道々の枝折

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続流鏑馬の謎

2024年11月08日 | 人文考察

こんなに違う!日本とモンゴルの流鏑馬 両国の競演は「最初で最後でしょう」 福岡市の神社で披露 (ニュース | RKBオンライン)

こんなに違う!日本とモンゴルの流鏑馬 両国の競演は「最初で最後でしょう」 福岡市の神社で披露 (ニュース | RKBオンライン)

今年は、鎌倉時代の元寇、文永の役から750年です。【写真で見る】日本とモンゴルの流鏑馬4日、福岡市の飯盛神社でモンゴル流の流鏑馬が披露されました。馬を乗りこなすの...

 
福岡市の飯盛神社で、神社恒例の「流鏑馬」に、モンゴルの騎士4騎が参加し、最初で最後の、日・蒙騎射競技が行われた。(RKB毎日)

日本の流鏑馬は通説の平安時代起源でなく、鎌倉時代の「元寇」に起源があると私は考えている。それは当ブログの記事「流鏑馬の謎」https://blog.goo.ne.jp/tekedon638/e/2bd0aac3b6a9a5a2a747340903f7231cでで詳述させていただいた。

彼我の騎乗弓射の技量の違いを、映像で対比して見ることができたのは大変有難かった。モンゴル側の騎士が、元寇当時の革製鎧を身につけていてくれたのも、文永の役での軽装騎兵の跳梁を彷彿とさせるものがあって、大いに参考になった

元寇の文永の役で上陸した元軍の主力は、高麗と江南(宋)の歩兵部隊で、騎馬のモンゴル兵の数は比較的小数だったと推測されるが、彼らの疾走騎射戦術に初めて遭遇した鎌倉武士は、想像を絶する苦戦を強いられた。
源平のいくさ以来、静止騎射しか知らない日本の騎馬武者は、モンゴル騎士・騎兵の疾走弓射戦術に甚大な損害を被ったことだろう。鎌倉幕府及び当の九州御家人軍団は、疾走弓射に瞠目したはずである。
モンゴルでは、元寇いやチンギスカンの大遠征以前から、狩猟の訓練として騎射のトーナメント大会が、各地各部族で催されていた。

今回の特別行事で、観客たちは、騎乗の安定性と速度、合成弓の貫徹力と馬上での遣い易さ、射手の身のこなしと射撃の正確性など、彼我の疾走騎射の技能的差異を目のあたりにした。

両国の騎士の疾走騎射の技量を比較すると、彼が師なら我は弟子にしか見えない。彼は往事日常の狩猟活動の延長にあった武技である。我は彼から元寇戦の後に学んだのち、元が滅亡し、鍛錬の必要が無くなり実用性が薄れ、神事として今に遺った演武ではないか?

流鏑馬の起源を、元寇においてモンゴル騎兵との戦闘で大きな犠牲を払った鎌倉武士団の疾走騎射術の習得に求める考えは、荒唐無稽ではないと思う。
この驚異の戦技に初めて触れた鎌倉幕府は、元寇の戦いの後、モンゴル人騎士の捕虜を師範に、武士たちに疾走騎射を学ばせたに違いない。
広い境内をもつ各地の神社が、その操練の場を提供したことだろう。元の3度目の来襲に備える幕府の、喫緊の課題は、疾走騎射術の習得だった。

クビライが死に、蒙古の襲来の虞が無くなると、武士たちの戦技としての疾走騎射は廃れた。日本の鞍・鐙・弓が疾走騎射に適していないことを知った武士たちは、演習に励まなくなったに違いない。ビデオでも明らかだが、和式の鞍と鐙は騎士の身体を安定させるに適さない。

本邦において疾走騎射が、平安時代に自然発生したという通説は、全く信用できない。
そもそも馬がこの国に来たのは、古墳時代ではなかったか?日本では馬は新来の乗りものだった。大陸の草原では騎乗は先史時代に遡り、人の移動は騎乗が普通だった。

山地と湿地の多い我が国の戦では、殆ど効果を発揮できないこの戦技は廃れ、「怨敵退散」の祈願を籠めた神事として各地神社に奉納され、今日に至ったと推測する。

流鏑馬を、鎌倉幕府に推奨され積極的に鎌倉武士たちが学んだ戦技の名残りと見る見方はあって好いと思う。
神社の側では、史実的に確証の無い流鏑馬平安時代起源説を信用しているから、この記念行事が企画できたのだと思う。モンゴルの神がどういう存在か知らないが、モンゴルでの騎射は、あまりに普辺的スポーツで、神事になるとは思われない。毎年、騎射トーナメントの大会あるらしいのは仄聞している・・・







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