戦国時代の幕を引いたこの歴史的事件の場は、奇しくも列島の西南部を縦断する大断層、中央構造線の要所でもあり、私にとっては歴史と地質、ふたつの興味を同時に満たす得難いフィールドに思われた。家から近いことを幸いに、若い頃から度々現地に足を運んできた。
歴史上の事件は、専門家といえども真相は掴み得ない。史実と謂われるものは、文献史料を支えにした後世研究者の推理にもとづく見解の積み重ねであって、真実かどうかは誰にもわからない。その不確実さが、歴史小説、時代小説の隆盛を招き、巷の歴史愛好家の探究心を誘う。
すでに本ブログのエントリー
で、「鳶ヶ巣山砦」について陋見を披瀝しているので、今回は③「設楽ヶ原決戦」について考えたことを述べさせていただく。
天正3年(1575年)、織田・徳川連合軍と武田軍が死闘を繰り広げた設楽ヶ原古戦場は、南北約2km、東西約500m、並行するふたつの低い丘陵に挟まれた狭い平地で、合戦当時は採草地つまり原野だったらしい。今は一面の農耕地になっている。平地を貫流する連吾川は、約2.5km南で豊川に合流する。
この合戦、精強な武田軍の騎馬隊を、馬防柵に拠った織田・徳川連合軍が鉄砲3000丁 の連射をもって壊滅させたと、まことしやかに伝えられてきた。小説・映画・テレビはいづれもこの3点を強調して創作されている。
このうち、鉄砲3000丁(実際は1000丁とも)による3段構えの連射説は、実験の結果不可能であることが明らかになり、既に否定されている。残るふたつ、騎馬隊と馬防柵についても、私見では通説に誇張と誤認があるように思う。
1.騎馬隊
武田軍の精強さは、その騎馬隊によると言い伝えられてきた。映画・TVでは、丘の上に轡を並べた武田の騎馬隊が、号令一下斜面を駆け下り、平原を疾駆して敵陣に殺到するシーンが強調されてきた。ドラマのスペクタクルとしては許されても、考証的には荒唐無稽の誹りを免れない。
先ず第1に、この国では明治の近代的兵制になるまで、将卒の別なく騎乗する騎馬部隊というものは存在していない。モンゴル騎兵やコサック騎兵のように、指揮官も兵士も全員が騎乗して闘う部隊を騎馬隊または騎兵隊という。古代以降の馬具・兵制・軍装と、牡馬の去勢を知らなかった事実からして、近代化(西欧化)以前の日本に、その種の兵科が存在したことを証明できる資料は一切ない。
その事実を端的に示すのが日本の木製鞍と鐙だ。皮革製の西洋鞍に較べて騎乗者と馬体との密着性が悪く、人馬一体となるに難がある。鐙の形態も、疾駆するに馬上で身体を支えるには適していない。もっと言うなら、ブーツを履かない民族は馬を乗りこなせない。日本に、映画のような騎馬隊=騎馬軍団が存在しなかったことは、逐一検証すれば、誰もが納得するだろう。
次に、常庸の足軽部隊(槍・弓・鉄砲の専門兵科)が創出されるまでの戦国時代の兵制というものは、騎歩混成ユニットが基本単位だったことを忘れてはいけない。騎馬武者1騎に対して轡取りと槍・鉄砲・弓などで武装した歩卒5・6人が一団となってユニットを構成する。
当時軍役は郷村単位に課せられ、土豪・名主(みょうしゅ)クラスとその家の子・郎党が騎乗し、それぞれ郷民を歩卒として引き連れ出動した。各ユニットは、所属する侍大将(寄親)の配下(寄子・与力)として集められ、大将の指揮の下で部隊行動をする。足軽部隊が足軽大将の指揮下で部隊行動するのと変わらない。
この騎歩混成ユニットの構成は、騎馬の数で軍勢の兵力規模を表した源平の頃から戦国末期までほとんど変わっていない。武田家の兵制もこれを踏襲していた。というより、兵農が分離していない土地私有制のもとでは、この編成が最も自然で効率的だった。
徳川美術館所蔵の長篠合戦図屏風にも、織田・徳川軍の横列鉄砲隊に対する武田軍は騎歩混成分隊で、騎馬のみの部隊は画面の何処にも描かれていない。彼らの戦場での移動は、轡を取る歩卒の走る速度(約30kmぐらいか)を超えることが出来ない。勿論物見や伝令の将士は、単騎で疾駆するからその倍ぐらいの速度で行動するが、戦闘部隊の移動速度は遅い。すなわち、武田騎馬隊の疾風迅雷の機動力というものには、甚だしい誇張があると考えざるを得ない。
そもそも、甲斐・信濃・上野にまたがる武田家の支配地には、上古以来朝廷の馬を産育した牧が多かった。中世以降になると私牧も増え、馬の生産は更に高まった。当然、領内で馬の飼育に携わる人口の比率も高い。したがって、騎馬の動員力が大きいばかりか、騎乗者と歩卒の操馬能力も、卓越していたことだろう。武田の騎歩混成ユニットからなる戦闘部隊は、長篠戦で敗北するまで、織田、徳川はもとより他の戦国大名のそれと比べ、格段に勝っていたことは間違いない。戦国の世にあって、武田の騎馬隊が盛名を恣にした理由はそこにある。それにしても、武田軍が、将卒全員騎乗の騎馬隊を編成し、その機動力をもって戦いを制していたというのは、明らかに虚構であろう。
またこの国では、古くから馬は貴人が乗るもの、貴重なものだった。律令時代に朝廷が各地に牧を配したのは、軍事用と乗用の需要に応ずるためであったと考えられる。しかし、軍事用であってもそれはあくまで貴族の将官が乗るもので、兵卒が乗るものではなかった。武士が擡頭した平安期から鎌倉、室町の武家統治の時代になっても、馬は専ら重装した武将の移動用の乗り物で、兵卒が騎乗したことはない。騎馬武者という言葉が示すとおり、馬は武者が乗るものだった。
後の江戸時代になっても、騎乗できる者の身分は厳しく制限されていた。他方遊牧・牧畜の国々では、馬は仕事や移動のために日常必須の生活用具で、身分の別なく戦時も平時も騎乗する。歴史的にそのような生活形態をもった国々においてのみ、騎馬隊=騎兵隊を編成することが可能になる。
因みにブーツは、洋式鐙の馬に騎乗するためには不可欠の履物で、その着用の有無は、民族のルーツが騎馬民族であるかないかの証明ともなる。更に、馬を集団で利用するには去勢の技術が欠かせない。これは調教と共に、遊牧・牧畜の民族に固有の技術で、馬を一頭単位で農耕や運搬に使役する民族には不要の技術だった。去勢が出来なければ、騎兵隊は機能しない。どこから見ても、明治以前の日本に騎馬隊の実在を証明する根拠が見あたらない
2.馬防柵
この名称そのものに、騎馬隊への思いこみと事実誤認が反映していると思う。長い間、柵の目的は騎馬隊の戦線突破を防ぐためのものと私たちは思わされ納得してきた。それは、映画で見るように、何百という騎馬武者の殺到を想像するからだった。騎馬隊という架空の部隊の攻撃を想像すれば、それに対して効果的な防御は誰もが必要と考えるだろう。
古来日本の陣地戦においては、逆茂木・竹矢来・木柵の構築はあたりまえで、織田・徳川軍がこの長篠の戦いで木柵を設置したのは、特別の名案でもなんでもない。柵を馬防目的と考えるのは、前提に精強な武田の騎馬隊の強襲という、後の世につくられた虚構を強く意識するからであろう。織田・徳川軍はごくコンベンショナルな野戦陣地を築いたに過ぎない。武田方はこの柵の存在を自分達に決定的な不利をもたらす構築物とは全く考えていなかったから、戦端を開いたと見る。
さらに馬防柵に関しては、江戸時代の書物に訳のわからない蛇足ともいうべき記述があり、世に広く流布されてきた。それは、信長は岡崎を進発するにあたり、柵を構築するため兵士ひとりひとりに丸太一本と縄一把を携行させたという内容のものだ。柵を重視すると、いかにももっともらしいが、これはまったく信用できない。現地に復元されている柵の丸太は太く長く、とてもひとりふたりで持って行軍できる代物ではない。もし本当に柵の構築材を必要としていたなら、小荷駄と呼ばれた馬匹輸送を受け持つ輜重隊に任せるのが普通であっただろう。もし柵材を用意したことが事実なら、信長は陣地戦を確実視して岡崎を進発したことになる。武田軍との遭遇戦が絶対に無いとする根拠がわからない。
そもそも信長ほどの人物が、敵に作戦意図や戦術を見抜かれるような行軍を指示するとは考えられない。長篠までは徳川領内、どこでも領民を徴発・動員して柵の丸太を手に入れ構築することができる。布陣位置が決まってからでも間に合う柵材を、わざわざ出発の時から兵士に携行させて行軍する必要など全くない。柵の効用を誇張するためのつくり話とみて間違いなさそうだ。
柵の構築目的は、有りもしなかった騎馬密集軍団の突撃を防ぐためのものでなく、武田軍の精強な騎歩混成ユニット群に戦線を各所で突破され、敵味方入り乱れての乱戦となり、掻き集めた多数の火縄銃の効力が発揮できなくなることを防ぐためのものだったと考える。柵は白兵戦を避け自軍の鉄砲隊の効果的運用を実現させるための障壁だったと考える。
敵味方入り乱れての白兵戦となれば、火縄銃はまったく役に立たない。近くを動き回る目標に狙いは定められない。味方を誤射する可能性が高い。また、射手の身に敵兵の刀槍が及ぶ危険が飛躍的に高まり、彼らは弾ごめする暇もなく、鉄砲を放り出し抜刀して応戦しなければならなくなるだろう。弓でも火縄銃でも飛び道具は、射手がわが身の安全を保てる位置から射撃に専念できて、はじめて狙撃が成功する。信長が恐れたのは、鉄砲隊を乱戦で運用できなくなることだったのだろう。戦線で敵味方を隔離し乱戦に陥ることを防ぐ目的で柵は構築されたと見る。
記録によれば、実際に戦線北端に近い大宮前激戦地、中央部の柳田前激戦地、南端に近い竹広激戦地など、武田軍の攻撃力が集中した地点では、柵が破られ激しい白兵戦が展開されたらしい。それら激戦地では、火縄銃はほとんど用を成さなかったことだろう。
この戦いで、織田信長は火縄銃という兵器の威力でなく、鉄砲隊の安全で効果的な運用術の威力を天下に示した。それは鉄砲足軽隊を柵に沿って展開し、敵と接触することなく安定して射撃を続ける戦術であった。
信長は現実にありもしない騎馬隊への防御を念頭においたのでなく、鉄砲隊の保護と展開や移動の容易さを最優先して柵を構築したと考えたい。虚構の騎馬密集攻撃を想定した馬防柵というもっともらしい単語は、この合戦の実相を知るには不適切な用語と言わねばならない。
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