田老の3.11はもうすぐ一周年を迎える。それまでにしっかり3.11の現実を確認して、リメンバー田老3.11を叫び続ける準備をしなければならない。防潮堤の崩壊、また凶暴な防潮堤越流は歴史的事実となった。何代にもわたってこの事実は忘れてはならないからである。
●今次大津波で田老地区においては229人の犠牲者を数えた。(それは死者と行方不明者の合計数であるが、昨年、まだ定まっていない9月頃宮古市役所に問い合わせて聞き取ったものである。以下同じ)。津波被災人口約3000人(地区人口4436人)であった。被災者13人に1人の割合で人が亡くなったという事はどういう事なのか?と問う。たしかに想定をこえた大津波だったという事は言えるであろう。しかし過去の実績からいって、また過去の津波の経験者の多くがいまだ存命、伝承も教育も市民に染み渡っているはずの、いわば津波民族の最右翼の田老市民が、こんな割合で犠牲者にみまわれるとは誰も思い及ばない事であった。
●それほど地勢的に田老地区が津波の襲撃を受けやすい特殊な地形であったのか?
●また世界一といわれた二重の防潮堤の存在が市民の間にこれほどまでの安心感を染みこませていたのか?
●地区は宮古市と合併する前からこの防潮堤と町民意識の高さから「防災の町」を宣言してきた、かえって油断のほころびをひろげてきたと言えるのか?
●なくなった人々と生き延びた人々との和解は成し遂げられたのか?
国が、岩手県が、市が、復興のための諸策や予算を処方し始めているが、ちょっと待っていただきたい、ここに書いた犠牲者の数や、伝承や、地形や、防潮堤や、市民の防災意識や、死者への思いや、は本当に定まったのか? 解決したのか? 地区住民のコンセンサスが本当にとれたのか? 3.11の一周年は単なる形式上の追悼式典ではなく、これらの問題を亡くなった人々とともに考えるかけがえのない時間にしなければならない。県の防災シミュレーションはもう誰も信じていない。防潮堤の高さだけの問題ではない事は誰もが感じている。生と死の問題。もしこの犠牲者一人一人のなかに防潮堤に起因する油断や安心があったのなら、その人たちは防潮堤を壊してくれと泣いているに違いないのだ。温度差の事がよくいわれるが、被災者や犠牲者の事はよその誰にもわからない。せめて生き延びた被災当事者たちが、よくよく考え、団結して結論を出して行かなければならないのだ。
以下の鍬ヶ崎との比較はその参考になると思われる──
鍬ヶ崎地区の場合 鍬ヶ崎地区においてはの死者・行方不明者は65人であった。被災人口3200人(地区人口5400人)。被災者50人にほぼ1人の割合で亡くなった計算になる。単純比較の問題として、鍬ヶ崎地区は田老地区に比べて犠牲者が大幅に少ない。
その差異はなぜであろうか? 私は大きく二つあると思う。一つは地勢(地形)の問題。田老湾は外洋に面していて津波の襲撃を直接的に強く受ける地勢のように思われる。比較して、鍬ヶ崎港は昔から風待ちの良港といわれて、港の北側は浄土ケ浜からの続きで屏風岩のような舘ヶ崎や龍神崎で外洋と隔てられている。東側は月山を真ん中に見た重茂半島に面している。最小限のことを田老との比較でいえば、鍬ヶ崎は、三陸沖外洋とは自然地形に守られたふところの中にある。端的に、鍬ヶ崎市街地からは水平線が見えない土地柄なのである。したがって津波のあたりは(今次津波ではそれを少ないとか弱いとか曲がってとかは軽々にはいえないが…)田老湾とは大きく異なるのではないか?とおもわれる。
二つ目は防潮堤の問題。3.11時点では防潮堤は鍬ヶ崎には存在していなかった。何年も前から計画は持ち上がっていたが現地住民の了解をとれないでいた。わたしはそれが鍬ヶ崎の、したがって海の見識だと思っているが、かれらは人間は自然に勝てないと考えていて、津波に対してはただただ避難する事だけを考えていたのではなかったか。田老地区には伝説的な防潮堤があり、住民に油断と安心が浸透していたと思われるのに対して、鍬ヶ崎の場合は頼るものはなく、第一感で、一斉に近くの山へ避難をしたせいではなかろうか?
鍬ヶ崎の場合は防潮堤がない事が幸いした。また海側は自然の要塞に囲まれ、避難に適した山側は市街地に迫って近く、被災地の中では最良の特異地形の一つに数えられている。これらの事を一層正しく認識し、他の要素も鍬ヶ崎から、また田老から、お互いに出し合って広く広く検証する事が大事である。
田老地区の復興の基本
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