新刊の発売が、ここまで待望される作家は、唯一無二、この人だけだろう。
もう一人、アニメの宮崎駿が大人から子供まで受け入れられる日向(ひなた)の輝きを放つのに対して、
村上春樹が近年描き込んでいるのは、ダークサイトな心の闇の世界だ。
初版で50万部などという破格な数字が、なぜ派生するのか?理解に苦しむ。
また村上春樹以上にコンスタントな売り上げを誇るベストセラー作家、東野圭吾が、同様に人の心の闇を描きながらも、
謎解きを終えた後に、琴線を震わすようなカタルシスをもたらすのに対して
村上春樹は、思わせぶりに不安を煽る謎を提示し、迷宮世界を巡るように読者を引き摺り回しながら、
なんの解決も見い出せないまま、宙ぶらりんで放り出してしまう。
散々、地を這うような思いをしながら、カタルシスもなくページを閉じるのでは読者もたまらない。
それでも新刊の発売が待ち遠しい依存症のような危ない読者がたくさんいる。
私も30年来の完全な依存症(苦笑)
さて今回の病理は、多感な思春期において完璧な正五角形ともいえる信頼関係を築いてしまった
男三人と女二人(三位一体のように奇数の関係であるところが肝心。これが7人だと多過ぎる)
この完璧な調和がある日、一方的に破棄される。
何の理由も告げられないまま。
「まるで航行している船のデッキから夜の海に、突然一人で放り出されたような気分だった」
と主人公である多崎つくるは語る。
「とにかく船は進み続け、僕は暗く冷たい水の中からデッキの明かりがどんどん遠ざかっていくのを眺めている。
…中略… そのときの恐怖心を僕は今でも持ち続けている。
自分の存在が出し抜けに否定され、身に覚えもないまま一人で夜の海に放り出されることに対する怯えだよ」
主人公の周りから何も告げないまま親しい人が去ってゆくのは、
村上春樹の世界では、ほとんど当たり前のように繰り返されてきた光景なのだが、
本来は痛切な体験であるべき場所から目を逸らし、彼らはクールな都市生活者で在り続けてきた。
でも、繰り返し描かれてきたこの痛切な感情と村上春樹は初めて向かい会う気になったようだ。
「記憶を隠すことはできても、歴史を変えることはできない」
(もう一つ、この言葉から連想するのは歴史問題を踏まえた村上春樹からのメッセージでもあるだろう)
主人公は何度もこの言葉をつぶやく。
主人公、多崎つくるを一方的に切ったアカ、アオ、シロ、クロの名前に色を持った4人の友人たちを
唯一名前に色を持たない多崎つくるが16年後に訪ねて歩く巡礼の年というのが、
そのまま不可思議な本の題名に繋がる。
そして本書の通奏低音となって流れる音楽は、フランツ・リストの「巡礼の年」より「ル・マル・デュ・ペイ」
またもう一人の名前に色を持つ大学時代の年下の友人、灰田も同様に何も告げずに去ってゆく。
この灰田の父の回想という形で語られる九州山間部の温泉宿の「死へのトークン」の話も比喩に満ちて秀逸。
ここでは緑川というトリックスターを通じてセロニアス・モンクの「ラウンド・ミッドナイト」が。
そして帯にも使われている「良いニュースと悪いニュース」は、もちろんサム・クックの名曲。
でも、やっぱりこの物語は、恋人の沙羅(さて彼女は最後まで苗字を明かさないが(訂正、木元沙羅でした)、色がついているのだろうか?)との関係を含めて、
親しい人との関係が突然、何の前触れもなく切断されたときの圧倒的な孤独そして喪失感と、どう向き合うかということだと思う。
(もちろん3・11や虐めも視野に入れ、この世界では日常的に、このような理不尽な痛みが出来(しゅったい)する)
残念ながら、それに対する答えはないのだ。
私たちは過去という時間に引き摺られながら、常に現在という時間を生き続けなければならない。
この物語の最終章、長い主人公の逡巡の果てに、
(新宿駅中央線ホームの最終列車の尾灯を見送るシーンは痛切だ)
「すべてが時の流れに消えてしまったわけじゃないんだ」
「僕らは、あのころ何かを強く信じていたし、何かを強く信じていることのできる自分を持っていた。
そんな思いがそのままどこかへ虚しく消えてしまうことはない」
と呟かせるじゃないか…
色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 | |
村上 春樹 | |
文藝春秋 |
「村上春樹が、なぜこんなに売れるのか?どこがそんなに読む人を惹きつけるのか?分からない」という疑問を投げかけられました。
私は、そのとき上手くそれに答えることが出来なかった。
あれから時間をおいて自分なりに頭を巡らせてみました。
そして私なりの結論は、こうです…
彼の物語に登場する主人公は、人付き合いは苦手だけど、物事に対して誠実にきちんと対応します。
例えば短編集「中国ゆきのスローボート」に収録された「午後の最後の芝生」のように、
夏休み中を過ごした芝刈りのアルバイトを主人公は、とても丁寧にきちんと仕事を仕上げてゆきます。
その詳細な仕事の描写は、読んでいてとても気持ちのいい体験なのです。
物事を順序立てて丁寧に仕上げてゆく過程は、本当はとても気持ちのいいものなのです。
それを村上春樹は、シャツのアイロンかけやパスタを茹で上げる作業の中で読者に提供します(笑)
毎回このような描写をよく理解されないユーモアを交えて。
普段の生活の中では、いつも誠実にキチンと対応することがなかなか出来ません。
でも清潔にキチンと物事に取り組むという作業は、本当は気持ちのいいもの何だよ…
ってことを気づかせてくれるのが私にとっての村上春樹を読む快感だと思います。
如何でしょうか?
それと今日行われた村上春樹公開インタビューの記事を張っておきます。
http://www.47news.jp/47topics/e/241102.php
主人公をそこへ導く恋人、沙羅。
この名前の意味を辞書で調べてみると、
「日本語においては夏椿を意味する」とあります。
この花の色はシロなのです。
痛切なヒロインであるシロと同じ色です。
上記、文章側頭部に電気が走り鳥肌が立ちました。
16年の意味は、それしかありません。
阪神大震災と地下鉄サリン事件のあった1995年から16年が経過して、
2011年に東日本大震災による津波と原発事故が起こった。
村上春樹は95年以前は、個人的な体験に終始する作家でした。
それがあの年から変わりました。
人の意識を大きく変える天災と人災を相次いで経験してしまうと。
それが分かると、この物語の意味は、大きく変わってきます。
そのことから、もう一点思いが至りました。
主人公をそこへ導く恋人、沙羅。
この名前の意味を辞書で調べてみると、
「日本語においては夏椿を意味する」とあります。
この花の色はシロなのです。
痛切なヒロインであるシロと同じ色です。
これらのキーワードから、また物語の奥行きが深まってきます。
改めて、もう一度読み直してみます。
ありがとう。
失われた16年は、1995年阪神・淡路大震災
から2,011年東日本大震災をさすのですか?
「僕らは、あのころ何かを強く信じていたし、何かを強く信じていることのできる自分を持っていた。
そんな思いがそのままどこかへ虚しく消えてしまうことはない」
と呟かせるじゃないか…
村上春樹は、日本・日本人の再生をテーマにしているのですか?
今朝修正しました。失礼しました。
村上春樹の作品では近年、かならず主題となる音楽が登場します。
やっぱり、その音楽を聴かないことには納まりが悪いですよね(笑)
それから佐村河内守の「交響曲第一番HIROSHIMA」の演奏が、Eテレで4/27(土曜)15:00~放送されます。
東京初演となる2月の大友直人指揮、日本フィルハーモニー交響楽団の演奏です。
こちらも必見。