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梅雨明け直後の日曜日、257号線で1時間ちょっとの愛知県新城市長篠に行った。 45年も前から年に幾度も通っていた奥三河行きも、コロナが始まって以来、ブランクが拡がっていた。
奥三河はまほろば。私には、若い頃から人文考察と自然観察の絶好のフィールドだった。歴史・民俗・植物・地質など、発見と探求のホームグランドである。
目的地は愛知県新城市の〈食事処・釣り堀センター花の木公園〉。公園というが、宿の名称である。
大野川(豊川)と寒狭川の合流点にある長篠城から、寒狭川沿いの道を3キロほど遡ると、昔の発電設備の遺構、長篠堰堤が現れる。堰堤の上流を、花の木ダムと呼ぶらしい。
堰堤から落ちる滝水が、緑の中に白い布を懸け渡したように見える景観は涼しげで珍しい。
堰堤下の河川敷には岩盤が露出し、野趣あるニジマスの釣り堀になっている。道路の山側に張り付くように3階建ての建物があって、堰堤や釣り堀を眺めながら食事ができる。
川魚好きの私は、コイやアユ・アマゴ・ウナギが食べたくなると、当時は宿泊もできたこの堰堤前の宿にしばしば中食で立ち寄った。まだ浜松からの道が悪く、2時間ほどかかった頃のことである。
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寒狭川(かんさがわ)
駐車場の山側のヤマユリが、久々の訪問を歓迎してくれた。地元ではこのユリを鳳来ゆりと呼び、花が咲くと梅雨が明けると信じられているらしい。
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ヤマユリ(鳳来ゆり)
奥三河は中央構造線の内帯に当たる。火成岩が風化した土壌は水の浸透性がよく、植物の生育に適している。空気が乾いて感じられるのは、地質のせいかもしれない。
山野草の種類と数が豊富なことでは、構造線外帯の洪積層や沖積層から成る遠州とは別世界の感がある。ニリンソウ、セツブンソウ、キクザキイチゲ、カタクリ、イカリソウなどの群落に感嘆したことも数知れない。多くの淵や瀬を釣り歩き、山に登ったことが昨日のことのように思い出される。
白布をかけ渡したような人工滝を眺めながら、アユの塩焼きを肴に、隣町設楽町関谷酒造の「蓬莱泉」を飲む。光景と滝の水音そして食事、三拍子揃った奥三河の憩い処は既に3代?永く代を累ねることを願って已まない。
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長篠堰堤
ある時、幼かった息子2人にマス釣りを楽しませようと、妻・娘抜きの父子3人で訪れたことがあった。釣りが終わって食事の時、夫婦連れ・家族連れの客で賑わう中で、父子連れが寂しく子どもたちが不憫に見えたらしい。
仲居さんが子どもたちに親切にしてくれ、恐縮したことがあった。父親と子どもたちの束の間の行楽に見えたのだろう。
奥三河は、人情にも篤い土地柄であろうか?精強で聞こえた三河武士を支えたものは、人情だったかもしれない。
ところで此処の川魚料理の絶品は〈鰻の長焼き〉で、昔は言葉どおり長い皿に、頭と肝がついた鰻が1尾のっていた。今は、真ん中で半分に切って皿に盛る。まるまる一本の鰻を均等に焼くのは難しそうだが、伝来のメニューは守られている。
鰻の蒲焼は山国から発祥したものかと思う。鰻は海産だが、川を何百キロも遡り川に居付く。しかも捕獲は難しくない。
山国では、鯉と並んで鰻がご馳走で、調理法は其処で発達し磨かれたものと思われる。江戸で鰻屋が繁盛したのは、三河からの移住者が多かったからだろうか?しからば上方は?という疑問には、近江の琵琶湖と淀川の地の利を挙げる。
関西と三河は離れているが、食の上では古い文化を共有しているように思う。日本文化の境界が浜名湖であるとはよく耳にする。食文化も、此処を境に大きく異なっている。