この映画の冒頭の画面、何か異常だとは最初から思っていた。平和公園の鳩の群れの餌を喋むシーンである。 二匹の鳩が、他の鳩が飛び立った後に、取り残されるシーンである。
一羽は羽を異常に動かし、一羽はそれを護るかの如く毅然と立っている。
この冒頭のシーンから、「広島の被爆者の置かれた立場」を、「これから出てくる一組の男女の運命」を、表していたのである。
この写真の場面になると、記憶は十四歳の時点に、たちまち戻って行く。
私の十四歳の夏の一週間はこの海岸で過ごされた。 学校恒例の林間学校である。 林間学校といっても海での合宿である。正しくは、臨海学校というべきかもしれない。海越小学校で行われた。
二人の背景の岬の先に「鹿島」、その向こうに「大崎上、下島」、その向こうに四国連山の山々が見えている。 当時はまだ空気もきれいで、四国まで見えた。 夜は四国の光の中を走る列車の光さえ見えた。
この映画が公開された翌年、四組のカップルでこの海岸でキャンプをした。 当時としては広島で、そんなキャンプをカップルですれば、「不良」と言われた。 当時の親はお役所に弱かった。 教育委員会が認める「グループ活動」をしていた我々は、ある面、教育委員会を利用していた。
昭和四十二年には既に廃校になっていたが、この海岸に面して昭和四十二年には木造の校舎が残っていた。 天候が急変した時は、利用できるよう事前に広島市の教育委員会から、使用の許可をお願いしていただき、鍵を頂いていた。 女性軍が気に入り、テントを張らずこの学校を使用させてもらった。 カップル毎、個室ならぬ個教室であった。
だからといって、ふしだらな関係は絶対になかった。少なくとも私は。 少なくとも私はと書いたのは、その中の一組が、二年後結婚した。
そうした事を思い出しながら見ていた。涙を流しながら。
三原幸雄が他界し、和恵が「原爆の子の像」を見上げながら、「幸雄」の名を呼ぶ場面で体に電気が走った。 思い出した。地元紙「中国新聞」が始めた、「ヒロシマの記録-遺影は語る」は、その後どうなっていいるのだろうかと思いついたのだ。
PCに取り付いて検索した。皆さんもぜひ一度検索してみていただきたい。
広島市内、周辺町村の町内会を始め、各学校から学徒動員された十二歳からの子供たちや、被曝死した人々の「遺影」がズラリと並び、遺族から寄せられた「コメント」が悲しみをにじませてくる。 いたいけな十二歳の子供まで動員して、「東條英機」は一体何をしようとしたのだろうか。
今日本は、「同じ道」を歩もうとしているのではなかろうか。
「ヒロシマの記録ー遺影は語る」を、皆さんと共有できればと思う。