今朝、資本主義経済ではやって行けない状況が到来する・・・多分もう到来しているんじゃないか?・・・時、政治は別の方式を採らざるを得ない、それが”野獣が淫婦を荒れすさばしめ・・”だろうと書いたが風呂に入っていて或いはこっちの方かもしれない、と思い浮かんだことがある。国家が借金を踏み倒す、ことがあるのかもしれない。そして銀行が潰れる、連鎖反応が起こる、と言うことが。
私は長くものみの塔に繋がれていて家族に癒しがたい被害を及ぼした。いまもそれを抱えている。幸運にも脱出できてしばらく教会に通った。リハビリみたいなものである。その後、ものみの塔で負った傷の痛みに苦しんで色々読んで少しずつではあるが知識が増した。その結果、外国人や知識人が”多神教”と見下す神道が実は最も本質を突いていると考えるようになった。神道に経典も教義もないが実は神道の背後に聖書が透けて見える。教会にも如何なる宗教組織にも行かないが神社には時々参詣する。自分の家のようでなんだか嬉しいのだ。契約の箱をエルサレムに運ぶ途上でダビデが嬉しさ余って行列の前で舞い踊った、との記事がサムエル後書かどこかにあったが神社参りをしながら聖書の神に参詣するのならどんなに嬉しかろうとふと考え、俺は変な奴だなとも思う。”主の宮の門守りとしての一日はこの世の千年にも優る”とは私にとっては本気なのだ。だからと言って”熱烈なクリスチャン”と普通人々が言うそういう類の臭気ふんぷんたるものではない。聖書は母の形見のものを持っていてたいていは寝転んで蚕食したり何か頭に浮かぶと何が書いてあるか探したりする。
新約聖書はイエスの事跡や言葉を4福音書でその冒頭に置いているが私思うにイエス・キリストが教えた天の王国とは”人は一体如何なる存在か”を説いた言わば覚醒を促すことばであった。しかし後年、パウロなる人物がそれをひどく誤解して安直な道徳論にしてしまった。ここにキリスト教会が錯誤に陥った最初の原因があると思う。
さらに、最近聖書に関わる多くの記事を読んでみるが例えばそれが伝聞であるからとか、或いは抜けている書があるとか、様々な言い方で参考資料程度に捉える向きもあるようだ。だが、私はそう思っていない。その程度なら散逸している。見えない力がこれを守護していると思う。人はここに書かれている多くに記事から全宇宙、全被造物の根本理念を洞察すべきである。そのために聖書は今も未来もある。
私は長くものみの塔に繋がれていて家族に癒しがたい被害を及ぼした。いまもそれを抱えている。幸運にも脱出できてしばらく教会に通った。リハビリみたいなものである。その後、ものみの塔で負った傷の痛みに苦しんで色々読んで少しずつではあるが知識が増した。その結果、外国人や知識人が”多神教”と見下す神道が実は最も本質を突いていると考えるようになった。神道に経典も教義もないが実は神道の背後に聖書が透けて見える。教会にも如何なる宗教組織にも行かないが神社には時々参詣する。自分の家のようでなんだか嬉しいのだ。契約の箱をエルサレムに運ぶ途上でダビデが嬉しさ余って行列の前で舞い踊った、との記事がサムエル後書かどこかにあったが神社参りをしながら聖書の神に参詣するのならどんなに嬉しかろうとふと考え、俺は変な奴だなとも思う。”主の宮の門守りとしての一日はこの世の千年にも優る”とは私にとっては本気なのだ。だからと言って”熱烈なクリスチャン”と普通人々が言うそういう類の臭気ふんぷんたるものではない。聖書は母の形見のものを持っていてたいていは寝転んで蚕食したり何か頭に浮かぶと何が書いてあるか探したりする。
新約聖書はイエスの事跡や言葉を4福音書でその冒頭に置いているが私思うにイエス・キリストが教えた天の王国とは”人は一体如何なる存在か”を説いた言わば覚醒を促すことばであった。しかし後年、パウロなる人物がそれをひどく誤解して安直な道徳論にしてしまった。ここにキリスト教会が錯誤に陥った最初の原因があると思う。
さらに、最近聖書に関わる多くの記事を読んでみるが例えばそれが伝聞であるからとか、或いは抜けている書があるとか、様々な言い方で参考資料程度に捉える向きもあるようだ。だが、私はそう思っていない。その程度なら散逸している。見えない力がこれを守護していると思う。人はここに書かれている多くに記事から全宇宙、全被造物の根本理念を洞察すべきである。そのために聖書は今も未来もある。