道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

雑多な草木

2008年10月16日 | 飼育・栽培
現住地に居を定めて35年、狭い庭に生える植物は年ごとに増え、山野草などは植えた当人にも、何処に何があるのかすぐには分からない。意図して苗を植え種を蒔いたものもあれば、人から株を提供されたもの、風や鳥が運ぶ種子から芽生えたものなどが混在し、とても庭と呼べたシロモノではない。調べてみたら、以下の植物があった。

[木本]イチョウ、クリ、カキ、ブドウ、ヤマブドウ、サクラ、サツキ、キンモクセイ、サザンカ、 ドウダンツツジ、ヤマボウシ、バラ、センリョウ、マンリョウ、アジサイ、ローレル、アケビ、ラべンダー、ローズマリー、サンショウ、イヌビワ、ヤマモモ、ブラックベリー

[草本]ホトトギス、ホウチャクソウ、ナルコユリ、シュンラン、イソギク、キバナレンゲショウマ、ハラン、ツワブキ、アシタバ、ミツバ、ウイキョウ(フェンネル)、スペアミント、ベパーミント、オレガノ、レモングラス、コリアンダー、グラジオラス、ヤマオダマキ、アカネ、ヤマイモ、アヤメ、ニリンソウ、シュウメイギク、ヤマユリ、コオニユリ、エビネ、フキ、ゲンノショウコ

[竹笹類]ヤダケ

ヤマイモは芋を掘るためにあるのでなく、ネットフェンスに絡ませて、長ハート形の鮮やかな黄葉を観るためにムカゴを播いたもの。今では毎年ムカゴが成る。

紅葉の観賞を目的にして植えた樹木の中で、栽培に苦労しているのはヤマブドウだ。寒冷地に育つこの木を暖地で育てるのは本来無理なのだが、なんとか栽培は続いている。山歩きのとき、子供の顔ほどもある大きなヤマブドウの葉が、光を透かして鮮紅色に輝いているのを見つけると、何故か心が躍る。遠い採集時代の先祖の感覚が甦るのだろうか?山であれ自宅であれ、秋にこの紅葉を観賞することは欠かせない。

あるとき、挿し木で仕立てて5年目のヤマブドウを、友人の殺風景なオフィスに持ち込んだ。植物好きでもない彼のことだから、すぐ枯らしても仕方ないと思っていた。ところが、その事務所のパートの事務員さんの管理が適切だったとみえ、翌年にはオフィスのヴェランダで沢山の実を着けた。私のところの親木ですら、結実を見ることがないまま空しく年月を重ねていたというのに・・・

「何か特別なことをしましたか?」とその女性に訊ねたら、「ただ朝夕水を遣っていただけです」と、極めて明快な答えが返ってきた。私は感服した。その水の遣り方が一番難しい。盆栽の世界では、水遣り何年とか・・・

好い事務員さんに恵まれたものと、彼を羨ましく思った。実際彼女は仕事もよく出来たのだろう。それは友人の活躍ぶりから推し測ることができた。その後幾年か経って彼女が辞めたら、やはりヤマブドウは数年と保たずに枯れた。自然状態にない生き物は、愛情を注いでくれる人が居ないと、命を永らえることはできない。それにしても、実を着けることができたヤマブドウは幸せだった。

大木に成るイチョウが5本もあるのは、これも秋の黄葉を身近で観賞したいがため。落ち葉が地上に落ちた後も、長く美しい黄色を保ち続けるのが他の樹種の落ち葉とは違う。最近は街路のイチョウの落ち葉をゴミとしてすぐ掃き清めてしまうが、秋の舗道に情趣を添えるせっかくの彩りを楽しまないのはまことに惜しい。

この木の魅力は葉の形と黄葉にあって、「金色の 小さき鳥のかたちして 銀杏散るなり 夕陽の岡に」-与謝野晶子-の歌は、イチョウの魅力を言い尽くしていると思う。

すっくと幹が立つ樹が好もしいのは誰しも同じだろうが、他の樹木に蔓を絡めて成長する植物にも面白味がある。アケビとブドウの蔓をバーゴラに這わせたら、互いに日照を争って一方が伸展すれば他方は縮小し、両方バランスよく結実させるのは難しい。しかもアケビは他家受粉性だから、雌花が咲いたときに別の株の雄花を人口授粉しないと着果が悪くなる。時機を失することが多く、野趣ある実を見ない年もある。

この列島には竹笹類が多く、樹木にない独特の雅味を愛する人は多い。ヤダケは古くから筆軸や矢柄に用いられてきた。竹と名がついているが、実は笹の仲間だそうだ。シノダケやスズタケ・アズマネザサなど野山で繁茂しているササとは異なり、ヤダケの自生というものはついぞ見たことがない。植えてみて知ったのだが、竹笹類には珍しく、繁殖力が弱いようだ。古い時代に、矢柄を作るために、節間が長く節も隆起しない変異種を人間が選択淘汰により作出したものかもしれない。野生品種でないから、繁殖力が他の竹笹類より弱いのだろうか?

イングリッシュガーデン・ブームもあって、自ら庭に様々な植物を植え、手入れをして楽しむ人は多くなった。それでもガーデニング人口はこの国ではまだ少ない方だろう。特に本家本元のイギリスとの顕著な違いは、日本の男性がこの趣味をリードしていないことにある。夫人の趣味というケースが多い。おそらくこれは、日本人男性に余暇が少ないわけでなく、日本の家の主と庭との関わり方の習慣に原因があると思う。

私たちの国では、ごく普通の庭であっても、庭師という専門家に手入れを依頼するのが普通だった。稀少な山野草を植えておいたら、庭屋さんに雑草と共に抜かれてしまったという話をよく聞くが、伝統的な日本庭園は、定められたもの以外の草を嫌う。

日本庭園は、作庭家が自然の景色を抽象して造形し、それを主人が朝な夕な眺め愛し、来客に観賞して和んでもらうためのもの。メンテナンスを要する工芸品だ。ホスピタリティを目的にしている。手入れを、技法に熟達した職人に任せるのでなければ、観賞に堪える庭は保てない。したがって、庭の主はいっさい栽植物に手を触れない。また触れてはならないものだった。壊れものである。

ガーデニングの本場をはじめ世界の何処でも、見るため見せるための庭園というものは、専門の職能者のものだろう。

一方、一般的なガーデニングの対象となる庭は、素人が自分のために植え育て観賞するもの。見せるのでなく、植物と親しみ植物を知り、植物と対話する庭とでもいうことになろうか。

自ら好みの植物を選んで植え付け、手入れを楽しみ、開花や結実を悦ぶ。ガーデニングという概念は、もともと日本人の植物との関わり方には無かったものだから、適切な訳語がなく、また適切な造語も造れない。

大航海時代の覇者英国に高まった博物への飽くなき興味、関心は、当然ながら植物にも向かい、プランツハンターを輩出させた。世界中の植物が集まり、品種の改良が進み、彼の国の一般の人々にあのような庭づくりの趣味をもたらした。

私たちには、同様の歴史的背景もなければ、そこまでの植物への強い渇望もなかった。北の冷帯(亜寒帯)から南の亜熱帯までの気候帯に属し、海に囲まれ降水量が多く、山地が国土の7割を占める日本列島は、多様な植物を育む素地に恵まれている。

日本のガーデニングは、これまでの欧米式ライフスタイル導入の手続きを踏襲し、その形と内容をそっくりそのまま模倣することから始まり、未だその域を出る段階には至っていないように思う。

幕末に日本を訪れた欧米人が瞠目したという日本列島の植生の豊かさと多様さ。そのことを私たち自身が今改めて認識し、かけがえのないこの国土の自然を正しく評価し保護するようになったとき、伝統でもなく模倣でもない、私たち日本人ならではの、自ら創る庭の楽しみが、生活に密着したものになるだろう。

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