渡辺京二氏著、平凡社出版の文庫本サイズの書籍である。これを読んで驚愕する。そこには勝手に思い描いていた”理想的な、凛とした、知的な、まあ、ありとあらゆる立派さを体現した日本人”は居ない。むしろ”ガッカリさせられる”日本人の姿がある。
ところが幕末から明治にかけてやってきた外国人はそのような日本、日本人を奇異なものを見る目と同時に自分たちが失ったものへの愛惜の情を以って描き出している。
そしてこの本の終章に到って、”それは失われる運命にあった”ように言及されている、と私は感じた。明治の開化期を経て日本人もまた”個”の確立を余儀なくされた、或いはそれこそが進歩、開化であるとの刷り込みを受けた。これに対してそれまでの日本人は”個”の意識が希薄であった、と本書は言う。当時の人々にあっては”独立した私が居る”のではない、”世界があってその中の風景の一部として自分が溶け込んでいる”のだ。随ってネコも犬も狐もタヌキもサルもカラスもフクロウも魑魅魍魎の類もごった混ぜに同じ地上屋敷に暮らしている仲間であった。
侍の暮らしも今日テレビで見る長谷川平蔵の屋敷のような立派で清潔なものではなく貧乏でタタミは破れ、タヌキなどが人間様をからかいに出てくる類のものであった様子が窺われる。
心を掻き毟られる思いがする。『個の確立』がそんなに立派なことであるのか?現代の文明はそれが当然の条件のように言う。しかしそれはもしかしたら西欧でのあの”宗教改革”、”清教徒革命”の悪しき遺産ではないないのか?ピューリタンの神経症強迫観念が狂的に清潔と言う幻想を追い求める中で派生した個の確立と言う幻想乃至は方便で以ってありとあらゆる事物事象を眩しい理知と教養と開化の光のなかに曝して眩惑されて宇宙の全体像を洞察する力を失い、資本主義だの民主主義だのはては金融資本主義、”市場原理”などと言う実にクダラナイ妄想を産み、それに酔いしれているのが現代ではないのか?
こうして人間の行為が本来あるべき位置・・・それは奉仕であったり愛であったりする無報酬の行為などであろうが・・・を失い全てを金銭に変換してありとあらゆることを”ジョブ”とする狡猾さに翻弄される。今日中東で起こっていることは、人々が多分アメリカを通してアメリカ文化の本質を、さらにその向うにピューリタンのいかがわしさを見ているからではないか。
そして、聖書もまたその終章である黙示録で”個の確立”を金科玉条とする文明への敵意を明らかにする。”覚醒”追求もまた最終的には”個の全体性への埋没”に行き着く。
ところが幕末から明治にかけてやってきた外国人はそのような日本、日本人を奇異なものを見る目と同時に自分たちが失ったものへの愛惜の情を以って描き出している。
そしてこの本の終章に到って、”それは失われる運命にあった”ように言及されている、と私は感じた。明治の開化期を経て日本人もまた”個”の確立を余儀なくされた、或いはそれこそが進歩、開化であるとの刷り込みを受けた。これに対してそれまでの日本人は”個”の意識が希薄であった、と本書は言う。当時の人々にあっては”独立した私が居る”のではない、”世界があってその中の風景の一部として自分が溶け込んでいる”のだ。随ってネコも犬も狐もタヌキもサルもカラスもフクロウも魑魅魍魎の類もごった混ぜに同じ地上屋敷に暮らしている仲間であった。
侍の暮らしも今日テレビで見る長谷川平蔵の屋敷のような立派で清潔なものではなく貧乏でタタミは破れ、タヌキなどが人間様をからかいに出てくる類のものであった様子が窺われる。
心を掻き毟られる思いがする。『個の確立』がそんなに立派なことであるのか?現代の文明はそれが当然の条件のように言う。しかしそれはもしかしたら西欧でのあの”宗教改革”、”清教徒革命”の悪しき遺産ではないないのか?ピューリタンの神経症強迫観念が狂的に清潔と言う幻想を追い求める中で派生した個の確立と言う幻想乃至は方便で以ってありとあらゆる事物事象を眩しい理知と教養と開化の光のなかに曝して眩惑されて宇宙の全体像を洞察する力を失い、資本主義だの民主主義だのはては金融資本主義、”市場原理”などと言う実にクダラナイ妄想を産み、それに酔いしれているのが現代ではないのか?
こうして人間の行為が本来あるべき位置・・・それは奉仕であったり愛であったりする無報酬の行為などであろうが・・・を失い全てを金銭に変換してありとあらゆることを”ジョブ”とする狡猾さに翻弄される。今日中東で起こっていることは、人々が多分アメリカを通してアメリカ文化の本質を、さらにその向うにピューリタンのいかがわしさを見ているからではないか。
そして、聖書もまたその終章である黙示録で”個の確立”を金科玉条とする文明への敵意を明らかにする。”覚醒”追求もまた最終的には”個の全体性への埋没”に行き着く。