てんちゃんのビックリ箱

~ 想いを沈め、それを掘り起こし、それを磨き、あらためて気づき驚く ブログってビックリ箱です ~ 

ウィリアムズバーグ 植民地 訪問(その2)

2020-06-08 00:55:39 | 旅行


<ウィリアムズバーグ 総督府の建物 (いい写真がなかったので、Wikiより引用)>


 緊急事態解除で、動いていなかった仕事をニューノーマルに適合させて進めることになりました。そのやり方が大混乱しているので、とんでもなく忙しくなり(その2)を投稿するのが遅くなりました。


 バージニア州ウィリアムズバーグには、ローカル空港ニューポートニューズから車で行くか、ワシントンから列車で行くことになる。列車がほとんどないので、ニューポートニューズ空港へ降りることとしたが、工程表を見て到着21時過ぎになっていたので、空港からの便はあるのかと旅行代理店に聞いた。大丈夫ということだったが一抹の不安は残った。
 
 それが的中しトランジットで1時間半遅れ、到着が23時。我々が下りて荷物を引き取ると、飛行城外に追い出された。そして中はどんどん暗くなっていく。タクシーを待つ列は長いけれども、時間がたつにつれてタクシーは来なくなり、30分後には残り4人というところでばたっと途絶えた。その時には飛行場入口はシャッターが降り完全に真っ暗。

 残った人で顔を見合わせあっていると、ウーバーが何とかやってきて、費用交渉をはじめた。全員載せて配っていくから一人ずつ単独で乗った場合の標準料金を出すということになった。
 途中に他の3人にとっては米軍基地内を通りすぎる近道があるということで、米軍ゲートへ行き、交渉して米軍が送り届けるということでそこで下した。
そして日本国籍の私だけが残り、基地を大きく迂回してホテルへ到着。着いたのは午前1時近くになっていたけれども、私を受け付けるということと、それにかこつけて夕涼みをしているお客のためにホテルの入口は開いていた。
私のこれまでの旅行で、一番ひやりとした一瞬だった。やはり知らない場所に夜遅く着くのは危ない。

 今回は、ウィリアムズバーグの全体的な紹介をします。
 内容は、下記です。
0.ウィリアムズバーグとは
1.コロニアル・ウィリアムズバーグへのアプローチ
2.ウィリアムズバーグロッジ
3.かつての市民の居住区域
4.商業区域
5.公共の建物
6.ウィリアムズバーグステーション

0.コロニアル・ウィリアムズバーグとは
 1607年に現在のバージニア州へ英国からの入植がはじまった。その頃の州都はジェームズタウンであったが、ウィリアムズバーグ近くにはネ一部ネイティブアメリカ人防御のための、拠点が築かれた。また1693年には大学が設置され、そこでワシントンやジェファーソンが学んでいる。
その後ジェームズタウンが反乱軍によって燃やされるなどの事件があり、このウィリアムズバーグに1698年州都が移ってきて、総督府や議事堂などが設置された。
 アメリカ独立戦争中の1780年に、ジェファーソンが英国の攻撃を受けにくいリッチモンドへと州都を移動し、戦後も戻さなかった。その後南北戦争時にバージニア州は南軍に入ったので略奪の被害を受け、その後は特に注目されることもなく荒廃していった。
 この街に注目したロックフェラー2世の金銭的バックアップの元に、1920年代の後半から植民地時代の街を丸ごと再現しようと建物の修復や再建を行うとともに、1790年以降に建てられた建築物は除去した。
 ここのモットーは、「未来は過去から学び取る」であり、アメリカの精神を象徴する場として、第2次世界大戦時は新兵の教育の場、冷戦時代は共産主義反対を提唱する場となった。大統領はここで種々の会議を開催しており、その中に1983年レーガン主催のサミットがある。(ニューポートニューズ空港もローカルだが、こういった国際会議があるため国際空港扱い)
 エリアは70ヘクタールと広大で、その中に住んでいる人は植民地時代の服装をしている。そのエリアには徒歩で入ることは自由で、建物内に展示品がある場合は入場料が必要となる。建物と植栽特に大木がなじんでいて、タイムスリップしたかのように思う。
 街の再現ということで、日本の明治村のような古い建物を各所から集めてきたものとは異なる。アメリカ保守の、アメリカ魂発揚の場所になっていると思う。


1.コロニアル・ウィリアムズバーグへのアプローチ
 私のホテルからは大きな道に沿って、ウィリアムズバーグへ到達する。
 そこに近づくと、牧場地帯が広がっている。馬や羊、そして渡りの途中のガンがのんびりと過ごしている。以前米国人から、米国は基本的に農業国家だと聞いていたが、多分街の外れは、こんな牧場が広がっているのは理想なのだろう。

 
< ウィリアムズバークへの道標     牧場の羊 >

 

< 牧場の馬      ガンの群れ >


2.ウィリアムズバーグロッジ
 私たちの会議が開かれた所。この地域の最高級ロッジで、サミット自体は総督府で行われたが、このロッジも大活躍したようである。
 中はとてもクラシック。歴史の重みを感じさせる。ロビーに非常に大きなバッタの銅製板金加工品が飾ってあった。緑青が渋い。

 

< ロッジの入口     ロッジのロビー >

 

< ロッジに飾られたバッタ    宿泊棟 >



3.かつての市民の居住区域
 ロッジの周辺はかつての市民の居住域で、庭付きのこじゃれた一戸建てが立ち並ぶ。以前ロスで招待を受けて伺った郊外の街並みや庭にそっくりで、植民地時代に米国の一戸建ての原型ができていたとおもった。

 

< 市民の住居 >


 

< 市民の庭 >



4.商業区域
 馬車が走る目抜き通りには、いろんな店が連なっている。あいにく私は中に入れるチケットを持っていなかったので、外にぶら下っている看板を眺めていたが、面白い。
また所々に馬止めもある。

 

< 目抜き通りの建物 >

 

< 目抜き通りの建物、   馬の係留木 >

 

< 看板の例 >



5.公共の建物
 総督府をはじめとして、集会所、教会等のかつての州の首都に相当する建物が揃っている。また市民が集う場所もある。
 最初にも書いたが、日本の明治村のように面白い建物を並べて見物していこうというのではなく、アメリカのルーツを確認しようと街全体を再現するプロジェクトでできた地域である。建物はロックフェラーが金をたっぷり出している(らしい)ので、非常によくできている。そして建物を囲む植生が素晴らしい。並木道の樹々は植民地の頃そのままの樹々が残っているものと思うが、大木ぞろいで自然にその頃の時代の空気を残している。
 アメリカが、外国に対して自分のルーツを主張するにいい場所であるとともに、米国人にとって自分たちの国の自立と生活基盤を感じさせる場所なのだろう。

 

< 総督府の前の芝の空間   政府の建物 >

 

< 市民の集会の場所  教会の音楽会の案内 >


6.ウィリアムズバーグステーション
 ここからワシントンへは、アムトラックの特急が2本走っている。
 始めてアムトラックを使用するのだが、混むらしいということで、大苦戦してネットで予約をとったらがら空きだった。駅には改札口はなく、どこからでもホームに入ることができる。列車の乗車口で切符をチェックされ乗り込むことができたときにはほっとした。
 ワシントンまでの途中は、いわばポカホンタスのカヌーの世界。所々に湿地帯が広がっていた。

 

<ウィリアムズバーグ駅     駅 表示 >



< アムトラック 特急列車 >


コメント (4)
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