1903年(明治36)生まれの”知里幸恵”は、登別市出身のアイヌ女性で、上川第五尋常小学校を卒業し上川第三尋常高等科へ進んだ。さらに、旭川市立女子職業学校に進学したのでかなり優秀であった。つまり、アイヌ語だけでなく日本語も極めて上手であったのである。
19年間という短い生涯ではあったが、その著書『アイヌ神謡集』の出版が、絶滅の危機に追い込まれていたアイヌ文化の復活をもたらしたことで知られている。彼女は東京の金田一京助氏の自宅に4カ月あまり寄宿していたが、重度の心臓病をかかえていた。その著書は、1922年(大正11年)9月18日に完成したが、その日の夜に心臓発作のため死去している。
彼女が書いた『アイヌ神謡集』は、まさに、命と引き換えの作品であったのである。その本は出版直後から大反響で、彼女が死ぬ間際の両親宛ての手紙(絶筆)は、次のとおりである。(一部分かりやすく訂正)
『(前略) 25日に帰る予定でしたが、お医者さんがもう少しといったので、10月10日に立つことに致しました。私のカムイユカラの本もすぐにできるようです。私は奥さんの裁縫を手伝ったり、金田一京助先生のアイヌ語のお相手になったり、ユカラを書いたり、気ままなことをしています。
去る7日、名医の診断を受けました。やっぱり心臓弁狭窄症という病気で、無理を少しすれば生命に関わるし、静かにしていれば長持ちしますって。診断書には結婚不可ということを書いていました。
私は自分の体の弱いことは誰よりも一番よく知っていました。また、この体で結婚する資格のないこともよく知っていました。それでも、私はやはり人間でした。いろいろな空想や理想を胸にえがき、結婚生活に対する憧憬に似たものをもっていました。自分には不可能と信じつつ・・・、それを充分に覚悟していながら、それでも、最後の宣告を受けた時は苦しうございました。
だが、ある大きな使命・・・、それは愛する同胞が、過去、幾千年の間に残しつつ絶えた文芸を書き残すことです。もだえもだえ苦しみ、苦しんだあげく私は、すべての目前の愛欲、小さなものをすべてなげうって、神の前にご両親さまにそむき、すべての人にそむいた罪の深い娘である幸恵は、かくして生まれ変わろうと存じます。
何とぞ、お父さまもお母さまも、過去の幸恵をお許しくださいませ。おひざもとへ帰ります。一生を登別でくらしたいと存じます。 (中略)
いま、私は平和な感謝の気持ちに満たされて、誰でもすべての人を愛したいような気が致します。何とぞご両親さま、おからだを大切にあそばしてくださいませ。
さようなら 幸恵より』
ところで、アイヌ文化とは、アイヌが13世紀ころから現代に至る歴史の中で生み出してきた文化である。現在、アイヌは同化政策の影響もあり、日常生活で表面的に和人と大きく変わらない。アイヌを一番特徴づけているアイヌ語を流ちょうに、しかも日常的に話せる人はいない。もちろん、北海道にはアイヌの精神性を持つ人はたくさんいるが、アイヌ民族はいないのである。
アイヌのアイデンティティーをもつ人がアイヌ語を学び、流暢に話せるようになるというのが、今日的なアイヌ文化振興の成果で、そうしたことに対する評価もしっかりとしていく必要があろう。
しかし、アイヌであることを隠す人達もいる中で、アイヌとしての精神性はその血筋の人々の間で少なからず継承されている。特に、2020年にオープンした国立アイヌ民族博物館“ウポポイ(民族象徴共生空間)により、アイヌ文化が見直されてきている。
ただ、アイヌ文化の伝承者が少なくなり、アイヌ語や伝統工芸などが存立危機に直面しているほか、アイヌの歴史や文化について幅広い理解が進んでいないという基本的な課題も存在しているのが現状である。なお、作家の司馬遼太郎氏に言わせると、日本人は縄文人であるから、エミシ(アイヌ)の血が大なり小なり流れているそうである。
「十勝の活性化を考える会」会員