藤森照幸的「心」(最年少被爆者、アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

何だか異変が起こりそう・・・

2024-12-28 15:55:07 | しごとの思い出

 あと数日で、正月だと言うのに、どちらの記事にも、紅葉、黄葉の記事が出てくる。 なんだか不思議な感じである。 年末と言えば、「門松の青竹」や、「若松の緑」、「春近し」を感じさせる「黄梅」が、定番だったものなのだが、未だに紅葉した蔦や、散りそびれた銀杏の記事が多いい。 

我が家では、この冬一番の寒波がやって来て、早朝六時になっても外は真っ暗。 雪と霧が空を覆い、向かいの山が見えない状態だった。 やっと見えたら、最後の人家の所から上が、雪に埋もれんばかりの景色だった。 八時過ぎからは、猛烈な雪が「ふわふわ」と落ち始め、十軒先の家の屋根が見えない状態だった。 それは、二十分程で終わったが、久しぶりの雪の降り方であった。 

 この地に移り住んだのは、昭和四十五年の秋だったが、その年の冬は猛烈な雪で、広島市内で育った私は驚いたが、比婆郡の「ヒバゴン」の孫である奥様からしてみると、大した雪ではないと仰せであった記憶がある。 それもそうだ、初めて奥様の実家にお邪魔した時、バスが三次駅で雪の為、運航停止になった。 困り果てていたら、タクシーの運転手が見かねて、社長と相談の上、乗せてくれる事に成った。 ところが、到着してからが大騒動。 タクシーが折り返そうとして、雪に拒まれて、田んぼに・・・。 部落総出で引き揚げてもらい帰って行った。 その結果、我が奥様が男を連れて、タクシーで帰宅した事は、一晩で部落中に知れ渡り、私も帰宅する手段が無いので、一晩泊めてもらい、翌日の夕方、今の義父に二人して三次まで送ってもらい、広島に帰ったのであった。 と、そんなこんなで、雪を見るとその時の事を思い出してしまう。 因みに奥様の里は、広島県で、最初にスキー場が作られた村である。 義理の兄は、若い頃そのスキー場に行っていたそうである。 

 午後になると雪の姿は消えたが、「大雪警報」が、正午に出された。 明日買い物予定であったが、今急いで正月用の買い出しに行って来た。 どの店もレジは長い列が出来ていた。 誰しも考える事は、同じの様である。 「薬屋」までもが、満員御礼状態。 一体何をお買いになったのだろうか?・・・。  因みに私は、奥様の神経痛の為に、「アリナミン」を購入した。 本日最高金額の買い物だった。

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未だにもやもや

2023-11-15 09:41:56 | しごとの思い出

 自宅に帰って何日なのだろうか?、自分ではハッキリしない。 危機を脱した病人は、即退院。 病室が足りないのだ。 それでも一日余分に置いていただいたそうだ。 病院に到着時の脈拍数は、20から30程度で、「駐車場から自分で歩いて診察室まで来たのは、君くらいしか見たことが無い」と言われた。 診察途中からは意識が混濁。 首に電極を付けられたのは、日にちが変わってからだったそうだ。 麻酔も懸けづ、電極を付けられて気が付いた。文句を言ったら、「麻酔薬を使って死にたいですか」の一言。 それから先は、心臓電極、心電図計、血圧計、点滴二本、排尿管一本を付けられ、もうろうとして寝ていたが、翌日の夕方からは、看護師としっかりやり取りできるまでに回復した。 直ぐにでも帰っていいと言われたが、一日延期していただいた。その代わり、部屋を三回変わり、廊下でよ時間を過ごした。 急患が多すぎて、受け入れオーバーとなっているそうである。 多くの患者さんが、90台。 私などはまだか駆け出しの年齢。 昭和一桁生まれが大半だった。 中には交番の巡査が、縁側に倒れているのを見つけて送られてきた女性もいた。 彼女は99歳だそうだ。私より21歳上。 恐れ入り屋の大権現である。

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何時まで続くのやら・・・・

2023-10-21 12:13:26 | しごとの思い出

 十月十六日、広島大学医学部の腎臓内科を受診した。 地元医からの紹介である。 血液関係の検査は、総て正状値より15%低く、腎臓機能は全て15%高い数値で、午後二時まで延々と検査した。尿蛋白はけいそく不能だそうだ。 甲状腺刺激ホルモンは基準値の倍数。 クレア二ンは規定の二倍。 ・・・書いていくと切りがない。 胆嚢無し、前立腺無し前立腺に至っては100%癌が有ると判断した手術だったが、国立のがんセンターも、がん細胞を見つけられなかった。 勿論広大も。 今回は胆嚢のX写真から癌に間違いないと切除したが、これまた、癌無し。中の石が大量で、壁を傷つけて、癌に見えたそうだ。 一応退院したが、一日おきに点滴。三日に一度の血液検査。 一時間半の点滴は、いささか、嫌になって来た。 今日も今日とて、地元医に30P分の報告書が届いていた。 時間が懸かる検査結果と共に、12月18日に、「CT他、再度の検査を行うので来院されたし」との事である。 自宅から早ければ一時間十五分。 ラッシュ時には二時間かかる。 此方は病人だ・・・と叫びたくなったが、お偉い先生方が検査してくださるので行かざるをえまい。 せめて、天気が良ければよいが。 15歳から二年半入退院を繰り返した大学病院。 様変わりの大きさに・・・・。 嘗てあった竹林も無く、警察学校も無い。 入院の暇つぶしに、「竹秋」という短編随筆を文芸朝日に送ったら、佳作になった事が有った。 当時入院していた同年代の娘は、みんなどうして居るだろうか。 三波春夫に会ったのも、この病院の当時新館と言われた建物だった。 大江健三郎氏も又この病院だった。 当時は赤レンガの病棟(被爆建物)と、東に見える黄金山と、蓮畑だけが記憶に残っている。

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熊本「徳富蘇峰の会」発足に参加

2021-10-07 15:39:21 | しごとの思い出

 奥様が、変な事から熊本のあるご婦人と知り合った。 この方のお父様が、「合志義塾」の卒業生であったそうだ。 今回の地震で、二階を整理して居たら、毛筆で書かれた講義記録が出てきたそうだ。 その講義録を整理して、出版されたそうである。 以前から、古文書の研究をしていた奥様は、その本に飛びついてそれを購入。 そこから始まったのが今回の私の大出費事件なのだ。 その方が、「徳富蘇峰の会」発足に尽力しておられることを知った奥様が、ぜひとも参加したいと言い出した。 言い出したのは良いが、「蘇峰」については、夫婦で水俣に出かけた時、偶然にも「徳富蘆花」と「徳富蘇峰」の記念館に気が付き、市役所の方に案内していただき、館内を見学させていただいたくらいの知識しかなかったのだが、今回の事が機縁となって、私達でも読める「蘇峰」の本を探した結果、四巻の作品集と、非常に珍しい本を入手した。それが・・・・

     

「野ばら社刊」 「徳富蘇峰翁と病床の婦人秘書」と言う本だ。 ブログでお付き合いがある「志村建世のブログ」の主催者のお父様(志村文蔵氏)が編纂された本である。 蘇峰は、交友を確かめ合った文通の纏めだと言っているが、読み手からすると、まさに上品な 恋文である。志村建世氏も、彼女には記憶があり、メロンをいただいた事が有ったそうだ。 我が奥様は、この方から東京の自宅に実った「柿」をいただいた事も有る。 そんな縁で、「徳富蘇峰の会」発足の事をお知らせしたところ、入会された。 今一人、広大の名誉教授「田中正道」先生に、「徳富蘇峰の会」発足記念の会報号を差上げた処、先生もまた入会されたとの事である。 そんなこんなで、我々も俄か勉強を始めた訳だ。 此れから幾冊の本を読む事に成るのやら。 老後の一大仕事に成りそうである。

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五時半起床

2021-05-31 06:56:36 | しごとの思い出

 何時も道理、起床して「キリマンジャロ・コーヒー」を入れた。 本日の朝食は抜き。 薬と珈琲1杯を飲みながら、奥様のピザ・トーストを横目で、よだれを流しながら見ていたら、便意をもようして来た。 病院の指示書に、排便をして置く事、朝の薬は飲んでおくこと、飲み物は一時間前までに済ます事と、記入してあった。 一つだけ手抜かりが。 提出用の書類と手元に置く書類とが逆さまになっていたので、署名を書き加えて整えた。 これで完璧である。 八時十五分に自宅を出発。それまでゆっくりと皆さんのブログを拝見するとしよう。

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