これでも若い頃は、ご多分に漏れず情熱の炎が熾んで、思い焦がれたり、懊悩に夜も眠れず、食も細ることがあったような記憶が朧げながらある。
シャイな癖にアグレッシブというのは誤解を招きがち。愧じ多き時代のことは、懐かしくもあり、忘れたくもある。
熱の発生が著しく減った現在では、その頃いったいどのような情動に衝き動かされていたのか、漠然としか思い出せない。どうしてもその時の実感が甦らない。人間は熱がなくなると、感情や感覚も甦らなくなるものらしい。感性が乾涸びることを極度に惧れて来たが、情熱の減衰を止める術は無かった。
「惚れて仕舞えば痘痕も笑窪」相手が他の誰にも増して好ましく見えてしまう。スタンダールが「結晶作用」と呼んだ恋愛における対象の美化である。もうそうなると、親兄弟の警告も、親戚衆の意見も耳に入らない。終いには「親も要らなきゃ兄弟も要らぬ」と、恋に狂ったりする。醒めるまで待つしかない。
人間は誰しも心の中に、好もしい異性を少なくとも一人は宿しているというが、大抵はその異性が自分を好いてくれていない。
相手が好いていてくれたら、心の中に密かに仕舞って置く必要はない。好いてもらえない人のことほど、好きになったりするから困る。思い焦がれたところで、自分同様の反応は期待できないのが普通、と悟るまでに時間がかかる。相惚れというのは、なかなか、現実には少ないようだ。男女の情熱の発火と方向に同時性はない。そのように見えるだけだ。
片想いが生じている時、惚れられた方の反応が芳しくないのを、嫌っていると見るのは早合点というものである。動物界を観察すれば分かるように、女性は本能的に恋に対してスロースターターである(昨今は自分から仕掛ける女性も多いらしいが・・・)
受身の彼女にとって、彼はワンノブゼムであり、本命に出逢うまでのリザーブであることが多い。本命とは現実の人物ではなく、彼女の頭の中に夢想されている青年であるから、生身の男性には始末が悪く、太刀打ちできない。「三高」というのも夢想の人物像の部類に入る。万事受身が美徳とされた時代の日本の女性は、リザーブの中から背の君を選抜するのが賢いと教えられていた。
思春期の男女の出会いの態様は、その後の当事者それぞれの恋愛観に多大な影響を与える。それが楽観的恋愛観と悲観的恋愛観との分岐点となる。前者は恋愛に積極的になり、恋多き人生を送る。後者は消極的になり、万事に浮かれなくなる。浮かれない方が幸せを掴むのは正しい認識だ。
厳密な意味で、相惚れというものはこの世に存在しない。
一般的に恋愛は男女のどちらか一方(男性が多い)の、アグレッシブ な方が先に相手を好きになり、パッシブな方がそれに応えるという形をとる。
後手にまわった方は、自分の存在を認めてくれたことへの感謝と自尊心の満足感が、相手への好感度を増幅させ、恋情が喚起される。
特に女性は慎重で、自分に惚れてくれた人を好きになる傾向が強い。男性の押しの一手が存外成果を上げるのは、女性のこのような特性に叶っているからだろう。女性特有の安全志向とプライドが関係しているように思える。
世の中のカップルは、全て惚れた方と惚れられた方との、タイムラグのある恋情で成り立っていると見て差し支えなさそうだ。
「いいえ!宅(うち)はよそ様とは違います!出逢ったときに双方がピピッときた正真正銘の両想いです!」と、固く信じている気持ちに水を差すつもりは無いが、相惚れでも、恋情の高まりに時間差があったことは、認めざるを得ないと思う・・・
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