和恵と幸雄が最初に会話を交わす場所は、「荒神橋」という。 路面電車がこの橋の上を走っている。この橋は八月六日の日、まさしく神が荒ぶり、多くの被爆者が渡っり逃げ惑った橋である。地獄から逃げ出すために。 二人の背景には、牡蠣ぶねが見える。その向こうに、丸に十の字の看板をつけたビルが見える。 この会社は嘗ては陸軍の軍服を扱い、富を築き戦後は警察予備隊の制服でのし上がった会社である。今は傘下にスーパーを持つ。
和恵が勤めていた「十字屋楽器店」は二店舗あって、駅前店が「的場」 本道り店が本道り商店街に有った。
画面に出てくるお客さんの女学生は、胸の校章から察するに当時、「広島女子商業高等学校」と呼ばれた学校の生徒さん達である。 この学校の生徒たちが中心に、「折り鶴の会」が結成され、原爆の子の像は当時常に清掃され、八月六日の式典を行っていた。
二組のカップルがオートバイでドライブする場面は、かつて広島から「軍港呉」へ物資を輸送したルートである。その為に建設された国道31号線と、国鉄「呉線」は並行して走り、背景は能美島である。隣接する島が海軍兵学校がある江田島である。昭和41年当時は、江田島には陸からは行けなかった。早鞆ノ瀬戸に橋が架かったのは昭和50年代である。軍港「呉」を過ぎ、音戸の瀬戸を跨ぐ橋を渡り、倉橋島のドライブ先の海岸に腰を下ろし、和恵と幸雄が会話する。
「わし小さい頃船に乗った記憶がある」と幸雄が語る。 原爆孤児の、収容先は当時三ヶ所あった。広島駅裏にあった、「広島修道院」、広島城の堀端の「新生学園」、瀬戸内海に浮かぶ「似島学園」の三ヶ所である。
思うにいたいけな少年幸雄は、「似島学園」に収容されたのであろう。今日では「宇品港」から学園の専用船が運行されている。原爆孤児は6500人にのぼり、内2000人が、これらの施設に収容されていた。がしかし、窮屈な施設暮らしを嫌って、脱走を繰り返したそうだ。
二人の背景の海の沖を、嘗て「戦艦大和」が特攻出撃していったのだ。
「愛と死の記録」の映画は、このように一場面一場面が「戦争と原爆」の事実の上に描かれていることに驚かされる。
幸雄のモデルが実在した事はあまり知られていない。 「中本総合印刷」にその青年は実在したのだ。 二十三歳で他界した実在の人物と、昭和37年の新聞記事のあと追い自殺がこの映画の背骨として存在する。
昭和37年広島大学病院のベットで、中国新聞の記事であと追い自殺の記事を読んだ翌年、昭和38年9月、検査入院をした。その時のことを思い出したのでここに記しておく。
一人の女性が救急車で運ばれてきた。 農薬による「自殺」であった。この女性もあと追い自殺であった事をお思い出した。 そしてまた、この事件と前後して、一人の被爆者が、屋上から飛び降り自殺した。 窓の外を何か白いものが落ちていった。 自殺であった。 その夜、自殺した被爆者を追って、一人の女性が大学病院内の庭木に首をつり後追い自殺した。
この一ヶ月は私にとって不思議な一ヶ月であった。
女性から初めて交際を申し込まれたのもこの月であった。
この月がきっかけで本を読み始め、出張先での夜は本ばかり読んでいた。月に十冊は読んだ記憶がある。部屋の床が、本の重みで抜けたのは、昭和42年だ。より分けて古本屋に売ったら、当時の金額で一万円を超えていた。そのお金は一晩で呑み代に消えた。散財したものである。