平田オリザの本が売れているのは知っていた。
今、盛んにコミュニケーション能力という言葉が持て囃され、求められている。
「空気を読む」とか「和を乱さない」とかの日本特有の従来型のコミュニケーション能力から、
異文化理解能力というグローバル・コミュニケーション・スキルが求められるようになってきた。
でも就職活動において企業は、表向きは後者のグローバル世界におけるコミュニケーション能力を求めながら、
実は前者の「上司の意図を察し機敏に行動する」という従来型コミュニケーション能力を求めている。
この矛盾した二つの要求、ダブルバインドに若者たちは苦しんでいる。
それは、そのまま日本社会の抱えた問題でもあるようだ。
まず断っておくと、この本はHow to本や自己啓発書のたぐいではない。
求めるその答えはない。
ただ幾つかの方法論を提示しているだけだ。
それも劇作家である平田オリザらしい演劇的アプローチで。
中学、高校、大学、大学院と教育の現場でコミュニケーション教育に携わってきた平田オリザ自身の感じた
教育現場と社会の実情とのギャップが幾つか浮かび上がってくる。
例えば、「子供たちのコミュニケーション能力が下がってきた」という意見。
これは全く逆で、昔と較べて子供たちのコミュニケーション能力は、むしろ上がっているらしい。
社会の変動に合わせて子供たちもコミュニケーション・スキルを上げてきているからこそ問題が顕在化している。
一昔前まで、無口な子は手に職をつけるというような形で、それなりの適所に収まっていた。
しかし脱工業化社会の現在においては、そういった熟練の技は必要とされなくなった。
残念ながら第三次産業へとシフトを移してきた社会では、彼らの身の置き所が無くなってきている。
そして社会の多様化に合わせてコミュニケーションの範疇も多様化してきた。
それは、そのまま子供たちに求められるコミュニケーション能力も多様化している…やれやれ…
演劇において、極力無駄な動きをなくした役者が上手いかというと、そうではないようだ。
お芝居は、50回100回と繰り返される内に次第に動作が安定してきて無駄な動きがなくなってくる。
それは残念ながら新鮮味が欠けるという方向へ行ってしまうようだ。
稀にそういった演技の摩耗から免れる役者がいる。世間は、それを天才と呼ぶ(笑)
人型ロボットの開発においても、人間らしい動作とはその動きの中にノイズを入れることらしい。
認知心理学ではマイクロスリップという、ランダムな要素。
実は、これがコミュニケーション能力において重要な要素らしい。
人生には無駄なことがあった方がいいですよ…(笑)
会話と対話の違いをご存知だろうか?
日本語(国語辞典)では曖昧な部分があるが英語においては全く異なる概念らしい。
ケンブリッジ英英辞典を参照に平田オリザは解釈する。
「会話」、価値観や生活習慣なども近い親しい者同士のおしゃべり。
「対話」、あまり親しくない人同士の価値観や情報の交換。
あるいは親しい人同士でも価値観が異なるときに起こるその摺り合わせなど。
これは、そのまま日本的な従来型コミュニケーションと異文化理解能力というグローバルコミュニケーションに置き換えられる。
私たちは、どうも対話が苦手だ。
(それは日本の特異な民主主義にも繋がらないだろうか?)
例えば旅先の車中で、知らない人と出会ったとき、相手と挨拶をするか?
とういうアンケートに、最も多く(ほぼ100%)挨拶すると答えたのがアルランド人だった。
欧米諸国や大陸で暮らしてきた人たちは全体に数値が高い。
それは常に異文化と接触してきたので、とりあえず害意がないということを示す必要があるため。
それに引換え日本人は10%以下。
(平田オリザは決して日本的な和のコミュニケーションを否定しているわけではない。両方の利点を生かしたいようだ)
さて、そうすれば対話のきっかけや流れは、どうするのか?
ここに先程の無駄(ランダムな要素)が入ってくる。
「冗長率」と名付けられた、ひとつの文章に、どれくらい意味伝達とは関係ない無駄な言葉が含めているかという数値。
親しい者同士のおしゃべり(会話)には、無駄がなくなり冗長率が下がる。
(典型的な例は長年連れ添った夫婦)
異なる価値観の摺り合わせ、腹の中の探り合いである対話では、当たり障りのない話から入ってゆくので冗長率が高くなる。
実は演劇はその進行が対話によって成り立っている。
シチュエーションを説明するのに、見知らぬ第三者を登場させることによって、
親しい人同士では分りきった事柄を、その第三者に説明するという形で、その人間関係や背景までセリフで語ってしまう。
こういった演劇的方法をコミニュケーション教育に使っているのが、
かのフィンランド・メソッドで有名な北欧の教育先進国フィンランドだ。
それは多様な文化やそれぞれの個性の違いを踏まえた上での「合意形成能力」へと至る。
「みんな違って、みんないい」という和の金子みすずとは違って、
「みんな違って、たいへんだ」という多文化共生へと向かうようだ。
成長型の社会では、ほぼ単一の文化、ほぼ単一の言語を有する日本民族は強い力を発揮した。
しかし成熟型(成長の止まった)の社会では、多様性こそ力になる。
少なくとも、最新の生物学の研究成果が示すように、多様性こそ持続可能な社会を約束する。
だとすれば、これから国際社会に生きていかなければならない子供たちには、
「最初はちょっと大変だけど」の、その「大変さ」を克服する力をつけてゆこう。
「本当の自分をみつけなさい」という自分探しは、結局大人たちの幻想なのだろう。
村上陽一郎は人間を、剥いても剥いても実態のみえないタマネギに喩える。
私たちは、その都度、様々な社会における自分の役割やその時間を生きてゆくしかない。
演劇におけるペルソナ(仮面)は、personの語源となった「人格」でもあるのだ。
だから、いい子を演じるのを楽しむ、多文化共生のダブルバインドをしたたかに生き抜く子供たちを育ててゆこう。
そう平田オリザは巻末に結ぶ。
わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か (講談社現代新書) | |
平田オリザ | |
講談社 |
ついにここまで来たか…という感慨を覚える。
もうアメリカの外圧や国際世論に訴えるしかないのだろう(哀)
韓国に非難されるのは、まだ理解できる。
でも、周辺諸国や周辺の異民族を侵略し続ける中国の覇権主義には、どうしても過去の日本の侵略行為を差し引いても肯けない。
この国の「中華は世界の中心である」という思想が、よく理解できない。
ちょっと面白い記事をみつけました。
この人の記述によると「中華」は「ユダヤ教」と一緒なのか?
http://digi-log.blogspot.jp/2008/03/blog-post_17.html
それは、「コンテクスト(文脈)を読む」ということです。
子供や口べたな人は、上手く相手に意思を伝えることができません。
彼らの言葉の中から、伝えたい意味を汲み取る作業が、コミュニケーション能力にとって必須だというのです。
これは「空気を読む」という作業とは、まったく似て非なるものだと思います。
平田オリザは、こう記します。
社会的弱者と言語的弱者は、ほぼ等しい。
私は自分が担当する学生たちには、論理的に喋る能力を身につけるよりも、
論理的に喋れない立場の人々の気持ちを汲み取れる人になってもらいたいと願っている。
コンテクストの意味を以下に張っておきます。
http://www.h7.dion.ne.jp/~p-o-v/yogo/contx.htm
愛媛県在住の重藤と申します。
今、オーストリア大使に送る海外向け四国紹介資料の作成をボランティアでしています。
愛媛新聞で大使が愛媛県出身の方を知り、手紙を書いたのキッカケでした。
大使が「四国霊場をウィンでPRしたい」という記事を読んで何かお手伝いが出来ないかと思いました。
海外の四国を知らない人々に四国という島の良さを知ってもらい、四国にある素晴らしい霊場という歴史を導入部分で簡単ながらも誤解のない様に伝えたいと思っています。
ランスケさんの記事、拝見させて頂きました。
お遍路さんの記事だけでなく、他のものも深く読みこんでしまいました。
今回のこの本の内容と重なります。
文脈から言葉に出来ない想いの様なものが伝わってきます。
四国霊場は、いろんな想いを持って巡礼されていると思います。
私はまだお接待をさせてもらう立場でしかありませんが、それでも四国の人間として誇りを持てます。
ブログを拝見させてもらいながら、簡単にお願いはできない…しかし、この様な人だからこそ写真に不思議な力があるという葛藤で暫くメッセージを書くことを悩んでおりました。
shigeto@oceansjapan.com
私のアドレスです。可能であればご連絡下さい。
宜しくお願い致します。
早速、そちらのアドレスにメールを送りました。
私の写真で宜しければ、どうぞ使ってください。
こういう未知の人から寄せられる思わぬメッセージは、大歓迎。
ずっと書き続けてきたブログの文脈(コンテクスト)を読んでいただけたのかな?(苦笑)