夢!進行形。港が見える丘ガーデン

ミントさんの庭に憧れて、少しでもブルーガーデンに近づけるように日々奮闘する田舎のおばちゃんの日記です。

板谷波山記念館

2024年10月03日 16時09分27秒 | 美術鑑賞



テニス観戦3日目は
ナイトセッションが始まる6時まで
時間があるので、以前から考えていた茨城県の
板谷波山記念館へ行くことに・・


朝食はホテルに隣接するサンマルクカフェ
サンマルクホットサンドと珈琲のセットで700円
にしましたよ。バゲットパンがなかなか美味しかった。
来年来た時も、大戸屋とサンマルクカフェの
朝食で決まりだね。

さあ腹ごしらえも済ましていざ
京浜東北線で東京駅まで・・・と
電車に乗り込んだのはいいのですが
優先席の3席を独占して寝ているバカ者若者がいる。

しゃーないなと思いながら
向かいの空いている席に座る。

若者は仰向けに寝ている。
動かない。・・・・もしかして死んでいる?
お腹のあたりをジッと見ると微かに上下しているので
呼吸はしているようだ。
東京駅まで退屈だから、この若者を観察していた。
大きなヘッドホンは頭からずれている。
足は折りたたんで窮屈そうだ。

そろそろ東京駅に着くころに
バカ者の口角が少し上がった・・・・なにー
こいつ夢を見ているな!
それも楽しい・・・・彼女とデートしている?
そのうちに声もあげんばかりに笑い顔になった。
これで目が覚めるか・・・・
ジッと見つめていると、目を開けた。
そして熱い侮蔑の視線のばあさんと目が合った。
その視線をやり過ごして、起きて
座席に座り直したバカ者でした。

はい!それだけのことですが
お上りさんのばあさんは
東京駅まで退屈せずに済みました。
ありがとう!




これから東北新幹線なすのに40分ばかり乗って


小山駅で降りて、在来線のJR水戸線に乗り換えて
20分ほどの下館駅まで行きます。



あいにくのお天気ですが、
歩くには丁度の曇り空です。



駅前から続くメイン道路には
人影も少なく、東京での人混みに揉まれてきた
ばあさんは拍子抜けしてしまいましたよ。

このメインストリートを10分ほど歩くと
お目当ての板谷波山記念館はありますが

歩道の所々に


青木繫 作 わだつみいろこ宮


青木 繫 作 日本武尊



青木 繫

こんな筑西市の「まちなか美術館」がありました。
セラミックアート(陶板)で出来ています。



あら!ここは?
しもだて美術館です。
青木 繫の作品があるのかな?
帰りに寄ってみましたが、展示作品準備中で
休館していました。


交差点の角地にありました。






左側の受付の扉を開けると
女性がいて210円(安い!)の入場料を支払って
中に入りましたが、静かです。
誰もいないようです。


板谷波山の生家です。
この前の方に小さな展示館がありました。



入りましたが
エッこれだけ?
























波山は妻を買い物に行かせて
留守の間に失敗作を全て割ってしまったという。
だから、生活は決して豊だったとは言えず


そんな中で

ここからはモニター画面から頂きました。


数々の銘品を生み出していく。









      板谷波山 略歴

     明治5年 真壁郡下館町(現、筑西市田町)に生まれる。

     明治22年 東京美術学校、彫刻科に入学。
           岡倉天心、高村光雲に学ぶ。

     明治36年 東京田端に住居と工房を建てる。
           故郷の筑波山からとって、波山と号す。

     昭和5年 フランス大統領よりアカデミー勲章。

     昭和28年 陶芸家として初の文化勲章受賞。



パンフレットには

「静謐(せいひつ)にして高貴な作風と
独自の技法によって、近代陶芸作家の先駆者として
知られる板谷波山。
また、92年の人生を通じ、常におごらずつつましく
一筋の志を生き続けた板谷波山。」とあります。


私が板谷波山を知ったのは
NHKの何かの番組の途中から見知ったのですが、
やはりその作品が放つ気品に、心を奪われました。
いつかこの目で実際に見たいと思っていました
失敗しました。
ここは美術館ではなくて記念館。
作品は少なくても仕方ありません。

波山の作品を主に収蔵するのは
京都の泉谷博古館(せんおくはくこかん)や
茨城県筑西市の廣澤美術館です。

エッなに!同じ筑西市にあるんだー

早く気付いていればー
またしてもチョンボです。
新幹線に乗って、往復1万円ほどをかけて来たのにー



それではまた明日


今日も来てくださってありがとうございます。








錦織選手を初観戦

2024年10月02日 16時32分43秒 | ガーデニング



東京都美術館を出て
上野駅に向かって歩いていると・・・

やっぱり入ってしまった精養軒
上野の美術館にくるたびにここで
ランチをしてしまう。



これからオペラの上演があるのか・・・・
このホールのサイド側のテーブル席に
案内されました。


今まではコロナもあって人流はイマイチだったのか
今回の東京はどこも人で溢れていた。

12時前に行ったのに
精養軒はほぼ満席で、いつもと違う席に
案内されました。



動いた後はやはりこれでしょう!
冷製スープは微かに桃の香りがあって
美味しい!


ビーフカツレツに何かプラスの要素が欲しかったと
思うのは、ババだけかな?

後、珈琲が出て3,200円。
明らかに去年よりお高くなっている。
諸物価の高騰で仕方のないことかもしれませんが・・・

来年は別のお店を探そうと思うババでした。



上野駅から京浜東北線に乗って大井町駅で
りんかい線に乗り換えて有明コロシアムへ



デイセッションはGブロックの12列目
からの眺めです。観客の入りはまだ2分位かな?


オーストラリアのオコネルとアメリカのミケルセン
との戦い。

ナイトセッションでは



復活した日本のエース錦織選手とオーストラリアのトンプソン選手
との試合は、次々と観客席が埋まって行くのがわかる。









VIP席には元卓球の石川佳純さんがお友達と座っている。
錦織選手と同じマネージメント会社所属ということと
木下グループのコマーシャルをしていることも
観戦の理由ですね。



錦織選手あぶなげなくトンプソン選手を
ストレートで下しました。



しかしこのジャパンオープンテニスでは
シード選手がことごとく破れて
フリッツ選手、ルード選手、チチパス選手、
チィアフォ選手など、生で見られませんでした。


錦織選手の久し振りの東京での試合を
テニスファンが待ち望んでいました。
本当に首を長くして・・・・

観客全員が一体となって錦織選手を応援し
やっぱり会場でしか味わえない感動があり
よかったなあ。
去年は望月選手に感動をもらったし・・・

しかし明日の試合予定がまだ分からない。
明日のチケットはナイトセッションのみしか
持ってないのよ
帰りに当日チケット売り場に行ってみたら
明日のチケットはソウルドアウトとのこと
やっぱりね。
錦織選手が勝ち進んだものね。
自国の選手が出る出ないでは、チケットの
売上が全然違うようです。さらに
元世界ランク4位の錦織選手ですものね。


この日の夕食は、ホテル内の大戸屋


野菜不足を補いました。

テニス観戦のあとは、遅くなるし
疲れているので、何処かに美味しいものを・・・と
言う気にはなれません。


それではまた明日

今日も来てくださってありがとうございます。










田中一村 展

2024年10月01日 20時36分20秒 | 美術鑑賞



東京2日目は
11時から始まるデイセッションのまえに
東京都美術館

奄美の光 魂の絵画
田中一村 展 に行ってみました。


9時30分からの開館でしたが
行列ができていたので、早めに開館しました。








入場料2,000円のところ
65歳以上を証明する健康保険証を提示したら
1,500円になりました。

例によって写真撮影は禁止でしたので
作品は「もっと知りたい 田中一村」から
抜粋させて頂きました。

田中一村は明治41年(1908)年に
栃木県に生まれ、7歳の頃から南画を描き
天才ともてはやされました。



これが7歳の時の作品
蛤の質感が見事ですね。
たった7歳です。


田中一村の父は彫刻家だった。
上の絵も7歳の頃の作品で、この年に児童画展で
「天皇賞」を受賞したのを期に、父親から
米邨(べいそん)という雅号をもらう。

18歳、東京美術学校日本画科に入学
同級生に東山魁夷がいた。
だが2か月後に退学する。


一目見て、富岡鉄斎風?
実際に鉄斎には画賛や色使いの上で
大きな影響を受けたとされている。



この富貴図の色彩は伊藤若冲ぽいですね。

23歳の時に、南画と訣別する。



秋色
昭和13年に千葉寺(現千葉市中央区)に移り住む。
そこで自宅の裏山を描いた一作。
この絵を見た時、着物の柄にしたら素晴らしい
だろうなと思いました。
実際に帯に絵を描いたりもしています。



秋晴
この作品も私のお気に入り
枝にぶら下げられた白い大根が眩しい。

この頃、米邨から一村と改名する。



私のお気に入りのケイトウの作品では
ありませんが、ケイトウを描いた作品も好きです。

昭和33年に、一村は住み慣れた千葉から
新天地奄美に移住する。



枇榔樹の森

墨色の濃淡で表現したビロウの葉が
すだれのように重なって
そのテクニックに凄みをただ感じる。
隅に描かれた蝶も印象的。









海老と熱帯魚
70歳の古稀を前に描いた作品。


古稀を迎えることなく69歳で
心不全で亡くなる。


約300点の作品からなる
田中一村展

なかなか見ごたえのある作品群でした。

生前は脚光を浴びることなく
貧しく染色工として働きながら
絵を描く島暮らしであった。



それではまた明日


今日も来てくださってありがとうございます。