黒い雨の帯封を見ていて気付いたことがある。 当時定価430円で発売されたのだ。
昭和41年当時、運転免許を持ち、一流の職人の月給が、3万円。 この金額は広島では破額の給料であったはずである。
私が惚れ込んで雇った同じ年の職人さんで、彼は戦争孤児であったが、おばさんに育てられ琴造りの職人をしていたが、時代が琴からギターに変わりつつあった時代で、悩んでいたところをスカウトした。 当時の建設工事は、雨が降れば仕事は休み。 晴れれば残業で取り戻すそんな時代で、彼は何一つ文句も言わず働いた。 私の信用の半分はそうした人材を多く抱えたからである。 やっと始めた仕事が軌道に乗り、余裕が出来たのが、昭和41年であった。 その年の十月「黒い雨」が私の手元に届き、「この数年来、小畠村の・・・・で始まる、330ページの小さな文字のこの本を一晩で読み尽した。
旧制広島二中の学徒動員の生徒が、広瀬橋の上で朝礼中に被爆し、全員が被爆。 指導教師は、「海ゆかば」の歌を全員に歌わして後、我が身を天満川に投じたそうである。場面では、場所が具体的に分かるため、思わず涙が湧き出たのを思い出した。
この被爆した二中の生徒の中には、私の母校の「己斐国民学校」まで逃げてきた生徒が一人だけいた。 他の生徒は、指導教員と運命を共にし、満潮の天満川に身を投げたのである。 たった一人、取り残された子は、伝令として「己斐国民学校」まで二中の生徒が全滅したことを伝えるために、派遣されたのである。しかし私の父の友人の子供は、二中の生徒だが当日麻疹になり休んだために命長らえた。
309ページの、八月十三日の項には次のような一文がある。
看護婦たちの語り合っている雑談でピカドンの正しい名称が分かったそうである。
「ピカドンは、原子爆弾というのが正しいそうだ・・・・・・」 被爆一週間後には、その正体が正確に市民に知れ渡ったことに驚く。 この事は、日本の陸海軍も「原子爆弾」製造にお向け研究をしていたからである。
今私の手元には、「原爆戦災誌」のダウンロドしたCDが存在する。昭和55年、広島市周辺町村に残る原爆に関する資料を体系だてて整理収集されたものである。
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