夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

黙示録17章16節;聖書を私はどう考えているか

2012年05月10日 22時01分38秒 | 日記
 今朝、資本主義経済ではやって行けない状況が到来する・・・多分もう到来しているんじゃないか?・・・時、政治は別の方式を採らざるを得ない、それが”野獣が淫婦を荒れすさばしめ・・”だろうと書いたが風呂に入っていて或いはこっちの方かもしれない、と思い浮かんだことがある。国家が借金を踏み倒す、ことがあるのかもしれない。そして銀行が潰れる、連鎖反応が起こる、と言うことが。
 私は長くものみの塔に繋がれていて家族に癒しがたい被害を及ぼした。いまもそれを抱えている。幸運にも脱出できてしばらく教会に通った。リハビリみたいなものである。その後、ものみの塔で負った傷の痛みに苦しんで色々読んで少しずつではあるが知識が増した。その結果、外国人や知識人が”多神教”と見下す神道が実は最も本質を突いていると考えるようになった。神道に経典も教義もないが実は神道の背後に聖書が透けて見える。教会にも如何なる宗教組織にも行かないが神社には時々参詣する。自分の家のようでなんだか嬉しいのだ。契約の箱をエルサレムに運ぶ途上でダビデが嬉しさ余って行列の前で舞い踊った、との記事がサムエル後書かどこかにあったが神社参りをしながら聖書の神に参詣するのならどんなに嬉しかろうとふと考え、俺は変な奴だなとも思う。”主の宮の門守りとしての一日はこの世の千年にも優る”とは私にとっては本気なのだ。だからと言って”熱烈なクリスチャン”と普通人々が言うそういう類の臭気ふんぷんたるものではない。聖書は母の形見のものを持っていてたいていは寝転んで蚕食したり何か頭に浮かぶと何が書いてあるか探したりする。
 新約聖書はイエスの事跡や言葉を4福音書でその冒頭に置いているが私思うにイエス・キリストが教えた天の王国とは”人は一体如何なる存在か”を説いた言わば覚醒を促すことばであった。しかし後年、パウロなる人物がそれをひどく誤解して安直な道徳論にしてしまった。ここにキリスト教会が錯誤に陥った最初の原因があると思う。
 さらに、最近聖書に関わる多くの記事を読んでみるが例えばそれが伝聞であるからとか、或いは抜けている書があるとか、様々な言い方で参考資料程度に捉える向きもあるようだ。だが、私はそう思っていない。その程度なら散逸している。見えない力がこれを守護していると思う。人はここに書かれている多くに記事から全宇宙、全被造物の根本理念を洞察すべきである。そのために聖書は今も未来もある。

素人の推量に過ぎない聖書解釈:知恵の樹から黙示録まで

2012年05月10日 08時18分14秒 | 日記
 創世紀を見るとエデンには生命の樹と知恵の樹があったようだ。創造の神は最初の人に”知恵の樹から実を採って食べないように、触ってもいけない、食べると死ぬ”と言った。だったらそんな樹木を生やさなければいいではないか、ここから既に聖書は神話であるよ、と言うのは洞察力のない言い分だ。これは禁忌の命令であるが多分祝福の言葉、”生めよ殖えよ地に満てよ地を従わせよ”と対になっている。
 ”日本の自然は美しい、それは管理された自然の美しさである”、と以前何かで読んだことがある。自然を管理するには”管理能力”が要る。予見し、計画し、実行し、検証する。そこに”物事の経過”・・・時間の概念が生まれる。管理能力が付与されていない猿、犬、猫などに地を任せていたならば九州方言で言うところの”やりっぱなし”で地球は荒れ放題になっただろう。つまり人間だけが刹那に生きない、瞬間の生き物ではないことになる。・・・ここから類推することは多分犬や猫に幸・不幸、苦痛の概念はない。彼らにあるのは”事実のみ”であろう。
つまり”管理能力”は”地を従わせる必要”の為に付与された能力であった。エデンに知恵の樹があったのはそのためである。しかしこれは言わば諸刃の剣に等しく”それを食べる”、つまり利己的な目的で使う時、人は死ぬものとなった。
 ”百聞は一見に如かず”と言う。エデンでアダムもエバも神の姿を見なかった、”声を聞いた”、つまりその意思を伝達されただけである。ここに現代まで引きずる人間の弱さ、それと表裏一体を成す”信仰”の問題がある。そこのところの機微をイエスさんは”誰でもこの子供たちのようでなけれな天の王国には入れない”と言ったわけである。エバは神を”眼で見た”わけではないのでその存在と言葉に”信仰”を持たなかった。だから唆すものに騙されて禁忌を犯した。
 カインは畑を耕す者に、アベルは羊を飼う者になった。神がカインの捧げ物、畑の作物を拒否された理由はここにある。”地を従わせる能力”を利己的に使った。その延長線に地や天候に固執する行為、さらにその延長上に地母神の妄想、天候を司取る存在の妄想、最終的に創造の神を忘れ、或いは無視して”独自の神”とその論理を打ち立てる行為、種子を保存するところから、蓄財の習慣、畑を独占したい欲望から略奪、闘争などが予見されたであろう。
 黙示録は終わりの世に於ける”信仰”の様々な姿を述べることに始まり、産業革命以降の世界のそれまでとは打って変わった異質のおぞましい様相を象徴的比ゆ的に示し、”野獣”が”淫婦”をなぶり殺し、それらの淫婦の親たる存在”大いなるバビロン”が突然破局に至る、その後、世界はハルマゲドンなる最終決着を迎える、という筋立てで書かれているようだ。”野獣”とは正義と愛を標榜し美辞麗句を以って人々を実は野獣のように扱う”人間の知恵による政治”である。”バビロン”とは新バビロニアのネブカドネザル王が王妃の為に築いた山を含む豪壮華麗壮大、神をも畏れぬ空中都市”である。多くの水の上に座っている大いなるバビロンとは従って現代の地上の人々の上に乗っている、同時に”野獣”の背にも乗る壮大なものにして”野獣”と姦淫を行うもの、つまり経済体制・・・資本主義経済だろう。それは女で表されている。地母神崇拝、農耕、蓄財、蓄財を資本にしてさらに財を増やす、そのような行為を容認したキリスト教世界、そこから出て来た資本主義などの概念がどっと脳裏に浮かびあがる。大いなるバビロンとは”大いなる都市”であるとも書かれている。面白いことに英語で首都はcapital、資本もまたcapitalである。偶然だろうか?、”野獣”が”淫婦”をなぶり殺す、政治が経済を破壊する、そういうことがあるだろうかとあちこちネット上記事を探して”ポスト資本主義”と言う記事を見つけた。資本主義の手法では最早国家を維持できない、となった場合、政治は資本主義及びそれを支える或いはそこから派生したあらゆる組織、手法を一掃して国家維持の為に必要な全く別の手法を模索することは考えられる。野獣であるからまさに”食らい尽くす”であろう。
 カインの捧げ物を拒否した創造の神は資本主義経済、さらに遡って”蓄財”を忌避されるようだ。それは”隠す行為”で、出エジプト記のコラの事例からも洞察できよう。人間は付与された管理能力を地を管理するためにのみ使うことが許され、個人的には”刹那に生きる”べきなのだろう。その時、その個人から”時間”はなくなる、人の観念から時間が失せると言うことは”私”も無くなる。これが言うところのアセンションではないかと思う。
 欧州の債務危機、アメリカが中東から撤退して極東に目を移し始めている様子、もはや資本主義経済の活動できる環境ではないのではないかと思わせるような昨今の経済状況などを想起すると黙示録やダニエル書の予見する世界情勢の大きな変化が意外と近いのではないかと考える。