地震の衝撃による地盤沈下は宮古市一帯でもおきている。その傷跡は港湾岸壁で大きい。海面上昇現象だけでなく地盤沈下に伴う岸壁の構造上のゆがみ、地震による液状化現象は地表だけでなく岸壁地下に例えば大きな空洞を作っている。津波による衝撃は一層そのキズを大きくした。これまでも日常的な大潮・高潮の衝撃のほか、経年による鉄筋のさび、コンクリートの劣化が進んできた。
地盤沈下した鍬ヶ崎港の修復工事は単なる修繕工事、部分補修で間に合うのか?
(2012.6.1)
たまたま素通りした岸壁ではその工事中であった。ビットとも言う船をロープでつなぐ繋船柱の基礎はこんな風になっているようだ。細い鉄骨を何本かコンクリートに埋め込んでいる。爆弾低気圧で漁船がもっていかれたときこのビットで、又ビット毎スパンのコンクリートのこの基礎工事で大丈夫だろうか? 表面的にはならしているが岸壁旧エプロンと水平コンクリートの流し込みはうまく接っしているのだろうか? そもそもかさ上げした海側の壁面はどのようにハツり鉄骨を回して旧壁面と接合しているのか?
こうしてメモをとってみると鍬ヶ崎岸壁の地盤沈下、陥没、亀裂はまだま
だ進むように思えてくる。旧魚市場(=販売所)の撤去によって地盤が浮い
てくる事も考えられる。いずれにしてもものは建たないように思う。
[普代村故和村幸得元村長] これだ!と思い、県の係官に「太田名部漁港の防波堤はきゃしゃである。枕崎の防波堤と比べてみてください」と語気を強めて言ったら、詭弁に等しい回答があった。「国費の無駄遣いをしないように、十の波力に対し十一の力をもった防波堤を作ればよいので」と…。当時はそのような考え方がまかり通っていたのである。(普代村広報誌より)
昔も今も県の官僚の考えは変わらない。問題は地元の首長のやる気に負うところが大きい。鍬ヶ崎地区の岸壁は明治、大正、昭和、平成と発展してきた。発展と言えば聞こえはいいがその都度都度の間に合わせ工事の連続で、埋め立てや拡張の記録さえあやふやで構造図の保管なども無いに等しいという。だからトライ&エラーの応急手当工事は仕方のないところもあるが、未来に橋渡しする3.11の港湾復興の局面で、本格的な地質調査をふくめ今の工事はどのみちやり直すことになる。だからといって調査も図面もなくていいとはならない。統一した指揮が執れている必要がある。縦割り組織でお互い「(他の官庁他の部局で)図面は保管されてあるはずだ」という無責任体質は簡単には直らない。資材不足や入札ミスなどのトラブルもしばらく続くであろう。しかし情報公開を休むわけにはいかない。悪い所を修正しながら情報公開を徹底して市民のコンセンサスをとるべきである。
今の宮古市(県、国)のやり方とは真逆になるが、徹底したオープン化、徹底した情報公開によって、だんだんと市民の声も聞こえてきて、宮古市の港湾工事における技術的な疑惑も徐々に解消されていく。