道々の枝折

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情報依存社会

2017年12月19日 | 随想

情報過多で雑音が多すぎる現代社会は、いったいどこに向かうのだろう。常に何らかの情報に接していないと安心していられないなら、情報依存症を疑いたい。

SNSというものは不思議な魔力がある。一旦始めると、利用者はリプライ、フォローの数に影響され、数字に執着するようになる。自分の投稿に対する反応が気になるのだ。私自身の体験では、多くのフォロワーがいることに連帯感が生まれ、フォロワーの反応が気になり、スマホのSNSアプリから目が離せなくなる。そこに依存性とか中毒性を感じるのは、私ばかりではないだろう。

今やPinterest,Instagram,Twitter,FaceBookなどにアカウントをもつ人は、この国の多数派になりつつある。どれほどの頻度で閲覧や投稿を繰り返しているのか、実態はわからない。

本離れが進行していると言われて久しいが、人々が本を読まなくなった要因の一つに、SNSがあることは否めない。

塾考を重ねて書かれた書物は、読むのに時間がかかる。これに対して、一投稿140字のツイートやリツィートは、どちらかと言えば瞬発的発想で、熟考されたものではない。投稿もリプライも、タイムラインにうたかたのように浮かんでは消えてゆくものだ。レスポンスの速さだけが意味を持ち、火花のように人々の意見が飛び交う。文字表現よりも簡便な写真投稿サイト、インスタグラムの利用者が増加の一途を辿っているが、「インスタ映え」する画像すなわち対象に興味が偏り、投稿者の主体性が失われがちになるのは避けられない。

ネット空間に囲い込まれ、SNSに群れ集い、いっときもスマホを離せない人々は、ネット依存症に陥る危険性がある。生産活動を伴わないネット空間の中で、皆が記者、カメラマン、批評家となり、自己表現のためにひしめき合っている。その対局に、コンテンツを見ているだけの、発信しないで受信するだけのわ人々がいる。双方向性が謳われるインターネットだが、それは可能性であって、現実は少数から大多数に向けて一方的に発信されているのが真の姿だらう。

IT社会は、人々のもつ能力をネットワークで緊密に繋げてくれる集合知の世界だが、そこに人間的な繋がりはない。仮想の連帯といえる。人々の多くは匿名で無数の交信を行い、情報を利用しあい、個を埋没させ、人対人の連帯を失ってゆく。

連帯を求めてSNSに奔ったにもにもかかわらず、更新を繰り返すうちに共感依存に陥り、かえって人間的な共感を失い、烏合の衆に成り果てる虞れがある。実際鵜のコロニーに近づくとわかるが、その啼き声の姦しいこと、長くとどまっていられない。

仮想空間に人々を囲い込み、匿名性で保護された中で人々の思いつきの意見や考えを交換させ、井戸端会議のようにお喋りを延々と継続させることで、SNSの運営会社に莫大な収入が発生する仕組みができあがっている。利用者には何のメリットも啓発もない。あるのはフォロー数という自己満足だけだ。むしろ、時間という、個々人のもつ貴重で有限な無形の資産を、浪費させている。

SNSは今やビッグビジネスで、それぞれの運営主体は、世界中で莫大な利益を得ている。金融資本主義の次に来るのは、間違いなく情報資本主義だろうが、共感依存者たちを情報漬けにして利益を貪るビジネスモデルは、現実のものになっている。

若い人たちは、ネットのドロ沼から這い出すべきだ。ネットに囲い込まれると、ひとりひとりのメタ情報がいくつかのサービス運営会社に集積共有され、消費傾向から生活行動まで把握され、囲い込んだネット資本家の側に無限の利益材料を提供する。

「ツイッター日本」が、「電通」100%子会社であることを知れば、人々の共感・連帯願望を利用するビジネスモデルが、成功裡に進行していることを実感できるだろう。

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