毎年師走になると、夜の街はイルミネーションで彩られる。樹齢数十年を超える大木の並木の、幹から梢まで鏤められた光の粒。それは華やかで心躍る光景、まさに光のページェントである。
だがちょっと待ってもらいたい。オフィスビルやマンションの壁など、無機物に電飾照明を施すのと、生物である樹木を光で飾るのとは、行為の質において根本的に違うものがある。
植物は光合成によって生命が成り立つ生命体で、殊の外動物よりも光に鋭敏である。植物の生理機構は、光の変化に大きく依存している。生木にイルミネーションを施す人たちには、そのことは一顧だにされていないようだ。
植物の細胞は光に直接反応し、葉が落ちても、幹や枝の表皮の細胞は光に感応している。光の変化により、季節を覚り、葉芽や花芽をつける。コスモスやキクなど背日性の植物に夜間光を当て続けると、花芽ができず開花しない。暗闇の短さが、植物の生理を狂わせるのだ。この特性を利用して電照菊の栽培は成り立つ。
植栽樹木にLED球コードを絡ませ一晩中照明すれば、休眠期間中であってもその細胞は光の影響を受け、生理機構が狂う可能性は否定できない。
マスコミが取り上げないせいで、このことに気づかない人々が、LED燈照明の煌めく街路に感嘆し光の林にうっとり目を奪われるのを難じるつもりは全く無い。問題は照明を施工する側の認識である。
枯れ木ならいざ知らず、生木を利用するのは無頓着である。花咲か爺は、枯れ木に花を咲かせたから、殿様に褒賞されたのである。
樹木を街路に植栽して景観を飾ることは、万人に備わる自然愛の表れだろうが、その樹木の幹や梢にLED球コードを巻きつけ照明する不自然さは看過できない。樹木はそれを望んだり歓んではいないだろう。生木のLED燈照明は、想像力の欠如と植物の生理への無理解とが招いたものである。
そもそも街路樹をイルミネーションで飾ることに先鞭をつけたのは欧米である。クリスマスツリーの電飾から発展したものだろう。その季節に、鉢植えの生木に電飾を施す各家庭の習慣が、公共の街路樹の電飾に発展するのは当然の成り行きだ。パリの凱旋門の大通りの並木の照明は世界的に有名だが、欧米でそれをしているからと言って、自然、別けても植物と共生する日本人が模倣するには及ばない。彼らの文化の底に潜む、野蛮性を忘れてはいけない。
植物の生育期間は、人間の寿命の10倍ほどもある。我々には、毎年冬のある期間、強烈な照明を夜間に受け続けた植物の生理的変調を知ることが出来ない。実験の結果が出るのに数百年を要する。科学的な影響を調べるのは容易でない。
樹木にも人の老年と同じく晩期があり、その頃になって、電飾照明を受け続けた樹木の生理的変調の結果が顕かになるかもしれない。おそらく木が枯れたとしても、照明との因果関係は問われず、寿命か温暖化で済まされることになるだろう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます