弔問外交とやらで、外国から来た40人の弔問使節と3日間で個別に会談する岸田首相、手始めに昨日はアメリカのハリス副大統領と会談した。
これがお粗末。呆れたことに、15分程度の対話に原稿なしで真率に語るハリス副大統領と、原稿から目を離せない岸田首相との対照的な姿の映像がテレビに流れ、彼我の文化の違いが浮き彫りになった。
我が身が縮むような、国辱ものの光景だった。あれが外交?あれを有ろうことかあと39人累ねる気らしい。おそらくほとんどの国の弔問使節は、原稿なしで語るだろう。日本の政治家のスピーチリテラシーは異様である。
事務方の原稿がないと、たった15分間の会談もできなくて、弔問外交とは笑止千万である。
自分の頭で考えたことを真率に相手に伝えられない人間に、国益を左右する外交などできるはずもない。内容のある対話なら、たとえ15分でも意義はあり成果も挙がるが、1時間話し合っても中身が空っぽでは、会談は無意味である。せいぜいご馳走をして、味覚で遠路の労に報いるしかないだろう。
自らの考えを、率直に伝える能力がないと思われる政治家には、即刻政権の座を降りていただくしかない。また、自らの言葉でスピーチ出来ない人が議員でいることを、国民は容認してはいけないと思う。当人の言葉を信用できないからだ。言語能力のある無しは、政治家の資質として最優先されなければならない。
今回、G7の首脳はひとりも来なかったが、弔問の場で、出席した各国首脳と会談したからといって、外交的な成果など期待する方が間違っている。滅多に会える機会がないからと、この機に親交を深めようという考えは安直に過ぎる。
そもそも国葬の場での弔問外交とは、いったいどういう発想だろう。弔問に訪れた人の弔意を受ける手続きの一部を外交に含めるとは、噴飯物である。対話時間を考えると、単なる顔合わせでしかできない。
第一、故人に失礼ではないか。故人に対して弔意を表しに来た人間と、慌ただしく外交上の話をするなどもっての外である。
洋の東西を問わず、弔問には、自然に発した礼節というものがあって然るべきである。
弔問外交とは、庶民が葬儀の場で商取引の話をするようなものである。
同席した人は眉を顰めるだろう。
故人の葬儀を奇貨として利用する心根がさもしい。弔問外交の実は、何一つあがらないだろう。端から国葬などやらなければ、弔問外交などという、後付けの意義を国民に喧伝しないで済んだのに・・・
日本に限って、弔問外交という言葉は、これを最後に死語にすべきであろう。
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