藤森照幸的「心」(最年少被爆者、アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

日比谷公園の「鶴の噴水」

2015-07-30 15:24:20 | 日記・エッセイ・コラム

 NHK BSプレミアム番組「美の壺」で、日比谷公園の「鶴の噴水」が取り上げられたらしい。 ブログつながりの「はなてぼ」さまの記事でそれを知った。 「ないたあかおに」の作者、濱田廣介が大正十一年に出版した「大将の銅像」の中の一編が、「噴水の鶴」の話である。 実在の噴水を描いていたとは知らなかった。 昭和四十八年、上京の機会に日比谷公園を散策、「鶴の噴水」を見てその姿の不思議さに、えも言われぬ感動を覚えたことは確かである。 その時友人は、「冬のこの噴水の方がまだ素晴らしい」と言っていたのを思い出した。 台座にツララが下がり風情が増すそうである。 今日一日かけて「鶴の噴水」を調べてみた。 明治38年にこの噴水は作られたそうである。 作者は東京美術学校の津田、岡崎の両氏だそうである。 

 先の戦争中、金属供出の煽りを受けて、一時期撤去されていた。 戦後復活したときは上部の鶴のみの姿で、唐金の台座は石に代わっていた。 心ある東京都の職員が噴水の上部をどこかにこっそり保管していたらしい。

 この職員は、文化財としての価値を感じていたのであろう。 装飾された噴水としては日本で三番目に古いそうである。 長崎「諏訪神社」境内の噴水が、日本で一番古い事は長崎を訪れたときに知ったが、年代から言って、この「鶴の噴水」を、漱石や鴎外が眺めていたことになる。 彼らの感想は如何なものであったであろうかとふと思う。

 戦争とは、こうした文化的価値のあるものまで引きずり込んで破壊してしまう。 広島の町は、一発の爆弾ですべての文化財を破壊しつくされた。 戦後「平和都市建設法」により、広島平和公園が建設されたとき、正面に大きな噴水が作られた。 被爆者が水を求めて死んでいったからである。 慰霊碑の周りも水で満たされている。 

 明治38年、この日比谷公園に噴水が作られたのはいかなる理由からであろうか。 今一番興味のあるところである。

 ちなみに日本一古い噴水は「兼六公園」であることは皆様ご存じのとおりである。 加賀100万石の権力を見せつけるために作られたそうだが、はたしてそのような理由であろうか疑問である。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いかなる蝶の幼虫か

2015-07-30 11:22:12 | 日記・エッセイ・コラム

 梅雨明け頃、我が家の庭先の「カラー」の葉を食い荒らす怪獣が出現する。 最大体調12cm。 いかなる蝶の幼虫かいまだ判明しない。 羽化したところを見たことが無いのだ。 ある夜突然姿を消す。 おそらく安全なところで蛹となるのだろう。 幼虫の大きさからして大型の蝶であろうと思うが、大型の蝶のうち「きあげは」は、柑橘計の樹木ですごし、今ひとつは山椒で成長する。 この種の大型蝶の蛹はあまり遠くに出かけずに近場で済ますので見つけやすいが、この怪物君の蛹は、未だ嘗て発見できていない。 幼虫の色からして、「黒色」「大型」の蝶であろうとは思う。 何方かこの幼虫がいかなる蝶なのかご存知ならばお教え願いたい。

 

「はなてぼ」さま、日比谷公園の中に、あの「鶴の噴水」があろうとは感動です。 昭和48年この目で確かにこの噴水を見ました。 前回上京の折解っていれば、今一度訪ねたのに残念。 次回上京の折には是非とも今一度訪ねたいと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

同窓会での素晴らしき出会い

2015-07-28 15:30:51 | 日記・エッセイ・コラム

 クラス仲間で一番の「腕白ぼうず」の息子が、写真家になっていた。 彼の発表した写真集が、あまりにも素晴らしいので、皆様にもご覧いただきたい。 

 写真家の名前は、「前 康輔」。 検索していただくだけでも、「俱会一処」の写真集が飛び出してくる。 彼の一家はいろんな事故に見舞われた一家であるが、人生とは何かを一冊の写真集で表してくれている。 同級生である父親は嘗て、「広島カープ応援団」のリーダーの一人であった。 その後ろ姿を見て育った息子が、彼の人生と家族の絆を見事に表現してくれている。

http://kosukemae.net/private-works/kueissho/

是非ともクリックしてこの写真集の素晴らしさを堪能いただきたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

広島市は「中国管区指令室」を解放した。

2015-07-23 18:27:04 | しごとの思い出

 今、「NHK」のニュースを見ていた。 二十数年前から私が訴えていた、「中国管区司令部」の跡を是非とも解放してほしいと、地元市議会議員を通して訴えていたが、「今日」市民に解放された。 加えて八月六日当時の再現の展示もされているという。 NHKのニュースを見ながら涙が流れ始めた。 やっと、昭和二十年の八月六日の現状が再現され始めた。 

 皆さんには、是非とも「日本皇国軍」の、人権を無視した行動が伝われば良いと思っている。 幹部は、現在の安佐北区可部町の高等女学校を接収し、生徒を学徒として「広島城」の中にあった「地下司令室」に閉じ込め、作戦行動を行っていた。 だから、空襲警報の発令も遅れ、犠牲が多くなったことは事実である。 是非ともこの機会に、広島城の裏の姿を見てほしい。 正しい訴えはいつか行政も動かせる。

ちなみに地元議員とは、この地下壕に居て、命を取り留めた「米田十郎」議員である。 「原爆症」で鬼籍に行かれて、二十三年。 終戦七十年目で思いが天に通じた感がある。

 私は、涙が止まらない。地元議員 「米田十郎議員」との、思い出だけではない。 「気象台博物館」建設 「一小学区一館児童館」建設、「一中学校区一館公民館」の建設・・・・・・・。 思い出は尽きない。 その思いを受け継いでくれる若き議員も頑張ってくれている。

 この文章を書いている背中に、BS朝日が、昭和十七年夏の「甲子園」も、中等校選手権大会が開かれたことが、TVで流れてきた。 正式には「甲子園」大会ではないそうだ。 徳島商業が優勝したそうだが、正式の「甲子園」大会には認定されていないそうである。 幻の夏の「甲子園」大会優勝だそうである。

 戦争が、如何に「非人道的」社会を作っていったかを表現してくれた。 今こそマスメディアの出番が来た様に思う。 心して自らの使命を認識してほしい。 たとえ政府の権力の行使があろうとも市民は味方する。

 広島のお城の下に、今一つの原爆遺跡が有ることを一人でも多くの人に知ってほしい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明日は小学校の同窓会≪昭和20年四月から21年三月生まれの同窓生≫

2015-07-23 10:08:07 | 日記・エッセイ・コラム

 先日来、体調不良である。 低気圧が来るとダメなようだ。 ブログの更新もままならないが、明日は万全を期して「同窓会」に参加するつもりである。 クラス仲間は四十二名居たが、現在連絡できるのが三十名だけである。 

 理由は簡単なのだ。 「被爆者」の多いい学年なのである。 産まれたばかりか、体内被曝か、はたまた家族の捜索に、親の背中にくくられて入市したための「被爆」かの差はあっても、何らかの原爆とのかかわりが存在する同級生なのである。 私の知る限り六名は「鬼籍」に行ってしまった。 療養中が四名。 いずれにしても少人数の同窓会になるだろう。

 私も今回が、最後の同窓会になることもありうる。 そんなことを思い出しながら、同級生の思い出を思い起こして昨夜は眠れなかった。 

 八月六日がやってくる。 八月十五日がやってくる。 終戦七十年、こんな年に「安倍総理」の「ど頭」は狂ってしまった様だ。 そんなこんなで、沖縄戦終結の日のことを思い出して、「さとうきび畑」の歌を思い出した。

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする