安土を降車駅と定め、米原で乗り換
えたJR琵琶湖線特別快速。安土駅には一駅手前の能登川駅で降りて普通電車に乗り換えなければならないのだが、僚友との話に熱中して気が付けば守山駅。しかも間が悪いことに、米原方面行きの電車は事故で1時間以上遅れるとのアナウンスがあった。焦って案内所で訊ねれば、守山・安土間にバスの運行は無いとのこと。已むを得ず当日の目的は、守山の歴史探索に切り替えた。
滋賀県は歴史遺産の宝庫で、琵琶湖の周囲は史跡と遺跡で覆い尽くされている。800件を超える国宝・重要文化財は、全国で第4位の多さだ。有史以前から古代にかけての遺跡・史跡の比率が高い。
道路建設や宅地などの開発工事で見つかった遺構が多く、今なお地下に眠っている未知の遺跡は数知れないだろう。
中でも守山市は市内に147箇所の遺跡があり、遺跡群の上に市街地が乗っているといっても過言ではない。隣接する栗東市も同様の事情らしい。守山で出土した遺物は200万点以上にも及ぶという。
弥生時代前期の水田跡、中期の環濠集落跡、後期の大型建物群と、時代を代表する遺跡が順序よく北から南にほぼ等間隔で所在している。考古・歴史好きのために誂えたような都市だ。畿外であっても、近江は先史時代から北九州と並び、大陸・朝鮮半島など先進地域との交流の窓口だった。
その守山遺跡群のひとつ、下之郷遺
跡史跡公園を訪ねた。弥生時代中期、2200年前の滋賀県最大の環濠集落跡である。出土品の展示を見たり復元された環濠を見ることができた。
様々な用途の農具や土器、武器が多数出土している。日本の稲作は、この琵琶湖畔の地から始まったと言われているらしい。
出土品の中で興味を引いたのは、木製の「楯」と青銅製の「戈」(カ)だった。特に「戈」のレプリカは初めて目にするものだった。
「干戈を交える」とはよく耳にする
が、干は盾、戈は柄の先端に柄と鋭角に剣を取り付けた武器で、中国の春秋戦国時代に実用されていた。その「戈」が時代のそう離れていない日本に存在していたとは知らなかった。春秋戦国時代の末期、秦に滅ぼされた韓・趙・魏・楚・燕・斉などの国々の難民たちの流亡先に、弥生時代の日本が無縁であった筈はない。彼らが渡って来た可能性を戈は示しているのだろうか?
これまでは、「矛」(ほこ)という柄の延長方向に幅広の剣を取り付けた扁たい槍のような出土品ばかり見てきた目には、珍しい形の武器だ。
この遺跡に住んでいた人々は、「戈」という武器(その他刀剣や弓矢も携行したいたが)と温帯ジャポニカの祖先種の籾を携えて海を渡ってきた人々の子孫であるに違いない。「戈」は当時中国から朝鮮半島にまで伝わっていたようだ。この遺跡の人々の先祖が大陸から直接来たのか、半島経由で来たのかは、人骨の出土がなければわからない。それに関しては、この展示館に説明するものはなかった。
近江名物の鮒ずしが、原初はこの地の多重環濠に、春先大量に乗っ込む琵琶湖の鮒の保存を目的としたものだった可能性を職員さんから聴き、もしそうならこの遺跡の地に初めて住んで環濠集落を営んだ人々は、鮒ずしによる食料保存法を知っていた人々だったかもしれないと思った。それは朝鮮半島でなく大陸から直接に来た人々だったと推察できる。
この集落の環濠は三重が基本だが、
掘られた場所によっては、九重の濠もある。現在の琵琶湖畔から約2.5キロ、当時は水位が今より高く、湖岸が集落のすぐ近くにあったという。環濠は住居域の排水目的や外敵の防御などの主目的のほかに、春の乗っ込み時のフナの捕獲と蓄養、すなわち生鮮食材の備蓄施設だったという見方があっても不自然ではない。おそらく多重の環濠は、それら目的の全てに配慮した、多目的な施設であったのだろう。
とにかく有史以前には、野洲川河口域の現地では、労せずに大量の鮒が毎春捕獲されていた。それを、生鮮食材として安全に保存する必要性が、住民にはあったのだろう。
乳酸発酵によって魚を保存する方法を、長江河口域の人々は早く(一万年近く前)から知っていたと想像される。稲作の伝播に伴って、鮒ずしが近江の食に定着したとしたら、この発酵食品は一地方の郷土料理でなく、貴重な歴史文化遺産に該当する。
弥生時代近江の「戈」と「環濠」、想像力を励起させるふたつのモノとの出逢いは、好奇心の塊の私にとっては僥倖だった。
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