=====《革命の引き金となったもの》========
The Role of Drought and Climate Change in the Syrian Uprising:Untangling the Triggers of the Revolution
著者 Francesca de Châtel 2014年1月27日
革命開始から2年経た現在(2013年7月)、命命は血なまぐさい争いに堕落した。死者10万人、数百万人が隣国に避難し、さらに425万人が国内で難民となっている。
シリア国民の蜂起は世界にとってだけでなく、シリア国民にとっても予想外だった。
2011年初頭チュニジア、エジプト、リビアの国民が自由を求と正義を求め街頭に繰り出し、ついには政権を転覆させた。これを見たシリアの人々は、驚嘆していた。しかし自分の国ではそうしたことは起きないとあきらめていた。
体制に対する彼らの不満は大きかったが、これまでの経験から、政権の弾圧に対する恐怖は他のアラブ諸国と同列ではなかった。シリアでは圧制に対する不満のほかに、経済的な不満も大きかった。急激な経済の自由化により、都市と農村の貧富の差が拡大し、失業者が増えた。貧困層が増加したにもかかわらず、2005年政府補助金が打ち切られた。2006年―2010年の干ばつにより、農村は砂漠と化した。
このような時に政府の役人は汚職で肥えていた。
さらに2011年以後様々な出来事が起き、抗議運動が内戦に転化した。世界有数の古い歴史を持つ都市を廃墟に変え、3割の国民の生活を破壊した。
経済的な要因がシリア内戦の背景にあることは確実だが、唯一の原因を特定するのは難しい。全体的な背景を無視して、特定の要因だけを強調するのは誤りだが、3つの経済的な要因が全体を構成する重要な部分であることは疑いない。
①それまで計画経済だったシリアが、2000年に市場経済を導入した結果、富裕層と貧困層の2極化がすすんだ。
②50年間の農地開発と大規模な水管理の失敗により、少雨が農村に破滅的な被害をもたらした。
③シリア政府は干ばつの被害を過小評価し、その結果起きた大惨事に向き合おうとしなかった。
③については、一般に気候変動による少雨の結果とされるが、現地視察の結果、私は少雨だけが原因ではなく、その対応に失敗したことが決定的な要因であるという結論に至った。農民は砂漠となった農地を捨て、都市の郊外にスラムを形成した。このことが、革命の引き金になった。長年にわたって農民の不満はくすぶっていたのであり、ついに爆発した。
干ばつはこれまで周期的に起きていたのであり、乾燥帯気候に属するシリアでは珍しいことではない。2007年と2008年シリアと同様に少雨であったイラク、イスラエル、ヨルダンでは、多数の農民の破産と栄養失調は起きていない。シリアでは以前から不作が続いており、2006年ー2009年の干ばつはさらなる追い討ちとなったのである。
同じレベルの干ばつ過去にも起きていたが、2007年と2008年のように甚大な結果を引き起こしたことはなかった。
この結論は2006年―2009年の広汎な調査に基づいている。また2008年と2009年私はジャジーラ地方で現地調査をした。
(注)ジャジーラはユーフラテス上流地域を意味し、ハサカ県、ラッカ県、デリゾール県にまたがる地域である。
私は政府の官僚と話し、荒廃した農村から都市に移住した農民に聞き取りをした。聞き取りの場所は、ダマスカス、ダマスカス郊外、ダラア県、レバノンのベイルート郊外とレバノン山地である。
現地取材により得られた情報のほかに、手記や文章を読み、国連やメディアの報告を参考にした。
私が2009年に聞き取りをしたジャジーラ地方の農民は、熱い砂嵐がしょっちゅう起きて、作物が枯れてしまう、と嘆いた。シリア東部の草原(ステップ)が砂漠化してしまった、と農民は語った。、
急速な砂漠化の原因は少雨だけではなく、家畜が増え、草原の草を食べつくしたからである。1958年部族が解体され、草原が国有化された。乾燥地帯の植物は雨季と乾季の交代に適応して生きている。生態系が健全ならば、植物は長期の乾季にも耐えることができる。
シリアで最初の自然保護区(タリア保護区)での10年間の実験の結果、過度の土地利用と管理の失敗が砂漠化の原因であるとわかった。
2000年ー2010年研究チームが羊の放牧を禁止し、アンテロープだけに草を食べさせた。この地域では、植物は乾季を耐え抜き、雨期になると再び緑の草原となった。一方羊が放牧されている他の地域は砂漠となった。
砂漠と違い、ステップでは草が生え、放牧が可能であり、人々が生活している。これらの地域が砂漠化すれば、そこに住む人は飢え死にすることになる。したがって放牧地の砂漠化は大きな社会問題となる。これはシリアに限らず、国家を揺るがす不安定要因となる。
乾燥地帯では水の管理は不可欠であり、無制限な土地利用は自滅に至る。シリア東部の砂漠化は当然の結果であり、そこに住む農民の貧困は長年の問題だった。2011年3月、これがシリアで最初の反乱を引き起こした。
2007年と2008年シリアの雨量は長期の平均雨量の66%だった。雨が全く降らな地域もあった。シリア東北部は平均雨量の半分以下だった。ハサカ県は36%、デリゾール県は40%であるラッカ県はややましで66%である。
川の水を利用出来る農地では主要作物の収穫量は32%減にとどまったが、雨水だけに頼る農地では79%減だった。小麦と大麦の生産量については、前者は前年に比べ47%減、後者は67%減だった。
シリアの農業生産は壊滅的な打撃を受けた。シリアの小麦生産の長期平均は380万トンであるが、2008年と2009年は210万トンだった。シリアは15年ぶりに小麦の輸入国となった。
2008年と2009年シリアの他の地域では雨量が回復したにもかかわらず、東北3県(デリゾール、ハサカ、ラッカ)では雨量が回復しなかった。
2011年シリアで最初の反乱が起きたダラアでは、4年間干ばつが続いたと一般に報道されているが、これは誤りである。2008年と2009年ダラア県の雨量は回復していた。事実、2008年以後、東北部の農民ガダラア県に移住している。
ダラアの住民の抗議の最初の理由は、15人の子供が逮捕されたことだった。しかし間もなく政府の腐敗を批判するようになった。特に井戸を掘ることと水利用の認可が問題とされた。
2009年と2010年、シリアの雨量は回復した。しかし東北部は雨の降り方が不規則だった。雨季の初めには雨が降ったものの、作物にとって水が必要な2月と3月、55日間雨が降らなかった。川の水を利用できる地域では、前年までの少雨が原因で菌による病気が広がり、軟質小麦が枯れてしまった。その結果2009年と2010年の小麦の生産量は平均の380万トンを下回り、320万トンであった。雨量が多かったので、政府は平均を上回る400万トンー500万トンを予測していた。
雨の少ない年が続いたので、シリアの農村は大きな打撃を受けた。特に東北部の被害は深刻だった。ジャジーラと呼ばれるこの地方は、国内で最も後進的な地域である。2006年以前のこの地方を描いたドキュメンタリー映画では、前近代的な農村共同体と極端に貧しい農民の生活が描かれている。1970年代にユーフラテス川に巨大なダムが建設されたことも、農業に悪影響を与えた。
ジャジーラには油田があり、国家の石油需要を満たしているにもかかわらず、ジャジーラ自体は貧しい。小麦や大麦などの主要作物を国家に供給し、国家はそれらを輸出しているにもかかわらず、ジャジーラは貧困率が高く、健康保険もなく、識字率が低く、農業に代わる職業もない。
2004年以後の統計によれば、アレッポ、ハサカ、デリゾールラッカ、イドリブの5県だけで、シリアの貧者の58%を占める。これらの県では、都市にも貧者が多い。かれらは1日2ドル以下の生活をしている。
1996年ー2004年にシリアの他の地域では貧困率が低下したが、東北部の農村地帯では上昇した。2006年ー2010年の干ばつによって、この傾向が加速した。
国連の調査によると、2008 年ー2011年に130万人が干ばつの被害を受け、その中の80万人は生活の手段を失った。干ばつが2年目や3年目になると、農民は方策がなかった。2年連続で収穫がないと、農民は種を得られなかった。牧畜をする人は、家畜が草を食べられないし、飼料もなかったので、家畜を売ったり殺したりするしかなかった。
農村では、もともと栄養失調の人が多かったが、さらに増えた。被害が大きかった地域では、8割の人がパンと砂糖入りのお茶だけで生きていた。被害大きかった3県の統計によれば、 2006 年ー 2010年栄養不足が原因の病気になる人が増えた。ラッカ県では、半年ー1年の乳児の42%が貧血だった。
2010年国連の推定によれば、シリアの人口の17%に相当する370万人がまともな食事をしていなかった。
これは2006年以後に始まったことではなく、すでに2002年・2003年の時点で、200万人が極貧だった。
シリアでは社会主義的な方針に基づき、生活必需品に対し国家が資金を出し、物価を下げていた。しかし2008年と2009年政府は多くの補助金を打ち切った。その結果ディーゼル油と肥料の値段が数倍上がり、ジャジーラ地方の農民にとって干ばつに劣らぬ苦難だった。彼らが土地を捨てる決断をする最後の要因になった。もちろんこれは他地方の農民とっても大きな負担だった。
アサド政権は統制経済から自由主義経済への移行を試みた。世界市場への参入なくして経済の発展はないからである。1990年代初頭、ソ連崩壊後の新生ロシアが同様のことを行った。短期間に実現しようとして大きく失敗した。アサド政権はロシアの失敗に学び、急激にではなく徐々に市場経済に移行することにsた。また移行目標を自由主義市場経済ではなく、「社会主義的な市場経済」とした。にもかかわらず失敗した。その結果2011年反乱が起きた。
1986以後の規制緩和は、農民にとって補助金を初めとする各種の援助の打ち切りを意味した。規制緩和は「第10次5年計画」(2006年–2010年)で加速した。5年計画の目的は、シリアをグローバル市場に開き、WTO(世界貿易機構)に加盟するための準備することだった。補助金に依存する経済は自由貿易と相いれなかった。のみならず国家予算の赤字が増大しており、補助金の打ち切りは経済的観点から必要な措置だった。
しかし貧困者の救済制度(セーフティ・ネット)が存在しないシリアでは、行き詰まった農民は見捨てられた。
政府発表では、2005年と2006年シリアの就業人口の19.5%が農民とされていた。しかし実際には、40–50%が農民だと言われている。なぜなら非正規労働に流れた農民が増えているからである。2000年に農業が自由化されて以後、農業の仕事が激減した。労働人口の統計によれば、2001年ー 2007年46万人の農民が農業を捨てた。農業人口が33%減少したのである。これは全就労人口の10%にあたる。農業生産高は9%増加しており、生産効率が向上した。
2003年と 2004年は十分雨が降ったが、この2年間に最も多くの農民が農業を捨てた。
2008年5月ディーゼル燃料への補助金が廃止され、値段は急に5倍になった。シリアの農民は農地に水を引く際、ディーゼル動力で井戸や川の水をくみ上げる。収穫物を市場に運ぶ自動車の燃料もディーゼル油である。1960年代に動力を用いて地下水をくみあげる方法が導入され、増産につながったが、地下水の枯渇という問題を引き起こした。ディーゼルの値段が高騰すれば、地下水をくみ上げることが困難になり、地下水の回復の可能性が見えてくる。
農民がディーゼルを買えなくなるのは、長期的な観点からすればよいことなのだが、補助金の廃止が収穫後ではなく、実入りの最後の段階で行われたため、東北地方の農民は作物に水をやることができなくなった。収穫まで水を与えることができた農民は、収穫物を市場に運べなかった。
2008年ラッカのある農民は高い値段のディーゼルを買えず、収穫した赤トウガラシをアレッポの市場に運べなかったので、羊に食べさせた。
2008年と2008年土地を捨て、ジャジーラを去った農民の多くが同様の経験をした。
2009年5月、化学肥料に対する補助金が打ち切られ、値段が2倍になった。
2009年シリアの平均所得は月額242ドルであったが、農民の収入ははるかに少なく、農民の30%は月額109ドル以下である。
2009年の補助金廃止後、東北部の多数の農耕民と牧畜民が土地を捨て、職を求めて都市や南部の県に移住した。季節労働者としてアレッポやベイルートで建設業に従事することは、以前から一般的だったが、家族全員が移住することは少なかった。1999年ユーフラテス川にダムが建設された時、土地を失った農民がダマスカスに移住した。彼らは今もダマスカス郊外のハムリエムリエ地区に住んでいる。
2008年以後数十の家族がアラアの近くのMzeiriebキャンプに住んでいる。彼らの一部は10年前からこのキャンプで生活している。