日本人いや東北アジア人は、どうも大きな声に弱いようだ。会議などでも大きな声の持ち主に威圧されるケースが多い。
選挙カーなども、音の大きさで他を圧倒する目的から始まったに違いない。東北アジアの民族は、大きな声に威圧されやすい傾向が共通してあるように思う。これは農耕民族の特性であるのかも知れない。
遊牧・牧畜民族は、家畜群を追う時に大声を張り上げる。家畜を叱咤することも日常的、誰もが幼いときから大声に慣れている。
それに対して農耕民族は、普段の生活であまり大声を出さない。植物相手の農作業は大声を出す必要がないし、耳の無い植物に叱咤をする必要もない。
それで、たまに大声を聞くと、怯えが先立ってしまうのだろう。それが遺伝的に定着したと思われる。
怯えに打ち克たなくてはならない状況では、相手を凌駕するほどの大きな声を張り上げなければならなくなったと考えられる。
少年野球や高校野球を見ていればわかる。大きな声を出さないと、コーチや監督に叱られる。声で自分や仲間を励まし、対手に威圧を与え打ち克たねばならない。声の大きさで負けてはいけないのだ。「声を出せー!」「ボール呼べー!」
声出しの狙いは、
①自身の集中力維持
②自分や仲間への激励
③相手への威圧
の目的がある。
集中を維持する必要からであろう。そして、指導者や応援席からの声掛けも、激励が主目的である。
大きな声をあげることは、運動生理学の上からも、自分を奮起させると共に緊張をほぐし、対戦相手への威圧の効果があると考えられているようだ。
アメリカと日本の日米高校親善野球での両国選手たちの顕著な違いは、プレーよりも野手の発声にある。
声を張り上げ互いにチームメイトを鼓舞するのが日本流、無言がアメリカ流。相手は勝敗の帰趨に声が関係するとは考えていない。空元気と見ているかもしれない。大声は彼らには通用しない。
古来、剣道をはじめ多くの日本の武道は大声を張り上げた。弓道は沈黙の武道かと思っていたが、甲冑を着けた演武では、大声を張りあげ矢を放つ。
戦いの場で大声をあげ突撃するのは、どうも中国が本家本元らしい。「吶喊(とっかん)」という漢語が厳然として存在する。
今では読める人は多くない。同じ音に「突貫」があるが、この単語の文字に声をあげる意味はない。
辞書に拠ると「吶喊」は「大声で叫ぶこと」だという。士気を鼓舞し、猛烈な気勢を示して敵を圧倒するために、兵士たちが突撃に際して指揮官の合図で大きく声を張り上げることだという。大声は自らを鼓舞し、相手に気勢を示すことが目的であった。
古来大陸では、温厚な農耕民族(漢民族)の兵は惰弱、好戦的で剽悍な遊牧民族(蒙古や西域の異民族)の兵は強剛と相場が決まっていた。
惰弱な農耕民兵士と、日常的に騎乗して狩猟や牧畜を行う遊牧民兵士とでは戦闘力の差が大きい。
異民族との戦闘になると、恐怖心に駆られ感極まった農民兵は、爆発的に大声をあげ吶喊をする。声をあげると怯えが消えるのは、古くから知られていた。
映画のおかげで、中国の武道や拳法が、高く鋭い奇声を発することを、世界中の人々が知った。中国では古代から連綿と続いている習性だろう。
昔見た朝鮮戦争の映画で、雪の丘稜に機関銃座を構える米軍歩兵の小隊が、雪原の中から次々と湧き上がるように現れる中共兵と銃火を交えるシーンがあった。月明かりの下、撃たれても撃たれても、新手の兵が味方の屍を乗り越え大声をあげて突撃してくる光景は凄惨で迫力があった。
実際に、中共軍の吶喊攻撃は、米軍・国連軍の心胆を寒からしめたことだろう。そのわずか数年前には、米軍は南方の島で、日本軍のバンザイ突撃の洗礼を受けている。
吶喊攻撃は、中国人がその源流と見て間違いないだろう。昨日までの鋤鍬を今日は武器に持ち替えて闘う農民兵士たちは、恐怖に打ち克つために、吶喊せざるを得なかったに違いない。
日本の武道も、古い時代に中国の影響を受けている。声をあげるのと流派が分かれるのは、明らかに中国伝来のものだろう。
テレビ・ラジオのスポーツ中継でも、日本人アナウンサーの絶叫ぶりは、他国のアナウンサーたちから突出して目立つ。
白人には、武闘で意味のない空声を張り上げる習慣が無い。直接対手を罵るか黙して闘う。大の男が絶叫するのは聞き苦しいとする文化または、単に声をあげるのは弱さの証と見られる文化があるのだろうか?それとも体質的に彼らは生まれながらの戦士で、声を出さないで闘うのかもしれない。声は勝負の帰趨に寄与しないと身体で知っているのではないかとも思う。
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