政治経済については門外漢だから専門家には噴飯ものであるかもしれない。(が、内心、専門家ほど怪しいものもない、岡目八目ど素人のカンこそが的を衝いているとの自負なきにしもあらず)
”もの造り”、”輸出によって外貨獲得”などを標榜する会社、それらの会社と芋ずる式に繋がっている組織を仮に主権国家付属経済組織と呼ぶとしよう。非常にシンプルに言えばこれらは”地球と人間を食べている”のである。そして今や食い尽くす段階に到っている・・・だから世界同時不況などと言う現象が起きている。政治経済人がどんなに巧言を弄してもその現実は変わらない。降参して次なる手を考えなければならないのだがおそらく大は国家レベルから小は個人レベルまで既得権執着我欲独善唯我独尊心境に凝り固まっている、乃至はそのビョーキに罹患しているので死ぬまで治らない。しかし一方で言い知れぬ不安を持つ人々も居るだろう。その機微をルカ伝21章は”地にては国々の民なやみ、海と濤との鳴り響くによりてうろたえ、人々おそれ、かつ世界に来たらんとする事を思いて気を失わん・・・”と書いてある。
主権国家付属型我欲至上利潤追求個人尊厳一蹴経済組織が崩壊するとき我々の生きる道はあろうか?その時人々はコンクリートとガラスと鉄とプラスチックと電気の森の中でそれらのものを”衣食住”に変換する”魔法の紙”を失うのだ。聖書をじっと見ているとそれはどうやら突然やってくる。病気というものが、その病気特有の発作を繰り返しつつその頻度と重篤度が次第に極まり、ある日ある時突然閾値を迎えて心臓と呼吸が止まるように、”危ないんじゃないか、危ないんじゃないか、といいながら小康状態を迎え、と言うことを繰り返し、その間も”食べたり飲んだり娶ったり嫁いだり、”つまり普段の生活に追いまくられ、”平和である、安全である”と自らを言いくるめているそのどこかで絞首刑の足元の板が開く。
今まで連れ立って歩いた”強欲”と決断を持って別れ、砂上の楼閣ならぬ”金銭の楼閣”に早く”見切り”をつけていればいいだろう。つまり、お金が無い状況で生きるにはどうするかを考えておけばよい。足元に地面があって山に水や植物があって隣に人がいればそれは出来る、江戸時代はそうだった、いや昭和20年代まではそうだった。これを簡単に言えば”自給自足”の生き方である。だが、物事は”言うは易し行うは難し”だ。朝6時に出勤して夜遅くまで働かなければならない人々にそのようなことにまで挑戦する経済的時間的精神的余裕やエネルギなどない。
だからここが政治家の見識、良心、自負、先見等、彼ら特有の才能を要するところである(そんな才能はおろか責任感さえない政治関与者がたくさんいるね)。国家と言う単位で考えれば輸出産業は必要であろうが今やそれが国民の福祉と乖離し始めているところに問題がある。この溝を埋める方法をこそ考えなければならない。その一つがベーシック・インカムの考え方、もう一つが地方、地域単位での自給自足型経済だろうと考えている。以上、極めて荒削り直感論でしかないが”不幸?にしてリストラされた人々”は災い転じて福となす絶好の論理、機会と考えてもいいのではなかろうか?
”もの造り”、”輸出によって外貨獲得”などを標榜する会社、それらの会社と芋ずる式に繋がっている組織を仮に主権国家付属経済組織と呼ぶとしよう。非常にシンプルに言えばこれらは”地球と人間を食べている”のである。そして今や食い尽くす段階に到っている・・・だから世界同時不況などと言う現象が起きている。政治経済人がどんなに巧言を弄してもその現実は変わらない。降参して次なる手を考えなければならないのだがおそらく大は国家レベルから小は個人レベルまで既得権執着我欲独善唯我独尊心境に凝り固まっている、乃至はそのビョーキに罹患しているので死ぬまで治らない。しかし一方で言い知れぬ不安を持つ人々も居るだろう。その機微をルカ伝21章は”地にては国々の民なやみ、海と濤との鳴り響くによりてうろたえ、人々おそれ、かつ世界に来たらんとする事を思いて気を失わん・・・”と書いてある。
主権国家付属型我欲至上利潤追求個人尊厳一蹴経済組織が崩壊するとき我々の生きる道はあろうか?その時人々はコンクリートとガラスと鉄とプラスチックと電気の森の中でそれらのものを”衣食住”に変換する”魔法の紙”を失うのだ。聖書をじっと見ているとそれはどうやら突然やってくる。病気というものが、その病気特有の発作を繰り返しつつその頻度と重篤度が次第に極まり、ある日ある時突然閾値を迎えて心臓と呼吸が止まるように、”危ないんじゃないか、危ないんじゃないか、といいながら小康状態を迎え、と言うことを繰り返し、その間も”食べたり飲んだり娶ったり嫁いだり、”つまり普段の生活に追いまくられ、”平和である、安全である”と自らを言いくるめているそのどこかで絞首刑の足元の板が開く。
今まで連れ立って歩いた”強欲”と決断を持って別れ、砂上の楼閣ならぬ”金銭の楼閣”に早く”見切り”をつけていればいいだろう。つまり、お金が無い状況で生きるにはどうするかを考えておけばよい。足元に地面があって山に水や植物があって隣に人がいればそれは出来る、江戸時代はそうだった、いや昭和20年代まではそうだった。これを簡単に言えば”自給自足”の生き方である。だが、物事は”言うは易し行うは難し”だ。朝6時に出勤して夜遅くまで働かなければならない人々にそのようなことにまで挑戦する経済的時間的精神的余裕やエネルギなどない。
だからここが政治家の見識、良心、自負、先見等、彼ら特有の才能を要するところである(そんな才能はおろか責任感さえない政治関与者がたくさんいるね)。国家と言う単位で考えれば輸出産業は必要であろうが今やそれが国民の福祉と乖離し始めているところに問題がある。この溝を埋める方法をこそ考えなければならない。その一つがベーシック・インカムの考え方、もう一つが地方、地域単位での自給自足型経済だろうと考えている。以上、極めて荒削り直感論でしかないが”不幸?にしてリストラされた人々”は災い転じて福となす絶好の論理、機会と考えてもいいのではなかろうか?