禁止という言葉は、拘束感や強制感を伴うせいか、どうにも字面に好感が持てない。
人は禁じられると却って禁を破りたくなるものだ。何事も、自主的に罷めるのが望ましい。
したがって私は、禁酒や断酒など、しようともしなかったし、人に奨めたこともなかった。世の中のことは功罪相半ばするものが多く、お酒にも効用と弊害とがある。
ところが、2020年、自発的禁酒のライススタイルや考え方、Sober Curious ソバキュリアスなる英語を知った。過去に類例のない発想である。
珍奇なものに弱いやつがれ、たちまち好奇に駆られ実践してみた。
そのsober生活が、3ヶ月目を迎えようとしてる。
ソバキュリアスとは、自分の好奇心で酒を飲まないという、ポジティブな選択である。
これだけの長期間、酒を口にしなかったのは、人生で初めての体験だった。体組織によって長短に違いがあるだろうが、細胞は一般的に3ヶ月で更新を繰り返すといわれている。アルコールに順応し切った体内の組織にも、微妙な影響が及んでいるだろう。
周りは心配していたが、意外なことに、アルコールを欠いても食味は劣ることなく、食欲は一段と増進気味になった。社交は会話が全てだから、ノンアルコールビールでいっこうに差し支えない。
誇張でも虚勢でもなく、お酒と訣れて、失うものは何ひとつ無かった。失うものが多大と思わせるのは、酒税収入をあてにする国家の策謀であるかもしれない。
お酒を飲むことで起こる弊害に比べると、飲まないことに纏わる弊害は、予想に反して全く無いに等しい。QOLが落ちることは全く無い。
だからといって、それを人に奨めたいとは思わない。お酒を呑んで快適な生活を満喫している人々は、罷める必要も意味も更々ないだろう。
たまたま西洋かぶれで新しがり屋の、好奇心旺盛な老人の気まぐれが、当人に奏功しただけのことである。
呑兵衛がお酒なしで済む筈はないという思い込みは、被暗示か迷信だったフシがある。この思い込みは、質の悪いカルト集団の洗脳にも似て、人の自立を妨げる妄念である。
お酒がなくても愉しみはいくらでもある。罷めなければ、それらの愉しみに気づかなかっただけのことである。
罷めてはっきり分かったことは、「生活の生産性」が目に見えて上がったことである。生活時間の中の、酔って陶然となっている時間が消滅するのだから当然である。
物事の停滞や処理案件の滞留は自然に解消に向かう。酔に紛れて先送りする弊習とは縁が切れた。
もうひとつ、酔っ払う可能性が取り除かれた清々しさと安心感の説明には、多言を要しない。「しらふ」でいる時の方が、酔っている時より身心が快適なのは、誰にでも想像できるだろう。その効果だけでも、アルコールと訣別した最大の意義があったと思う。
人は快楽を求めると同時に快適も求めるものである。快楽と快適のどちらかひとつだけを選択しろと云われたら、快適を求めるのは至当である。快適を求めるソバキュリアスは、自然の理に逆らってはいないと思う。
人生の晩年に、斯様な清々しい時期が残っていたことを発見した意味は大きい。
害多くして益の少ない飲酒を60年も継続した要因は、アルコールの薬理作用と人体との親和性に尽きると思う。
アルコールは自然状態で生成される天然の物質だから、神は人を創った時に他の飲食物同様、人にそれを摂取する自由を与えた。神はその効用を知悉していたに違いない。アルコール飲料が無かったら、人類は絶滅していたかもしれない。
つまり、人類にとっては、酒を飲むリスクより飲まないリスクの方が大きい時代が、つい最近まで続いていたのではないか?
現代社会は、漸く飲まないリスクを軽減する方向に進み始めたのかも知れない。「Sober Curious」はそれをいち早く感じ取ったのだろうか?
私個人としては、斯くも長い期間飲酒を続けて来られた僥倖に、感謝の念を捧げなければならない。
人の人生の晩期は、平均寿命の上では、始期と同じぐらいの期間が用意されているように思う。もしそうなら、始期が酔いと無縁だったのだから、晩期も始期と同じ過ごし方があってもよいのではないかと考え始めている・・・
我が亭主殿にも読んで聞かせたいものですが、なんせ聞く耳もたぬ
人ですから、あきらめています。
酒肴に煩わされなくなったことを、何よりも評価してくれています。
入院で3ヶ月飲まなかった時もあります。
コロナで宴会から遠ざかりました。
ただ、呑兵衛の名前を捨てたくない気持も残っています。
それが自然です。
ソバキュリアンと呑兵衛では、前者は今後も異端の部類でしょう。