テレビは標準語の普及に多大な貢献をした。その反面、この国から方言を失わせることにも寄与した。方言というものは風土と一体のもので、今日遠方に旅してお国言葉を聞くことが少ないのは、寂しいことである。
藤沢周平原作、山田洋次監督の時代劇三部作のひとつ「鬼の爪」を観たとき、永瀬正敏扮する主人公に仕える召使い役(恋人)の松たか子の口から「〇〇でがんす」という俚語が発せられたときは、頭が「がーん」と衝撃を受けた。可憐だった松たか子の口から発せられた「がんす」の響きにたじろいたのである。彼女のイメージに相応しくないと思ったに違いない。それは他所者の偏見で、土地の人にとっては、若い娘だろうが老婆だろうが、その語に何の違和感もないはずである。その地から遠い、遠州の田舎者が初めて耳にした言葉だから、大いに驚いたのである。
架空の海坂藩は今の山形県庄内地方にあった(とされる)。「がんす」は庄内で「である」というごく普通の助動詞である。美しい娘の「がんす」を聴いてたじろぐのは他国者。「ごんす」や「ごわす」よりは幾分柔らかい。
当地静岡県には「だに」「ずら」という俚語があって、広く県東部から県西部にかけて使われていた。私も高校生まで「だに」を使っていた。他国の人にはひどく耳ざわりの悪い響きだったらしい。それぞれ「〇〇だよ」「〇〇だろう」の意で、甲信から伝わって来たものではないかと見られている。かつて県東出身の女優冨士真奈美が、TVドラマで多用したことがあり、ファンをたじろがせた。老舗旅館の底意地悪いパワハラ女中頭を印象づけるにもってこいの俚語活用だった。
その点、京都弁の「どすえ」などは、嫋やかな趣があり、関東や九州の男たちは、一も二もなくその語感の虜になってしまうことだろう。まことに語感というものは、大きな影響力をもっている。言葉の耳ざわりの良し悪しは大切で、有り難いことに日本語(標準語)の響きの美しさは海外で定評がある。若い人には、外国語を学ぶ熱心さで、大いに日本語の語感の佳さを広めてもらいたい。
方言もその地の経済力や文化度が高ければメジャーになり、余所者が好んでその地の言葉を使うようになる。取引で必要に迫られるからである。大阪弁はその典型で、かつては商取引に於いて優越性を発揮していた。取引が言葉で円滑に進む利点は大きい。大阪が経済の中心地として力を保っていた時代までは、大阪弁は標準語に圧倒されなかった。今日では大阪弁に昔日の勢いがない。使う側の意識が微妙に反映するのだろう。
もはや日本の方言は復元できないところまで来てしまった。これも東京一極集中の弊害のひとつであろうか?
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます