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シリア内線の原因: 貧しい若者の増加

2017-01-26 22:35:51 | シリア内戦

 

シリア内戦はアラウィ派政権に対するスンニ派の反乱であると言われるが、他の点に注目する識者もいる。貧困層と極貧層の存在である。前回までの3回、極貧層の多くは農民と元農民である。農地が砂漠となり、農民は一切を失い流民となったこと、またその原因について、ド・シャテルが詳しく書いており、前3回訳した。シリアの気候は周期的に雨が少ない年があり、2007年・2008年はそういう年であり、しかも従来よりもさらに雨が少なかった。しかし、大河ユーフラテスが枯れ川になったわけではなく、ユーフラテスの水を利用する地域はなんとか農業を続けることができた。砂漠となったのはユーフラテスから遠く離れ地域である。

50年前にシリア政府は、砂漠地帯での農業に挑戦し、成功した。井戸を深く掘り、地下水をくみ上げたのである。この地下水農業によって農行生産が向上し、シリアの経済成長に貢献した。

しかしシリアの砂漠地帯での農業には自然条件の限界があり、乾燥地帯の地下水の層は薄く、長年水をくみ上げた結果枯渇してしまい、農地は砂漠に戻ってしまった。地下水に頼っていた農業は全滅し、農民は破産した。シリア砂漠での地下水農業は失敗に終わった。

以上がド・シャテルの結論である。

 

201112月のフォーリン・ポリシーによれば、3月以来9か月間のデモで、市民4000人が死亡し、人々はアサド大統領の処刑を求めている。この記事は3月以来のデモを、少数のに対する極貧階級としている。極貧階級は農民・元農民であり、富裕階級は政権に取り込まれた人々である。当然富裕階級にはスンニ派も含まれる。

 

======《反乱を大きくした原因:人口過剰》========

An extraordinary population boom fuels the revolt against Bashar al-Assad's regime.

     By David Kenner   2011128

3月半ば以来シリアではデモが続いている。デモのたびに人々は殺され、これまでの9か月間に4000人の住民が死亡した。当初民主化を求めていた住民は、今ではアサド大統領の処刑を求めている。

先月(11月)カイロで反対派の代表が政府と話し合いをしたが、反対派の代表は卵を投げつけられた。多くの反対派民衆はアサド政権との妥協を望んでいない。

政権と妥協を拒む真の反対派は、どういう人たちだろうか。急激な人口増加の結果、シリアでは広い地域の住民が無産者となった。貧困に苦しむ彼らは怒っている。

1960年代から1990年代の初頭まで、シリアの人口は急速に増大した。1963年に530万だった人口が1986年には1006万になった。その後の25年間に再び倍増し、現在2300万となっている。1980年代の半ばまで、シリアの急激な人口増加率を超える国は、ルワンダとイエメンだけだった。

シリアの人口増加は農村に集中しており、層の厚い極貧階級を生み出した。最近増加率は鈍ってきているが、人口増加率の高いエジプトと同程度であり、チュニジアを超えている。

シリアの人口増加の高い地域は、反対運動の大きい地域と重なっている。最初に大きな反乱が起きた南部のダラアから東部のデリゾールまで、見捨てられた農村地帯で反乱が起きている。農村を捨てた農民はダマスカスやホムスの周辺部や郊外に移住したが、そこでも反乱が起きている。他には反抗と弾圧の長い歴史を持つハマである。

シリアの人口増加はもちろん自然増加によるものではあるが、政府が後押ししている。1956年計画局の経済分析主任のヘルバウニが「人口抑制政策は我が国には適さない」と主張した。「我が国には、マルサスの人口論を信ずる者はいない」。

人口増加が著しかった1980年代に大統領だったハフェズ・アサドは前任者の政策を続け、避妊を奨励しなかった。「人口増加は社会と経済の発展を刺激した」とアサドは語った。彼の政府は1987年まで出産を奨励し、10人以上の子供を持つ家庭に賞賛のメダルと物品を与えた。

その結果シリアはアラブ世界で若年人口が最も最も多い国となった。1960代から1990年代まで人口の半数が15歳以下だった。70歳以上の人口は3%だった。最近になって出生率は低下しているものの、現在人口の60%が20歳以下である。

高い出生率が続いた60年間に、社会は一変した。大戦が終わった1945年、ハフェズ・アサドは子供だったが、ダマスカスは人口30万の活気のない都市だった。彼が政権を取った1970年ダマスカスは人口は80万を超えた。1980年代の終わりには、300万にまで増えた。(この数字はPatrick Seales Asad: The Struggle for the Middle East.より)

 

人口増加によって商・軍複合体が形成された。1963年バース党が政権を取ったとき、シリアには100万長者が55人しかいなかった。(シリア・リラでの100万)1973100万長者の数は1000人になり、1976年には3500人になった。その中の10%だけで1億リラ(2500万ドル)所有していた。

シリアは中央統制経済だたので、金持ちになる道はハフェズ・アサドに信頼されるか、バース党内で出世することだった。このことはバシャールの時代になって加速した。バシャールの従兄弟ラミ・マクルーフは億万長者であり、シリア経済の60%を支配している。

バシャールはダマスカスとアレッポの振興富裕層と同盟する一方で、田舎の子供たちは寒さの中で震えていた。

出生率が高かった時期、シリアの農村では都会の3倍の新生児が生まれていた。田舎の若者たちは成功することを夢見て

拡大する都会に移った。こうして都市は人口過剰になっていった。

田舎の若者たちは都会に出ようが、田舎にとどまろうが貧困から抜け出すことができないことに気付いた。2004年の政府と国連共同の報告は貧富の差が拡大していることを指摘し、「シリアの経済成長は貧しい者とは無関係である」と述べた。

シリアの教育制度は貧しい家庭の子供にとって有利な就職への橋渡しとならなかった。

2009年の政府調査によれば、半数以上の生徒が中等教育を終えずに退学した。これらの生徒は、学校教育は最初の仕事に役に立たなかった、と述べた。むしろ血縁関係や友達が就職に役立った、と述べた。同報告はこうした傾向は好ましくない、としている。

農村部の過剰な若年層が貧困階級を形成している時にアラブの春が起きた。

数世代にわたりアラウィ派は山から下りて、都市に移住し最後には権力者となった。それと同じように最近数十年農村から都市に移住した貧しい農民が、新しい権力者となるかもしれない。アラウィ派の時代が終わり、新しい時代が始まろうとしている。

=============(フォーリン・ポリシー終了)

 

   〈人口増加を望んだシリア〉

シリアはヨーロパより先に文明化した地域であり、ギリシャ・ローマ時代より古いに文明が栄えた。中世にはイスラム帝国の首都となり、第一次大戦末期トルコからの独立を目指したアラブ軍の指導者ファイサルは、新生アラブの首都をダマスカスにするつもりであった。こうした過去の幻影に惑わされて、私はシリアは中規模国家だと、なんとなく思っていた。

しかし1935年シリアの人口はわずか203万だった。経済規模も小さく、シリアは小国だった。面積だけが中規模国家だった。

シリアだけでなく、大一次大戦後アラブ諸国はオスマン帝国から独立したものの、経済発展が遅れた貧しい地域だった。

このことが、シリア政府が破滅的な農地造成を続けた理由である。独立以来、経済発展と人口増加は国家の重要政策となった。第二次大戦後ソ連に接近したこともあり、生産技術の革新が遅れた。技術革新による経済成長という選択肢はなく、伝統的な農業分野での増産が近道だった。砂漠地帯の緑地化は最初成功した。

毛沢東の「大躍進」政策に比べれば、はるかにまともな政策だった。毛沢東は手工業による鉄鋼増産を推進したのである。農家が大釜で鉄鋼生産に取り組み、農業に専念できず、大規模な飢饉が発生した。

シリアでは最初成功だった。砂漠地帯で農業が行われ、農業生産が増え、人口増加を支えた。

毛沢東の「大躍進」に比べればはるかに、はるかに小さな失敗であるが、シリア内戦の大きな要因になった点では、致命的な失敗であった。

シリア政府が破滅的な政策を推進した理由を付け加えたい。

 

オスマン末期のシリアは極めて衰退した人口希薄地域になっていた。私が驚いた以上に、シリアの指導者は過去の栄光と現在の貧しい現実のギャップに苦しんだ。にもかかわらず、将来に対する野望は大きかった。エジプトとともに、アラブの指導国になろうと思った。少し前まで砂漠暮らしサウジアラビアの支配者を見下し、イラクを弟分ぐらいに思っていた。

シリアの指導者には、自国がアラブ諸国の中で中心的な国であるという自負があり、それにふさわしい国力を持ちたいと願った。国力の中身は経済力と武力であるが、人口規模も構成要素である。

シリア政府は、経済発展のためにも、政治的な野心のためにも、必要な人口が不足していると、考えていた。1970年半ば人口増加によって社会問題が生まれているという意見があったにもかかわらず、1987年になっても、大統領は出産を奨励した。シリアはエジプトのように真剣に人口削減に取り組むことはなかった。国内の安定より、アラブ諸国内での自国の地位が優先された。

その結果大量の貧しい若者を抱えてしまった。彼らは革命の地雷原となった。革命の先陣を切るのは、イデオロギーの熱心な信奉者であるが、将来に失望した大勢の若者が後に続いた。

バシャール・アサド大統領は破産した農民の救済に取り組んだようであるが、餓死者を救ったとしても、極貧者を放置した。それがシリア内戦を引き起こした。

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