思いつくまま感じるまま。

身辺雑記です。
何でもありの記録
HN天道(てんとう)

蟻とキリギリス

2006年04月25日 | Weblog
アクセクと汗を流して働く蟻をあざけるように見て、キリギリスは毎日歌って暮らしていた。やがて寒い冬が来て、蟻さんは働いて蓄えた食べ物で豊かに生き延びてキリギリスはのたれ死にした。
そんな話だったかな、いい加減な記憶。

私、自分の日程表をつけています。
たちまち1ヶ月は過ぎてしまいますが、去年の7月からの日程表が残っています。
予定表ですから大した記事は残りません、あらかじめ時間が決まっていることが予定表に入ります。
主にサークルの日程です。
社交ダンス、英会話、演劇練習日、歯医者の予定日、古今集講座の日程、旅行の日程、カラオケ大会の日程、そんなもので埋まっています。
時間に制約されない日常は、カラオケ喫茶に行ってるか、飲み屋に行ってるか、などです。
新聞を読んだりテレビを見ていたりすることは日程には入りませんがかなり多くの時間を費やしています。
パソコンで遊んでいる時間も結構長い。
不謹慎なポルノの動画もこっそり見れるしな、ククッ。
今はいろんな人のブログを読むのが楽しい、その分読書の時間は減ってしまった。
覚えたい歌を聴いたりギターでポロンポロンと音程を確認したりそんな時間も長い。

これって蟻とキリギリスの話に喩えれば、どう考えてもキリギリスの生き方だ。
のたれ死にするかな?。


ひとり考える

2006年04月25日 | Weblog
拙い思い、誰も聞いてくれそうに無い人生への思い。

人生の最終到着駅は「死」である、という事実は人生の儚さそのものである。
どのように生きようと公平に訪れる。
だから、この人生を精一杯生きようという人もいるし、生きている一瞬一瞬が大事だとも言えないことはない。
しかし、どう生きようとその個人の最後には死が待っていて全てが無に還る。
肉体もそうだし魂も同じことだ。
別の見方をすれば、人類生命はいろいろな形で連綿と受け継がれ生き続ける。他の生命体と同じことだ。中には絶滅種となって地上から姿を消すものもあるが。
地上の生命という見方で見れば、絶滅種といえども何らかの形でその生命が他の種によって受け継がれていく。

無常観とは、やがては全て無に帰するという感情かもしれない。
何をやったところで無意味だし、何をやろうとたかが知れている、あるいは何をしようと一瞬の炎に過ぎない、更に一瞬の命ならせめて自由に羽ばたいてみようと思いに通じないことも無い。

生きる苦しみから逃れるために自ら死を選択する人もいる。
本当に経済的に追い詰められて死を選択する人も、自らの心情に従って死を選ぶ人も、生きていく意味がないと考える点では似ている。

私はどんなことがあっても自ら死を選ぶことはなさそうだ。
老いて死が迫っても「もっと生きていたい」と思うような気がする。
大したことは無いつまらない人生かも知れないが、少しでも長く生きたいと思う。
死が公平に訪れるものであるなら、立派な人生とか卑小な人生とかの区別はありえないし、勝ち組も負け組みも意味を持たない。
どのように生きようと大した意味を持たない。

ただ倫理観には縛られて生きていくように思う。
 人を殺してはいけない
 人を傷つけてはいけない
 人に迷惑を掛けてはいけない
人間は社会的動物、人類が生き延びる知恵として集合体として社会を築いて生きてきたその人類の知恵を生まれてこの方自然に親からあるいは所属する社会から教え込まれてきた。
自分の子供にも生き方を通して引き継いでいく。

そんな無意味な人生ならば、仲良く楽しく生きた方が良いに決まっている。
というよりも苦しいことも楽しんで生きればよいではないかと思う。

朝は一瞬雨だったのに、今は春の陽光が明るく感じられる。
人生は天気と同じ季節と同じ、つらいこともあるが楽しいこともある。
だから生きていける。