夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

日本の若者は覇気がなくてつまらないだって?俺はそうは思わない、侮るなかれ!

2012年05月29日 16時22分30秒 | 日記
 先日息子がこんなことを言ってきた、曰く・・・
”逝きし世の面影という本の240ページに面白いことが書いてある。江戸時代に来た外国人が日本人の仕事の仕方を書いてあるんだが、イタリアか吉田戦車の漫画のようだ。日本人はまあそういった豊かな文化を持っていたと思うんだがね、仮に西洋を輸入しながらそういう文化が残っていれば、コンベア節を歌うのが一番うまいやつが工事長とかもっと楽しい文化になっていたんでなかろうか。今の日本はアメリカと北朝鮮を足して二で割ったような本来の日本でない文化になっている。”
 そこで問題の本を読んでみた。こりゃあおもしれぇ!!だ。カッテンディーケ言うには”日本人の悠長さと言ったら呆れるくらいだ”なんだそうだ。一方、海軍伝習生に言わせれば”なんでそんなことを急いでやる必要があるのか?”となるらしい。昔、筑豊の炭鉱の話を読んだことがあるが全員がシャカリキに働いていたわけでもない、中にはブラブラしてあちこちでおしゃべりをしている奴も居たらしい。それが結構面白くて誰も咎めない、結構”息抜き”に重宝がられたと言う。
 何を言わんとするか判りますか?いつの頃からか日本人は早朝から深夜まで間なしにアリの如くに働くことを以って美徳と勘違いするようになった。思うにそれは感違いではなく”刷り込まれた”のだ。この本を読んでいると今我々が思っている、確信している日本人とはずいぶん違った日本人が居る。明治維新によって坂の上の雲に注目して一心不乱に駆けた日本人は実は本当の日本人じゃなかった、ような気がしてくる。
 息子が”コンベヤ節”と言っているが、本来の日本人ならベルトコンベヤの前に並んで流れ作業をしながら、それこそ誰かが扇を持って音頭を取りながらコンベヤ節でも歌いながらやったのではないかと思う。
 スイスかどこかにカルヴィンとか言う肛門期固着型神経症の辛気臭い聖書坊主が居て”勤勉は美徳なり”とか”蓄財必ずしも不義ならず、それを資本に変換して云々”みたいなことを言ったらしいとか、で、後年産業革命とか言う事態に直面した中で目端の利いた欲張りがその教えを支えにカンパニーとか言うものを興し、言葉巧みに人類を奴隷化して蓄財に励んだ、世界はその宗教に罹患して今日の苦境があるとは思いませんか。
 ところがその患者様たちの殆どが自分が病気であることに気が着かず”本能的にこういう世界はおかしい”と感じて”凍り付いてしまった若者たち”を捉えて、やれ”覇気がない”だの”勤労意欲に欠ける”だの”働くもの食うべからず”だの”しようもないニート”だの”引きこもりもええ加減にせい”だの、まあ真っ黒に言いなさる、さても教養洞察のない!!
 まだ小学校に上がる前、台北から引き揚げて来た祖父母が当座の雨露しのぎに家を建てた。川内は大きな川があって洪水がある。そこで敷地に盛り土をしてかさ上げしたのだがその地ならしに木材でやぐらを組んでそこから滑車様のもので大きな丸太の錘をぶら下げそれを十人近い人々で引っ張って持ち上げてドスンと落とす、近所で手の開いた者や通りがかりの人などが面白がって加勢する、・・・アララン、コララン、ヤットコセェーーーー”と何のこっちゃか判らん掛け声を一人が音頭とって残りが合唱してのんびりとやっていた。一箇所終わるとまたやぐらを移動して・・・と、こんなことは今の日本でやっていたら皆怒り心頭、トサカに来るであろうけれどもそういうのが昔ながらの日本人だったのだ。
 今日、アメリカに留学する学生が少ない、だとか留学してもズンダレているだとか、要するに日本の若者はふがいないとの論調があるようだが私はふがいないのは狡賢い連中の資本主義経済とかの理論を刷り込まれて自ら食用人間に成り下がっていることに気が着いていない方の人々だと思う。こういう”現象”のみ見て日本人を日本の若者を侮るなかれ、そういう人はまたしても失礼だが教養がない、・・DNAが親から子に引き継がれることを知らない。
 元禄時代、”腰の刀が重くてたまらぬ”と嘯いた侍の子孫が幕末になって殺伐なチャンバラをやった、つい60年前まで戦争ばかりしていた。