ある日、市内の某高校に接する道を車で走っていたとき、その学校の黒の詰襟服を着た大柄で金髪の、ひと目で白人と判る生徒が歩道を歩いているのを見た。交換学生であろうか、きっちりと正しく着用した制服が甚だ奇異に見えた。彼の前後を歩く日本人の高校生の多くが、そろいも揃って詰襟のカラーをつけず、フックとその下のいくつかのボタンを外してだらしなく着ている中にあって、彼の制服姿は際立っていた。
多様な衣服が巷に溢れ、若者が放恣とも見えかねない自由な服装で跋扈している現在の日本で、未だに詰襟金ボタンの黒学生服が存在する理由は何だろう?オリンピックを開催する中国でさえ、都市部で人民服を見ることは無いのではないだろうか?人民服と学生服は違うと言う意見もあろうが、西欧的な服飾に馴染んだ感覚からすれば、どちらも見映えのしないこと同等同質である。生徒達に着たがらない気持ちがあるのは当然であろう。
着るモノ、住むイエ、食べるモノ、全てにわたって飽くことなく西欧化を追い求める我が邦で、牢固として殆どの公立学校が軍服紛いの学生服を墨守している根拠が分からない。 服装は人格を表すと言う言葉がある。気に入らない色と形の制服を着ていれば、将来ある高校生達の服飾センスを歪める惧れもある。 全国ほとんどの公立高校で採用されている黒の詰襟服は、もう止めにしてはどうだろうか。
それを必要とする警官や自衛官の制服のデザインは、随分と洗練されてきている。しかるに公立高校生の制服だけが、未だに異様な黒詰襟では国の文化の質が問われるのではないだろうか。現下の教育の場で制服を強要するのは、アナクロニズムといえるかもしれない。
制服を必要とする職業は別として、好みの服装の自由を個人に認めない精神は、柔軟性が欠けているように思う。私自身が制服を着て通学していた当時、日本の教育界が範を仰いでいた米国の公立の中高校では、制服など存在していなかった。
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