HP社のホームページから、プリンターを診断してくれるソフトが提供されていた。 ものすごい仕事をしてくれた。 困り果てていた、プリンターの問題点を診断して、全て解決してくれた。 「HP Print and Scan Doctor 」と言うソフトである。 HP社のプリンターをご使用の方は是非ともダウンロードしてお使いになるといい。 全てのメンテナンスをしてくれる。 手持ちのプリンターを、HPにそろえていた事が幸いした。 皆様元気に働き始めた。 パソコンの問題は解決したが、我体の方は、そうはいかない様である。 八月十日の様な状態にはならないが、血液検査の結果は良くない。 無理もない事ではあるのだ。 腎臓が一つしか働いていないうえに、腎不全。 食事、運動、睡眠いくら気お付けても限が無い。 一粒の薬を一回飲み忘れただけで、心不全を引き起こす。 息が詰まるような毎日であるが、是もまた人生だとあきらめている。 さすが奥さまは、そのような私を24時間見ているのが辛い様である。 一日おきに、児童館や福祉会館で行われている、乳幼児の見守りに参加して、幼い子供や母親をお世話して、心を癒しているようである。 元々が、児童館の職員を30数年やって来たので、定年後の時間つぶしに向いて入る様だ。 幼い子供と過ごした話を、帰宅後は明るい顔で話している。 しかしながら、70歳に成って来ると、子供の名前が覚えられなくなって来た様だ。 覚えていても、直ぐ三出て来ない様である。 年取れば子供帰りをするそうだから、小さな子供にとっては良い遊び相手であろう。 しかし近頃の子供は、体格が良くなっているので、抱き上げるのに一苦労して居る様である。 奥様の楽しみを亡くさないためにも、私が寝たきりにならぬ様に気お付けているが、それも何時までの事であろうか。 80歳の爺よりも、若いお母さんや、幼子と過ごしている方が良いのだが、私が急変した時の事は、未だに話し合っていない。 どうも私の方からは、話ずらい物ではある。 ところで、昨年の「鳥インフルエンザ」の後、カラスと雀が極端にいなくなった。 この夏烏は、一羽から四羽になったが、再び一羽だけになった。 雀の集団は未だに視れないでいる。 先日「人間のインフルエンザ」と「コロナ」の予防接種は受けて置いた。 「JR可部線」の乗客が、「コロナ」に罹る確率が高いという、噂が出たが真偽のほどは解からないのだが、バスに乗り換える人が増えたそうだ。 特に受験生にその傾向が有るという。「コロナ」の予防接種が有料化してから、特に感染が多いいそうである。 自民党さんも、「政治資金」と言う「コロナ」で、いちころりんと選挙に敗北された。 これからの、「物価対策」や「景気対策」は、如何なることに相成るのだろうか。 年金生活者の我らとしては、半分首を絞めつけられた気分である。
私の部屋には、PCが三台、プリンターが三台ある。先月買ったウイルスバスターを、入れたら全てのプリンターが作動しなくなった。 奥様の物も入れると、合計八台が異常状態になっている。 そこで、いれたウイルスバスターを抜いて、昨日から別の物をいれて、プリンターが作動するかどうかテストをしている。 やはりだめ。なぜこうなったかは、初めのソフトの不良が原因であることは、間違いない。二つ目のソフトは、其のところを衝いて来て、HP社の技術者の力を借りなさいと、警告文を発してきた。新しいソフトには、AIの要素が含まれている様だ。 此方の気持ちをくんで、慰めてくれる。しかしながら、広島にはHP社の出先が無いような気がする。 明日でもゆっくり寝て調べてみる事にしよう。それにしても我が家には、多すぎるPCではある。WIN7,10二台、11二台、タブレット一台プリンター4だい。 やはり身辺の整理をし始める事が先の様だ。
この世に生を受けて、79年と五カ月。 生後四か月で原爆の洗礼を受けた身である。 高校二年生の五月、朝礼で倒れて三年間の半分を、大学病院のベットの上で過ごした。 成人式には、あえて母親が作ってくれた背広を着ないで、学生服で出席した。 小学校時代からの親友も、私に合わせて学生服で出席してくれた。 変わった二人は、直ぐにTV局につかまり、インタビューされた。 最後の被爆者、昭和20年生まれの子供の成人式。 TVも手ぐすね引いて待って居た。 闘病生活は、「再生不良性貧血」原爆症。 当時の事は以前書いたので省く。 今年は、八月十日・・・午前八時タクシーで市民病院に行きそのまま入院。 妻は娘と二人で私に変わって、墓掃除。 携帯電話の電源を切らしておいた。 私は、脈拍20,血圧測定不能・・・・市民病院の記録で、妻と娘に電話がされたがつながらない。 他の身内を聞かれたが、「・・・・」。 一時間後やっと娘と連絡が付いた様だった。 その間に私は、首の動脈に、透析用の器具が付けられていた。 妻と娘が病院に着いたのは十二時。 私は意識は無かった。 あの高校生の頃と同じく、「明日の朝日を見る事が無いかもしれない」状態であったことは確かである。 「ノーベル平和賞」が、被爆者団体に送られていなかったら、今日もブログの更新はしなかったであろう。 何時何時、心臓が止まってもいい様に、身辺整理を始めている。