藤森照幸的「心」(最年少被爆者、アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

未だ回復せず。

2016-02-23 07:52:02 | 日記・エッセイ・コラム

 病原菌は体内から居なくなった。 居なくなったから、直ぐにでも元気が出るかというとそうは烏賊の・・・・だそうで、未だにベット生活である。

 ベットの上で昔のことを思い出していた。 なぜそうなったかといううと、広島市立青少年センターが、開館50年を迎えたからである。 広島市立青少年センター建設の事の発端は、私が広島県の主催した「国内研修」制度で九州を二週間研修旅行したことが発端でした。

研修中に、「国立阿蘇青年の家」に立ち寄った。 青年の家は農村の青年で満ち溢れていたが、都市の青年は少数であった。 そこに疑問を持った私は、研修報告書が出来上がっるのを待って、当時文部大臣であった灘尾広吉事務所に報告書を提出する役を買って出た。 昭和四十年の文化の日であったように記憶している。 その日は翌年四月の地方統一選挙を控えて、予算編成期であったが大臣は帰郷していることを知っていたからである。 初対面の大臣に本音の話をしてしまった。 「江田島青年の家が計画されているが、残念ながら多くの広島市の青年は利用できない。」と噛みついてしまったのだ。 江田島は大臣の故郷である。 それでも若造の話を長い時間聞いてくれた。その席で私は都市型の青年の家の建設を要望したのです。

 翌年の成人式の日に、文部大臣がNHKで全国の青年とTV対談する事に成った。 その機会を後の広島事務所長、水野文隆君とチャンス到来とばかり、新成人の中のE嬢に、都市型青年の家建設を直訴したのです。 大臣は即答で広島に建設すると約束してくれました。 突然の事態に私は市長に大目玉でした。 しかし、その年の十一月三日落成式を迎え今年五十年の記念すべき年を迎えました。

 当時の関係者は多く旅立っていき、当時の記録は忘れられるのではなかろうかと思います。

コメント (2)
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