藤森照幸的「心」(最年少被爆者、アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

新年を迎えれば七十歳。

2014-12-27 12:38:24 | 日記・エッセイ・コラム

 

新しい年を迎えれば「七十歳「と成る。 生後四カ月で「原爆」の洗礼を受けて以来、多くの病と闘った。

今日まで命ながらえて来たが、この世にはあまり未練が無い。 すき放題、勝手気ままにやってきたせいであろう。 あちらこちらで迷惑も掛けて来たが、それなりの恩返しもしてきた心算である。

今年最後の大仕事を始めた。 先日来、風呂釜の調子がよくない。 新しくしようと思ったが、旧式の型の風呂釜は現在製造されていないと言う。 給湯器でお風呂は十分であるが、何だかこのまま風呂釜を腐らせるのが忍びなくなって、分解清掃してみる事にした。          

洗浄剤で隈なく洗浄して、本日夕方まで十分に乾燥後、組み立てて新年早々には、取り付けてみることにしている。 調子よく動いてくれればお慰みである。

ちなみに、写真の右側に水を張ったプラスチックの箱が写っている。 この様な箱が、玄関脇に三つある。 この箱で、絶滅危惧種の、「西日本めだか」を飼っている。 今年も順調に増えて、二箱から三箱になった。 以前は増えると、 近隣の溜め池に放流したり、「せせらぎ公園」の水路に放流していたが、この秋「青少年野外活動センター」のため池に放流した「めだか」が、増殖し群れを成して泳いでいるのを確認できた。 因みにその水槽の中の緑の物体は、「クレソン」と「せり」である。 我が家では、自給自足している。 

外来種の「クレソン」は非常に強い。 水槽の中の余分な養分を吸収して立派に育つ。 奥様の好物の一つだ。 サラダには欠かせない。 風呂釜の復旧が上手くいったらご報告いたします。 

本年は皆様には大変お世話になりました。 お礼申し上げます。 新しい年がよい年であるよう、お祈りしております。

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免許取得顛末記

2014-12-26 08:31:56 | 日記・エッセイ・コラム

私の自動車免許取得は遅かった。 昭和三十九年から、常に運転手つきで仕事をしていた。 長期出張時などは、他の者が帰郷しても、私は現地に留まり、行く先々の文化財等々堪能していた。 四十五年に子供が生まれて、移動手段として車の運転をと思い、免許を取得する事としたが、自動車学校に通う時間が無い。 そこで会社にお願いして、手の空いた時に教習所へ出向き、教習を受ける事にした。 いわゆる随時教習である。 教習所の事務員さんが、「それは止めたほうがいいですよ。大方の人が途中で止められます。」といい、「どうしてもと言われるならば、合格まで六十時間くらい考えて欲しい。」と言われた。 其れならばと、さし当たって三十時間分のチケットを買った。三十時間で取れれば「儲け物」と思ったからだ。 その日教官の空きがあるという。 早速一時間乗った。 教官に、「はじめて乗るのではないでしょう。」と言われたが、まったく初めて自分でハンドルを持った。 翌々日の夕方に、教官の明きがあるという。 一時間乗ったら、「案外早く取れるかもしれない。」と言われ、翌日の土曜日に、午前中教官の空きがあるというので指導を受けていると、その教官が「この自動車学校のコースと、試験場のコースは違うので、一度試験を受けて、コースの下見をしてきた方が良い。」という。 翌週の火曜日に試験を受けに行った。 火曜日と言うのは、当時官公庁の入札が殆ど無かったので時間が取りやすかった。 学科は、常識程度で十分だと思い、月曜日徹夜して二度読んだだけである。 それでも受かった。 実地試験は坂道発進のとき、広島空港の飛行機が離陸し、爆音でエンジン音が聞こえず、上手くいかなかった。 それでも最後まで運転させてくれた。 試験車から降りる時、 「左右確認をもう少し誇張した方がいいよ。」と、試験管からアドバイスを頂いたので、翌日午後再度挑戦してみた。 受かってしまった。 教習所に、残りのチケットを引き取っていただきに行くと、「免許取得を諦めた」勘違いされた。 その教習所始まって以来の、最速の合格者だと言われて、まんざらでも無かったことはたしかだ。 私の勤務先の会社の社長は、社員旅行は「自動車で九州四日間の旅」と決めていたので、翌年から運転しなければならなくなった。 私は、「三時間で取った免許ですから、三時間以上の運転はしません。」と宣言し、もっぱら温泉入浴と食欲を満たす事に精を出した。 免許取得以来、来年四十五年になる。 幸いかな一人の死傷者も出さずに今日を迎えている。

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又降ってしまった、雪。

2014-12-22 08:10:39 | 日記・エッセイ・コラム

 

一昨日の雨で、やっと消えるかと思った雪。 元の木阿弥である。 一晩で十五センチ。 午後も降り止まず、今日一日雪だそうだ。 雪が降るのは仕方ないが、雪が降ると暖房にストーブを使う。 使うと私の体は酸欠状態に成る。 頭痛と吐き気に襲われて、一日中「ぐうたら」していなければならない。 何時もブログを拝見している「はなてぼ」様が、町内に「信号機が無かったと、述懐されていた。 横になっている以外、この苦痛から逃れるすべの無いので、天井を眺めながら広島市内に何時から信号があったのか、考えてしまった。

私が小学校に入学した昭和27年の夏には、私の町内にも信号は無かった。 広島電鉄の、私の生まれた「己斐」の電停(西に向かう宮島線の基点でもある)から、原爆で焼け残った路面電車「広島駅行」に乗り、東南に進むと最初の信号機が、「土橋」と言うところに有った。 嘗ては、出雲街道、石州街道が、山陽道から分かれる基点であったそうだ。 それから先、「十日市」に一つあり、「原爆ドーム」を過ぎて、紙屋町の交差点まで無かったように記憶している。 紙屋町は広島の中心部で、戦後いち早く「県庁」や「バスセンター」が作られて、「本通り商店街」を控えて、賑わっていた事は確かである。 其処から北西に250m、原爆ドーム傍の「相生橋」の上からは、夏になると子供たちが太田川に飛び込み遊んでいたが、半数の男子は裸で飛び込んでいた。 俗に言う広島弁で「フリチン」だ。 因みに昭和33年、私学に進学してビックリした。 臨海学校は、「六尺ふんどし」で、体育の水泳の時間もそうであった。 男ばかりの学校だから、その方が良かった事は確かである。 夏になると、体育の時間の後のベランダの手すりは、白い布が無数に棚引いていた。

八月六日の原爆記念日にも、子供たちは無邪気に太田川に飛び込んでいた記憶がある。 原爆孤児の「物貰い」はいなくなっていたが、傷痍軍人の姿はあったように記憶している。 戦後、昭和33年の「広島復興博覧会」までには、広島町の様相は一変したように思う。 そう思い返してみると、昭和30年が大きい変化の始まりで、昭和40年は広島の現在の形が、ほぼ固まった様に思えてきた。 特に昭和35年頃から自動車が急激に増えてきたのではなかったであろうか。

運転免許取得顛末記を書くつもりが、「信号機」の横道に行ってしまった。 頭が酸欠でまとめが出来ない。 免許書取得の顛末記は、又明日でも書くこととしよう。 

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久しぶりの繁華街

2014-12-20 12:50:53 | 日記・エッセイ・コラム

昨日は、久しぶりに広島の中心部に出かけた。 出かけたといっても、お遊びではない。 定期健診に出かけたのです。 原爆被爆者は、一年に二度、定期健診を受ける事になっているが、昨年の検診で「前立腺癌」の疑いがあり、経過観察のための「血液検査」と、「MRI」をしていただいた。 ついでに、胸部の「CT」検査を受け、アスベスト肺の経過を検査していただいた。 何れも、三ヶ月前と殆ど変わりないそうで。 又、三ヵ月後に検査だそうである。 何だかこのところ検査を受けても、治療方法のない私たちのための検査が、無意味に思えて成らない。

広島市中心部、紙屋町の界隈は、クリスマス気分を盛り上げようと、色々デコレーションされているが、行き交う人達は下を向いて、ただただ歩いているようである。 午後三時過ぎまでの五時間の診察には疲れたが、これで年内の私の行事は全て終了である。

先日以来、学生時代苦手だった「英語」を、今一度かじってみようと思い立ち、インターネットで中学生向けの参考書を三冊手に入れてみた。 ビックリした。 中学一年生の時に、この参考書のように教わっていれば、「英語難民」にならなかったのではと思い始めた。 特に単語の発音には規則性があり、其の規則性が理解できると、過去形やその他の変化が、自然と理解できるという事実を知った。 この様な指導はどの先生もしてくれなかった。

今朝から、中学生気分で参考書を読んでいる。 残念ながら年には勝てそうに無い。 読む端から、頭の中から抜けていく。 だが面白い。 時間は十分にあるので、参考書が破れるまで、読んでみる心算である。

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雪が降っても、NHKのニュースにもならなくなった。

2014-12-18 08:34:13 | 日記・エッセイ・コラム

 

十二月三日の初雪以来、一日も雪の姿が消える事はなかったが、昨日からのドカ雪で再び銀世界となった。

クリスマスを、銀世界で迎えるのだろうか? 所々青空が覗いているが、雪は舞っている。BS放送は厚い雲の為、未だ受信できない。 

昨日除雪した玄関先は、元の木阿弥である。

この雪の中、奥様は早朝の散歩にお出かけされた。 手に武器を持って出かけるようにと、注意しようと思ったが、気がつくと姿が見えなかった。

こんな雪の日は、山の中に餌がないので、「鹿」、「イノシシ」、「猿」が人家近くに下りてくる。 こんな日によく「猿」に襲われる。 「軍手」などのふっくらした物が、餌に見えるらしい。 ポケットも膨らんでいるといけない。 況してや「リュックサック」などは、もっての外である。 「田舎育ち」といっても、「害獣」も生きてゆけない「寒村」育ちの奥様は、いたって「害獣」の怖さを知らない。 

おそらく、何時ものお散歩友達はお休みであろうと思うが、そんなことお構いなしの単独行動である。

無事にお帰りまで、気が休めそうに無い。 

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