道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

solitude

2014年02月12日 | 随想

知人がロンドンの不動産会社の店頭広告を見て、面白く感じたことを語ってくれた。

ヨークシャー州にある中古住宅売却のキャッチ・ワードに、

solitude・peace・tranquillityの三つの言葉が表示されていたと云う。後のふたつのpeace (平穏)・tranquillity( 閑静)は日本の不動産広告でもよく見かけるが、最初のsolitudeをそのまま(孤独)と訳したら、たいていの日本人は買わないだろうと、その人は笑いながら語った。

英国人にはglory of being aloneという「プラスイメージの孤独」がある。神を身近に意識するキリスト教徒ならではの孤独だ。私たちの「日本語の孤独」はlonelinessにあたる。

集団主義、他人指向の日本人の孤独も、イギリス人のlonelinessも、共にマイナスのイメージだが、個人の自律・自立をより尊重する欧米人(キリスト教徒)一般にとってのsolitudeは、プラスのイメージなのだろう。だから、不動産広告の有効なキャッチ・ワードになり得る。

彼らは、他者に煩わされることなく神と共に在り、読書に耽り、思索をめぐらせ、芸術を愛で、スポーツを楽しみ、自然と対話できる境地こそ、人が暮らすに相応しい環境と考える。人間らしい生活を営むには、そのような環境が必須と考えているようだ。

以上、英語にはふたとおりの孤独があることを教えられた。

ひとつがlonelinessで、日本語の孤独に該る。もうひとつはsolitude、自分の意思一つで神と相対して居ることを慶ぶ概念だ。日本語にはこの概念はなく、したがって該当する語もない。理解を助けるために、それぞれを「消極的孤独」と「積極的孤独」の言葉で説明する日本人もいるが、パウル・ティリッヒという神学者の説明が分かり易い。

Loneliness express the pain of being alone and solitude express the glory of being alone.

solitudeは、人でなく神と共に在る意識・感覚があってこその孤独である。

私たちにはlonelinessのみがあって、これを虞ること並大抵でない。八百万の神は相対できないから、神祇信仰の実質は無神に等しく、心の平穏の支えにならない。皆がなんらかの集団に属し、互いにそれを認知し合うことで安心を求め、時には付和雷同も厭わない。

歴史はsolitudeを体現していた少数の日本人を記録にとどめているが、民族としてそのライフ・スタイルを皆が共有するには至らず、したがってそれを示す日本語も生まれなかった。

以前のエントリーで、森鷗外の「ある国民にない言葉は、その国民にその感情がないからだ」という言説を引用したが、solitudeもそのひとつに当たるだろう。

「積極的孤独」などという妙な合成語を作って理解させようとしても、その感情が我々には元からないのだから、わかったようでわからないということになる。solitudeは、唯一絶対の神を信じる民族の、神と人とが常に対峙している意識・感覚があってはじめて感応できる感情なのだろう。


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