思いつくまま感じるまま。

身辺雑記です。
何でもありの記録
HN天道(てんとう)

強迫観念

2007年11月11日 | Weblog
妻が夕方帰ってきた。
私の顔を見て
「その訴えるような目つきをやめてっ、言われんでも夕飯すぐ作るわよ」
という。
こちらは全然そんなつもりも思いさえしてないのに、なんちゅう憎まれ口だと思う。
とはいえ、飯の時間なのに遅いなと一瞬思ったことが顔に残っているのだろうか。

亭主の顔を見ると「はやく飯作れ」の顔に見えるらしい。
そりゃそうだよな、結婚して何十年毎日毎日手間ひまかけて食事を作ってきて亭主は「おいしい」の一言も無くあっという間に平らげておわり。

こいつがいなけりゃ食事時間も食事方法ももっと自由に設定できるのに、こいつのお陰で毎日決まった時間に食事を作らされる。
特に料理が好きでもないうちの女房はそう思うだろうな。

「俺の食事はどうなる?」
と亭主の顔に書いてあるような強迫観念に結びついているのだろう。
夢にまで見たりして
「俺の食事~っ!」といって亭主が追いかけてくる夢。
ひひひ。

哲学とは

2007年11月11日 | Weblog
世界観、人生観、私は何者であるか、人間はいかなる存在か、人はいかに生きるべきか、そんなことを突き詰めて考えるが哲学だろうか。
人間は社会的動物と言われるから、他人とのかかわり無くしては生きられない。
つまるところ人といかに関わっていくべきか、というのが哲学かもしれない。

そんなことを毎日考えているのが哲学者、そして考え方の違う哲学者が掃いて棄てるほどいる。
ある日に、自分にぴたりと迫ってくる哲学に出会えばその日から人生観とか生き方が変わってしまうこともあるという。

従って、これが絶対的な真理だという哲学は無いように思う。
100人いれば百人百様というか違う哲学が存在するように思う。

こう考えてみると私達は全員哲学者であるかもしれない。

金持ちには金持ちの哲学が、貧乏人は貧乏人の哲学が。
美人には美人の哲学が、ブスにもブスの哲学が。
負け犬には負け犬の哲学が。

若者には若者の哲学が、老人にも老人の哲学が。
宗教も哲学に似ている、似て非なるものとも言われるが、キリスト教・イスラム教・仏教・その他多くの宗教。
その宗教を信奉する人にとってはまさしく哲学と考えるだろう。

マルクス主義哲学というのもあった。
女房にも亭主にもそれぞれの哲学がある。

国家の形成にも哲学があると思う。
民族の成り立ち、生活様式、文化の伝統、目指す理想の人間社会。

哲学とはそのようなものとは無縁な真理の探究の学問だという人もいるかもしれない。
そんな難しい話は結構です、私は今日明日を生きていくのに精一杯なのです、という人も。
そこにも小さい意味かもしれないが哲学がある。

多くの人は高邁な哲学に触れることも無く一生を終わる。
哲学とははそんなものかもしれない。