道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

価値観の不一致

2025年02月15日 | 随想
かつては離婚理由に「性格の不一致」が真っ先に挙げられていたものだが、それが荒唐無稽な暴論であることが一般に理解されるようになって、その後は「価値観の不一致」という理由をよく聞く。これも老生に言わせると、前者と変わらない暴論であるように思う。
価値観も性格の影響下にあり、個性というものの本質上、一致などある訳がない。

人間というものは、自分が好きになった人と同じ価値観を共有したいもので、つい無いものねだりをしたがる。
それが押し付けになったり抑圧になって、互いの感情に好ましくないバイアス電流が生まれる。

価値観を共有したい心情は理解できるが、それを恋人とか伴侶に求めるのは瞭かに間違っている。
現在と別の価値観で、相手を選んだかもしれないのに・・・

人の価値観というものを突き詰めて考えるなら、自分の価値観と一致するはずがない。一致する方が異常である。相手が当人に迎合しているか当人を瞞着していると見るのが正しいと思う。価値観の不一致を従容と受け入れ、現実をより良い方向に向ける方に努力を傾注すべきだ。価値観の一致など、絶対に希ってはならない。
と今ではわかったようなことを言っているが、老生は若い頃から自分の価値観を人に押し付ける悪い癖があった。自己愛が、そうさせたのである。

人の価値観はその人の生活体験そして教養によって成り立っているものであり、この3要素の組み合わせは各人各様、一致することなど決してない。運命と同様抗うことはできないものである。価値観が異なっていて当然、違いを難詰するのは人間というものへの理解が欠けている証拠である。

相手のことが好きなら、その人の価値観を認め受け入れることが必要。認められないなら、一緒になってはいけない。恋は互いの価値観を尊重し合うことから始めないと好い方向に進まないだろう。尊重できないときは、恋はそこで終わりと心得て、身を引くのが潔く正しい。正しいがそれができないから、悩むのである。

恋人同士が同じ価値観を共有するなどということは、途方もない幻想だ。価値観を異にする者同士は、互いの価値観を認め合い、尊重し合うことが大切だ。違いを理解しながら共に歩むほかはない。

もし結婚したのだったら、生涯かけて自分と伴侶との価値観の違いの由来を理解する努力を続けなければならない。「違いが解る」ということは、そのことに強い関心がなければできないことである。
恋情や愛情が強い関心を呼び寄せる。相手を理解するには、自分の理解力の陶冶と時間が必要である。

価値観の対立は、人間一般に避けられない。対立をそのままにするか、対立の本質に踏み込んでそれを乗り越えるかは、その人の相手に対する情愛で決まる。

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