十勝の活性化を考える会

     
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関寛斎セミナー

2021-11-26 05:00:00 | 投稿

先日、十勝プラザでの第6回関寛斎セミナーを聞いてきた。講師は、作家 合田一道氏で、1934年生まれの87歳。会場には、野尻秀隆陸別町の町長ほか関寛斎顕彰会の会員など60名余りが参加していた。

合田氏は、関寛斎翁の偉大さを強調していたのが印象的であった。関寛斎は、日本で一番寒いと言われる北海道陸別町に、1902年(明治35)に72歳で入植した偉大な医者である。講演が終わってから、「何か質問はありませんか?」と司会者が言うので、次の質問をした。

質問:「元国会議員であった石川知裕氏は、彼のお祖父さんの話によると関寛斎が彼の実家に泊まったと言っていたが、本当でしょうか。」

返答:「関寛斎とは親交があったので、泊まったと思います。」

合田氏は、何冊も本を書いていて、その著日本人の遺書のあとがきに、彼は毎年元旦に遺書を書いていることを明らかにしていた。死に対しては、個人によって様々な考え方があると思うが、遺書は、吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、乃木希典、知里幸恵、宮合田氏は、座賢治、太宰治、円谷幸吉、三島由紀夫、「吉展ちゃん事件」の小原保、永山則夫など、幕末以降の100人に関するものであった。

また、彼の著古文書が伝える北海道の仰天秘話51”には、探検家 松浦武四郎のことも書かれていた。武四郎は「北海道」の名付け親として知られ、北海道の名前の六案を政府に提出した。六案とは、「北加伊道」「日高見道」「海北道」「海島道」「東北道」「千島道」の六つである。このうちの「北加伊道」が採用され、北海道と書き改めて、1869年(明治2)に1186郡の命名と共に公布されたのである。

三重県に住んでいる90歳になる叔母さんからの昔の手紙の住所には、「十勝国」と書かれていたが、叔母さんの時代には、十勝は「十勝国」と言われていたのである。

先住民族のアイヌの人たちは自分たちの国をカイ(加伊)と呼び、お互いに同じ国に生まれた者同士を「カイノー」と呼び合っていた。そのために武四郎は、北海道の「カイ」の名前を候補の中に入れたのである。武四郎は晩年、馬角斎(ばかくさい)のを使っていたが、政府のやり方がばかくさくて仕方なかったのである。

「十勝の活性化を考える会」会員

注) 関寛斎

寛斎は、幕末から明治時代の蘭方医。出会う

文政13年(1830)、上総国(現在の千葉県東金市)東中の農家の子として生まれる。養父の儒家関俊輔に薫陶され、長じて佐倉順天堂に入り、佐藤泰然に蘭医学を学び、26歳の時銚子で開業。豪商濱口梧陵の支援で長崎に遊学、オランダ人医師ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトに最新の医学を学び、銚子を去って徳島藩蜂須賀家の典医となる。

慶応4年(186816徳島藩主・蜂須賀斉裕の死を看取る。

戊辰戦争(慶応4/明治元年 - 明治2年(18681869))には官軍奥羽出張病院長として、敵味方の別なく治療に当る。信ずるところあって徳島に帰り、一町医者として庶民の診療、種痘奉仕などに尽力し、「関大明神」と慕われる。

明治35年(1902)、72歳にして一念発起し、徳島を離れ北海道に渡る。原野だった北海道陸別町の開拓事業に全財産を投入し、広大な関牧場を拓く。のちにこの土地を開放し、自作農創設を志すが果たせず、大正元年(1912)、82歳にして服毒により自らの命を絶つ。

(出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)