森迷宮
雨上がりの森を目指した。
見上げる峠越えの山並みは、未だ雨雲が垂れていい感じ。
ところが西の空から、みるみる青空がその領域を広げてゆく。
つづら折れの杉木立から、幾筋もの斜光が射し始める。
「まだ、早過ぎる」
天気予報では天候の回復は、正午過ぎのはず…
峠越えのトンネルを抜けると、燦々と明るい陽射しが射す眩い世界が飛び込んでくる。
う~ん、またしても思惑は外れた。
境界の風景が好きだ。
ハレとケとケガレが交差するcross road の風景が。
そんな境界に立ったなら、悪魔にだって魂を売り渡してしまう。
音楽のために魂を売ったロバート・ジョンソンのように…
魂の在り処(ありか)があやふやな、黄昏時(誰そ彼)も逢魔が時(大禍時)も、境界の時間帯。
最近読んで本の中に、こんな一節があった。
≫自我というのは内側のことじゃない。
外と内の境界面みたいな皮膜みたなものが自我じゃないかと思う。
それの外も自我じゃないし、内も自我じゃない。
その両方が入り組んでいるところが自我じゃないだろうか≪
森の入口は、冥府の門だった。
この境界を越えて、私は異界に足を踏み入れる(笑)
森迷宮へようこそ。
森を彷徨っていると、とうに陽は西に傾き翳ってきた。
あれほど燦々と輝いていた天蓋の葉叢も、森をすっぽり覆う木下闇(こしたやみ)に、あえかな光が射すばかり。
天まで突く森の樹冠を一等抜けた大樹を、締めつけの蔓が巻き、息絶えさせていた。
その瘤だらけの幹を、そっと撫でた。
奔放に枝を延ばした一本の杉。
一切去勢さることもなく野放図な成長の軌跡は、まるで千手観音像の如し(笑)
岩井俊二の「ヴァンパイア」を観た。
オールカナダロケで撮られた、とても静謐なラブストーリー。
相変わらず、あの映像センスとセンシティヴな音楽に魅了される。
高校の生物教師であるヴァンパイアが、教え子の自殺未遂に立ち会い、こう喋る。
「人は60兆の細胞を身体の内に宿した宿主としての入れ物だ。
あなたは60兆の生命の集合体としての自分を意識しなければならない。」
身体の内に膨大な他者を抱えることを意識するのは良いことだろう。
これも最近読んだ本の中の一節だ。
≫生きるのがしんどいときは、意外と利他行為をしてみるといい。
人間は自分のためだけに生きるのは、かなりしんどい。
他者のために行為することは、人間の根源的な喜びに繋がっている≪
話をヴァンパイアに戻すと、
ヴァンパイアは、この教え子(また自殺未遂を)のために病院で輸血する。
そして最後に包囲された警察からの逃亡のはてに、貧血のため昏倒する…
皮肉な結末だ。
森の中で、山蛭(やまひる)に吸い付かれた跡を、
「悪い毒が身体に廻ってしまう」とヴァンパイアと同行の女性が、
お互いの血を啜り会うシーンがある。
なんともエロチックで美しい…
本来、ヴァンパイア映画とはエロチックなのです(笑)
岩井俊二が、最も撮りたかったというヴァンパイア映画。
「孤独な魂が寄り添い会う」
というキャッチ・コピーが、そのまま体現する美しい映画だった。
「リリイ・シュシュのすべて」と共に、痛々しい孤独な魂の物語。
なぜ、この話が被ってくるのか?っていうと、
成り行きです…御容赦を。
先程まで岩井俊二の「Love Letter」を観ていました。
お隣の韓国や中国で根強い人気を誇る映画です。
ずっと観てみたいと思っていた映画でした。
やっと岩井俊二の映画が一気にブルーレイ化されることで観ることが叶いました。
もうオープニング・タイトルの雪景色の小樽の街を俯瞰するシーンから惹き込まれました。
こんな美しいオープニング・タイトルを見たことがない。
人を想うことの切なさ、かけがえのない人を喪失することの痛み…
韓国や中国という近しい文化圏の人々は、長い歴史の中で共通の分母を培ってきたはずです。
それを時の為政者たちの思惑で近親憎悪のように憎しみ合うのは情けない。
本質的な怒りの持って行き先は、まったく見当違いだろう?と言いたい。
でも新聞やテレビの報道を観ていても、決してそこへは至らない。
日本を取り巻く国際情勢が、急激に動いています。
しばらくこの動きから目が離せません。
もしかしたら、インターネットから意識を変える波が波及するのでしょうか?
今回の森の話は、最近読んだ「日本霊性論」と岩井俊二の映画がゴッチャになっています。
宗教には教団の宗教と民間宗教があります。
民間宗教とは、占いや拝み屋さん祈祷師、口寄せを含めて宗教以前の霊性の部分です。
これが有機的に機能しているようです。
相手を肯定する(免罪符を与える)ことで、その内なる穢れ(邪悪なもの)を祓ってくれる。
そこには通過儀礼としての儀式が必要となります。
これが救いを求める一部の人には、実際に機能するのです。
それは大衆信仰運動を起こして底辺の人々を救った鎌倉仏教の法然や親鸞の手法であり、
自殺サイトを運営して痛みを訴える女たちを肯定し救済するヴァンパイアの手法でもある。
そしてヴァンパイアは多様な命の共生を肯定する。
もう一本、岩井俊二の映画「picnic 」は、境界である塀の上だけを移動する物語でした。
境界の風景が、ずっと気になっています。
森や雪山は、ある種のハレやケガレを纏っている場所なのかもしれない。
そして日常であるケとの境界面をウロウロしているのが私なのでしょう…(汗)