「私は若い時から働きづめに働き、今も現役で働いている」と誇らしげに語るご老人は多い。
働くことは良いこと、労働は神聖と捉える価値観で成功体験を積み重ねて来た自信が、言葉の裏に溢れている。それを聴く方は概ね歓迎し祝福の意を表明する。誰も異存などあろうはずもない。健康でなければ働けないから、大いに結構なことである。
仕事の内容が、属人的要素で成り立っている専門家や芸術家、自由業・飲食業・芸能人・理美容業などでは、生涯現役はあり得る。しかし、機能組織である企業・団体においては、〈能力限界〉を超えた就労者の更新(定年)は、避けられない課題である。社長といえども、〈能力限界〉を超えたら、後継者にその座を譲るのが当然であろう。政治も組織で動くものだから、政治家の〈能力限界〉を下方修正して、還暦年齢の60歳を定年にすべきである。ローマの兵士は50歳、自衛隊もかつては55歳定年だった。
仕事の内容と規律が厳しい職務ほど、定年年齢が低くなるのは当然である。甘い仕事は不適格になっても長く続けられるだろう。現実の社会を見れば明らかである。
私は労働を盲目的に神聖とする考え方には与して来なかった。日本社会の、稲作農耕社会と封建社会に通底する統治圧力を感じるからである。同時に社会主義国での労働賛美にも疑念を覚えることが多い。かと言って、労働を生産要素と見る単純な見方も受け容れ難い。
労働は個人にとって生活の基盤であり生きるために諸々の必要を満たす為のものである。動物が生存のために草を食み、獲物を狩るのと変わらない。人間の生存の為の仕業のみを神聖と考えるのは、傲慢で不合理である。労働を尊いとか神聖などと考えるのは、労働の本質への考察と理解が不十分であろう。
過去に奴隷労働や強制労働、搾取労働が存在した経緯を見れば、労働神聖説はあまりに皮相な見方かと思う。
近代になるまで、盆暮れにしか休日のなかった働き教信仰の日本社会よりも、週に一度の安息日(労働の禁止日)を2000年以上も前に神が人に命じたユダヤ教(キリスト教のベースになっている)の考え方の方が、明らかに合理的である。西欧で習慣化した毎週の休養日を、彼らに倣って社会に取り入れる機会がなかったら、私たちには永遠に自発的な週一度の休日は訪れなかったかも知れない。
人生の晩期になって、立派な後継者が在りながら交替せず、なお現役で仕事に携わっていることは、自己満足と自己存在証明欲でしかない。
老人は今日元気でも、明日は目を閉じるかもしれない。想像力と判断力が衰えていない老人なら、自らの〈能力限界〉を察知すべきである。トップの現役君臨は、事業の危機管理からは望ましいことでは無いと思う。君臨する期間が長いほど、企業の弱点は拡大する。
〈能力限界〉に達していないとしても、その人の事務を交替できる人材は必ず居るもので、罷めても社業が傾くとは限らない。自分でなければできないという自負心は、企業経営にとっては有害無益なものだろう。
人間には、仕事を離れた後、人生や社会・歴史をより深く考察することに充てる為の時間が必要である。世過ぎ身過ぎに追われて一生を終えるのは、その人にとって、幸福なことではない。
自分自身で自分を総括する時間は、皆等しく与えられている。それを活かすか否かは、本人が決めることだろう。
老いても生涯現役で働くことを願う気持ちはよくわかるが、人は死ぬ前に自ら進んで働くことを罷め、事務から解放されて、自然と社会と自分とを考察する時間が必要であるように思う。