昨日PC解禁になったが、自粛していた。左目がいま少し不調である。全面回復には二ヶ月以上かかるらしい。まあゆっくりと養生することとしようと思う。
ところで昨日娘から電話が有り、孫娘が地方版のCMに出ることになったらしい。オシャマな二歳十ヶ月の孫である。
入院前に約束したことを果たすべくこの記事を書き始めた。それと同時に、当時の関係者の多くが既にこの世にいない事に気が付いた。そういう我が身も六十七歳である。何時お迎えが来るかわからぬ身である。 「南無阿弥陀仏」 合掌
さて本題に入る事としよう。皇太子ご夫妻(現天皇皇后陛下)に記念植樹していただいた後、黒松と桜はすくすくと育ちソメイヨシノの桜は広島市青少年センター入口の右横で弥生の空を染めていた。 植樹頂いて後、十五年の歳月が過ぎた秋の日、たまたま私が通りかかると、なんと広島市青少年センターの前庭が全て樹木が切り倒されていたのである。 元々この前庭は荒れ果てていたものを、青年たちが事あるごとに記念樹で緑化してきたものであった。なぜ切りたおしているのか?車を道路の真ん中に止め作業中の職人に聞くと、ハノーバー庭園を作るという。ハノーバー市と広島市は姉妹縁組をしその記念事業でドイツ式庭園を作るという事は聞いていたがまさか、広島市青少年センターの前庭を取り潰して作るとは思いもよらなかった。 すぐに広島市青少年センター館長のF氏に会い経緯を聞くと、嘗ての記録がなく、公園建設課から問い合わせがあった時に別段問題はないと答えたそうである。私の説明を聞いて、顔色が変わったが、起きてしまったことはもう仕方ないでしょうと開き直った。そこで私は、予てよりいろいろな事件で協力してきた地元紙のH記者に電話し事の顛末を話すと、カメラマンと共にやってきて、取材し明日の朝刊で取り上げるという。 翌朝私は、朝刊も読まず家を出た。会社で朝礼を済ませ、いつものペースでまず広島県の建設関係部署を挨拶回りを済ませ、続いて広島市役所の営繕一課の名刺入れに、私の名刺に希望工事名を手書きし投函して前を見ると課長が手招きしている。それに職員もいつもと違う雰囲気である。仕方なしに課長の前にゆくと、やおら新聞を取り出し、「今朝から庁内は市長以下このことでてんやわんやだ」という。 市民からの電話が応答できない状態が続いているというのである。その新聞を見て当事者の私がびっくりした。こうした記事は、普通三面に乗るはずが、二面の上半分を割いて、皇太子ご夫妻お手植えの木を切り倒しかつ、青年たちの記念樹の全て切り倒した広島市の態度が市民感情から理解できないという論調で埋まっていたのである。 その真ん中に、私が皇太子殿下お手植えの松を指差すところが、写真として大きく掲載されており、いつも訪れる営繕課の課長はすぐに私しだと解ったそうである。 それからが大変、公園管理課長、企画課長、教育長、次々に参集し会議室に缶詰状態になり善後策を講じるので協力して欲しいとのことであったが、私は、私の一存ではこの問題は解決できないし、記念樹を寄付してきた皆さんの気持ちをまず第一に考え、後日問題検討委員会を作り対応されるよう要望をしてその場を逃れた。 その後、宮内庁には市長名でお詫びの親書が送られたらしい。そして記念植樹者との合意がなされ、代わりの植樹、広島市青少年センター利用青年の利便性等の再検討となり、駐車場の設置、第二代目の平和の鐘の保存、等々当初計画は大幅な変更を余儀なくされ、規模も当初の三分の二に縮小された。 市議会で中心的に計画を進めてきた、「ハノーバー市親善議員連盟」の議員からはうるさい市民が登場してきたことにたいする風当たりの強さは並大抵ではなかったが、しかしその反面賛同してくれた議員も多く、この事件により市役所のどこに行っても、話ができる素地ができた。おまけに、市議会議員にも名が知れ渡り、おかげで建設会社の営業課長兼現場監督としては、至って遣りやすくなった事は事実であった。その後、私の市政に対する提案などは、当初議員を介して行っていたが、その内F教育長時代から、市長もしくは、教育長に直接提案して欲しいと懇願され、それが通例になり十年前まで続いていたが、A市長から変わった。 この市長最初、衆議院議員に引き出してきたのは私もその一人であったが、その後、市長に転身、私が顔を見るたびいろいろ「苦言」を呈するので疎遠になりはじめ、最後には廊下であっても向こうが避けて通るようになった。しかし、その姿は今は無い。新しい市長に何もかも押し付けて引退した。無用な広島市民球場を創って。
黄斑膜円欠(血中酸素不足による黄斑膜壊死)という一夜で闇夜になり、四十分の手術で光を取り戻しました。石綿による肺機能低下が確実に進行しているようです。しかし、医師の話によると、私の機能回復力は人並み以上のもので、術後十日での退院は初めてだそうである。早くて二週間、今回の状況からして、三週間は覚悟くださいとのことでしたが、手術頂いた先生の技量が素晴らしく、昨日退院しました。ご心配のメールを頂き感謝しています。ただし医師の忠告により、当面ブログは、お休みさせて頂きます。七月初めには許可が出そうです。その時は以前同様なご訪問をお待ちしています。
明日入院します。しばらくの間留守にしますが、また戻りましたらお付き合いください。引き続き石綿被害者の実態と、石綿被害者を出さないための発信を続けていきます。七月には、再びお会いしましょう。
皇太子殿下(現天皇陛下)と美智子妃殿下には、昭和43年、広島を訪問いただいた。その時、広島市青少年センターで、広島県下の青年と親しく歓談頂いた。選ばれたのは、県下で活躍していた青年たちで、広島県の社会教育課が、人選にあたった。当然市町村に推薦させる方法によりなされたが、広島市は当然に商工会議所や、大企業、青年諸団体に推薦を依頼しその中から選ぶことになっていた。しかし、そう成無かった。人選方法にイチャモンを付けたのである。言いだしっぺは、当時広島市職員であった、水野 文隆氏である。彼曰く、「平素中心的存在に位置する人間は、自然にいろいろな人間と関わりを持つ。自然と他人よりいろんな経験をし、自然と知識が加わる。しかし、組織の底辺で日夜組織を支えている人間は、なかなか今回のようなチャンスがあっても回ってこない。不公平だ。そこで、青年諸団体に呼びかけて、平素底辺で支え続けている青年に、チャンスを与えて欲しい旨の、要望書を市長宛に出そう。ついては、自分は市の職員なのでできないから、ここは一番力になって欲しい。」と、頭を下げられた。先輩から頭を下げられると、断れないのが私の性格である。彼は、そこを突いてきた。数日後、私は、青年団体の代表として市長に直談判に出かけた。それが、初めて市長室に押しかけた最初である。当時の市長は、浜井 信三氏で、名市長として今日まで語り継がれている市長であった。約30分、十分にかつ真剣に話を聞いていただき、その結果、困惑したのは広島市の社会教育課であった。ありとあらゆる職種から八方手を尽くし、その人選をしたのである。
当日、私が両陛下に植樹のお願いをすることを彼に事前に彼に相談したところ、彼は快諾してくれた上に、「みずえい緑地」の社長に相談し、黒松と桜の苗木を無償で貰い受けてくれた。この記念すべき植樹が15年後、一大事件を引き起こし地方紙の二面の半分を飾ることとなり、私は一躍広島市役所、広島市議会にその名が知れ渡ることとなる。人生面白き哉である。
その事件は、退院後この画面でまた、皆様に紹介するつもりである。