夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

平清盛

2012年05月06日 08時13分06秒 | 日記
”王家”とうい日本の歴史にない言葉が使われていると知った時点でこのドラマは意図的に見なくなった。日本人にとって皇室は絶対の存在であり、日本神界はこの断絶を断じて許さないだろう。理屈で考えても武力を持たない家系が途切れることなく今まで存続するはずがない。人徳によってそれが有り得ると言うなら中国の三皇五帝のどこかの子孫はどうなっているのか。人智では理解し難いある力がそこに働いていると思うにつけ脳裏をある予言が駆け巡る、曰く”杖ユダを離れず法(のり)を立つるものその足の間を離るることなくしてシロの来たる時にまで及ばん彼に諸々の民従ふべし”
歴史にない言葉を敢えて使う、その使用に異議を唱えないところに”絶対的なもの”を”相対化する”意図を私は観る。ある見えない世界からの必死の企みが関係者に憑依していると思う。聖書黙示録の神の怒りを買うだろう。日本の皇室には姓も苗字もない、”何処のだれそれ”ではない”絶対的な・・”なのである。一般庶民にも昔、苗字無しが普通と言う意見はある。例えば豊田の小四郎(小次郎だったかも)と言えば豊田という土地に住んでいる小四郎なる人物と言うことであるが彼には”平”と言う”姓”があった。平将門である。新皇と称して関東に独立王国を夢見たようだが失敗した。弓削道鏡も失敗した。平清盛も後白川法王と争ったが結局平家は散り々りになった。順徳上皇らの承久の変でも応撃に出向く武将が”もし上皇自ら先頭に立って来られたらどうすべきか?”と問うた時”その時は旗を降ろして降参せよ”と時の執権北条泰時(記憶怪しい)は答えたと言う。
皇室の最も重要な意義は聖書の創世記に遡る。『徳にも武力にも財力にも、凡そ人智で理解し難い力で青草人を統合する絶対的、冒しがたい存在がある』と言うことを暗に示している。皇室の向うに宇宙創成の神の存在と意思が透けて見える。
さて平清盛であるが、普通一般には悪人のように言われている。しかし彼は義理の母、池禅尼の願いを入れて源頼朝の命を救ったと言う。また平家物語の”祇王”の段に次のような物語がある。曰く、
清盛の情愛が白拍子の祇王から離れ、仏御前に移った。それを嘆く祇王が舞いながら歌う、『仏も昔は凡夫なり 我らもつひには仏なり いずれも仏性具せる身を へだつることこそ悲しけれ』・・・これを聞いていた清盛は思わず落涙したという。これらの記事を読んで彼は本来心優しい人であったのだなと、好きになった。人品と言う点で後代の織田信長、秀吉などとは雲泥の差と思う。或いはそういう時代であったのかもしれないが。
これほどの政治家が今居るだろうか??