。十字軍にとって、ろう城は自滅の道に見えた。決死の覚悟で打って出るにしても、城を囲むトルコ軍の数はあまりに多かった。十字軍は完全に行き詰まった。

こうした時絶体絶命の時、天上の神が十字軍を見放していない、と思わせる出来事がアンティオキア場内で起きた。

ペテロ教会の地下で神聖な槍(やり)が発見され、十字軍の中でも信心深いトゥルーズ伯レーモンなどは勇気づけられた。神聖な槍とは十字架のキリストを突いた槍であり、フランク王国の君主や武将に珍重された。この槍の持ち主には神の加護があると信じられ、君主にとっては王権の神聖化に役立った。しかし聖槍はすでに複数発見されており、信ぴょう性は低かった。

十字軍に随行していた聖職者が使徒アンドレの幻視を見た。幻視に聖アンドレが現れ、聖槍が埋められている場所を指し示した。その場所はペテロ教会の聖歌隊の近くだった。レーモンの兵士12人が朝から晩までそこを掘った。かなり深くまで掘った。そしてついにキリストの聖槍を発見した。使徒アンドレのお告げは正しかった。この日は64日だった。兵士たちは喜び、聖槍を祭壇にささげ、神をたたえる聖歌を歌った。

市内は歓喜にわきたち、十字軍の誰もが聖槍を見に来た。ギリシャ人、アルメニア人、シリア人も聖槍を見に来た。

 

しかしながらトルコ軍に包囲された現実は何も変わっていなかった。このままでは空腹がひどくなるだけであり、かといって一一般の兵士の奥は城を出てトルコ軍と戦うのは恐ろしかった。しかし十字軍の指導者たちは聖地エルサレムを解放する決心が固かった。また、恐れを知らぬ戦士であるボエモンのような指導者もいた。弱気な指導者はすでに離脱しており、残った指導者は決死の覚悟を持っていた。彼らが最後に下した決定は、城を出て戦うことだった。戦わずして自滅する道を選ばず、打って出ることに道を切り開こうとした。十字軍とケルボガ軍との戦闘について、年代記は次のように伝えている。

 

======《アンティオキア戦》=======

The Battle for Antioch in the First Crusade (1097-98) according to Peter Tudebode

https://deremilitari.org/2013/11/the-battle-for-antioch-in-the-first-crusade-1097-98-according-to-peter-tudebode/>

 

城を出て戦うことが決まると、十字軍は3日間断食をし、貧しい者たちに施しをした。

十字軍は6つの部隊に分かれた。

①フランドル伯とヴェルマンドア伯ヒューの部隊

②ゴドフロア侯爵の部隊

③ノルマンディー候ロバートの部隊

④ル・ピュイ司教アデマールの部隊(キリストの聖槍保持)とプロヴァンス軍。レーモンの部隊はアンティオキアに残り、山頂の砦からの攻撃に備える。

⑤ボエモンの甥タンクレードの部隊⑥ボエモンの部隊

十字軍に同行していた聖職者たち(司教・司祭・僧)は兵士と一緒に城を出た。彼らは黒服を着て、十字架を掲げ、勝利を祈りながら行進した。

アンティオキアに残る者たちは、城門の近くの壁に並び、出陣する兵士と聖職者を見送った。

十字軍の部隊がつぎつぎに城から出てくるのを見て、ケルボガは次のように命令した。

「まだ攻撃するな。全部の部隊が城を出るのを待て。それから、我々は敵の主力部隊を攻撃する」。

最初に城を出たのはヴェル万ドア伯ヒューとフランドル伯の部隊である。それに続き、残りの部隊が規律正しく行進した。

十字軍のすべての部隊が城を出終わると、その数はケルボガの予想より多かったので、彼は不安になり、野戦軍司令官に命じた。

「敵が発砲し始めたら、すぐに退却しろ」。

ケルボガは負けそうな気がしたのである。ケルボガは山のほうに向かって退却し始めた。十字軍は彼らを追撃した。山のふもとまで退却したトルコ軍はそこで2つに分かれ、半分は地中海へ向かった。ケルボガは十字軍を挟み撃ちにしようとした。ケルボガの意図を見て取り、十字軍は第2軍と3軍の一部を抜き取り、新たに第7軍を編成し、レイナドゥス伯を第7軍の指揮官とした。第7軍は、海のほうに移動したトルコ軍に対処することになった。

戦闘が開始され、海側のトルコ軍は十字軍第7軍に向けて無数の矢を放った。十字軍から多くの犠牲者が出た。十字軍の本隊は山と川の間の、幅2kmの場所に集まった。

一方トルコ軍本隊は退却をやめ、十字軍に向かって進撃してきた。トルコ軍は十字軍を取り囲み、槍と矢を十字軍に向けて放った。

さらに白馬に乗った大勢のトルコ軍が旗を掲げながら、山の上から降りてきた。これを見た十字軍は心の底から震え上がった。しかし白馬の軍団は、十字軍の見方だった。実はこの白馬の軍団は幻視だったが、多くの兵士が、実際に見たと言っている。

海側のトルコ軍は十字軍第7軍に押されて劣勢になり、もはや逃げるしかなくなり、草に火をつけ、それを本隊に知らせた。これを見て山側のトルコ軍本隊は浮足立った。

十字軍本隊はトルコ軍の陣地に進んでいった。トルコ軍は川の土手沿いに陣を敷いており、十字軍はそこに向かった。ゴドフロア候、フランドル伯、ヴェルマンドア伯ヒューは連携し、トルコ軍を攻撃し始めた。この最初の打撃に続き、残りの十字軍部隊も攻撃を始めた。トルコ軍と他のイスラム軍は戦いの叫びの声を上げた。十字軍は神に祈りながら、敵に向かって馬を走らせた。トルコ軍の抵抗は大きかったが、戦闘の末、十字軍が勝利した。

トルコ軍は逃げ出し、十字軍は彼らのテントの所まで追いかけた。そして最後には、十字軍はトルコ軍をタンクレードの砦まで追い詰めた。

 

 (注)十字軍がアンティオキアを攻略する前の話であるが、タンクレードはアンティオキアの南の門の向かいにあった修道院の廃墟を要塞に造り替えた。タンクレードの要塞とはこのこの砦のことである。(注終了)

トルコ軍は金、銀の財宝だけでなく、牛、羊、馬、ロバ、穀物、ワインなどを打ち捨てて逃げた。これらの食糧は十字軍にとって貴重な補給物資となった。

十字軍勝利の噂(うわさ)はすぐに広まり、近隣のアルメニア人やシリア人住民がシルピウス山を包囲し、トルコ軍敗残兵を捕まえたり、殺したりした。

十字軍は勝利に歓喜し、城内に戻った。

山頂の砦を守備していたトルコ軍の司令官は、ケルボガが敗れたことに怒ったが、すぐに恐怖心に打ちひしがれた。彼は十字軍への幸福交渉を始めた。山頂の敵への抑えとして市内に残っていたレーモンはトルコ軍司令官の降伏を受け入れた。山頂の砦に十字軍の旗が掲げられた。その後この司令官はボエモンの臣下になり、キリスト教徒になった。ボエモンは山頂の砦に自分の部下をを新たに配置した。

十字軍の最終的な勝利で終わったこの戦いは、6109868日に起きた。

 

(原文)Peter Tudebode: Historia de Hierosolymitano Itinere 

(出典(Philadelphia: American Philosophical Society, 1974)

===================(年代記終了)

 

トルコ軍に勝利する前から、ボエモンはアンティオキアの支配に執着し、聖地エルサレム開放という十字軍本来の目的に興味を示さなかった。戦闘力が高いボエモン軍を欠いたまま、レーモンとゴドフロアに率いられ、十字軍はエルサレムへ向けて南下した

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする