夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

支離滅裂自滅型人格障害

2012年05月12日 22時45分51秒 | 日記
 表題のように妻は私を観察している。私は妻を”超現実派”と評価している。山の峰に雲が湧いてそれが森に影を落としながら静かに動いてゆく、”美しい、この静謐永遠なれ!”と心中思う。傍らに居る妻は”あそこにはワラビがたくさんありそうだ”と言う。ブチコワシだ。この妻を如何にして来るべき新しい世界に伴えるだろうか。
 サムエル前書、サムエル後書、列王記等々読むと信仰、別の言葉で言えば覚醒の如何に難しいかが判る。サウル王は不安に駆られて女霊媒師に運を問うことをした。ダビデ王は兵の数を数えた。いずれも自らの神に無条件絶対の信頼を置くことに不安を覚えたからに相違ない。人間の弱みであり、既にこの問題はエデンに於いて出ている。”知恵の実を食べる”行為によって創造の神に全幅の信を置くことに失敗している。
 聖書は”死人にもの問うこと”。”手の筋を読むこと”を禁じている。少しわき道にそれるが神がそれを禁じたということは実はそれが実質を備えている、つまり死んだ人と思うが実はこの現実世界と霊媒と称される存在を介してしか通信できないが意思を持つ別の姿で存在しているということを洞察させる。或いは手の筋には人生が書いてある。しかし、全宇宙をその創造者の意図に沿って運営するためには被造物が余計な詮索、割り込みをしてはまずいのである。余計な詮索、余計な割り込みをかけてうまく行かなくなっているのがこの世界ではないか。
 随って聖書存在とその言うところは煎じ詰めれば創造の神が存在し、人は無条件にその意に沿って生きなければ個人も世界も躓くということである。神と言う言葉を使うと辛気臭いと言うならば、全宇宙の”場の原理、場に働いている力学”、物理学の言葉で”フィールド”を理解して生きる、動く、選択する、でないと個人も世界も立ち行かない・・卑近な例で言えば重力の法則を無視すると酷いことになる”のと同様の事に遭遇するというわけである。
 その一例がサムエル後書にある。ダビデ王が契約の箱をエルサレムに運ぶ時担ぐ人々の手から箱が落ちそうになった。それに触れる資格を与えられていなかったウザなる人物が慌てて箱を支えようとしたとき”神は怒りを発して”と言う言い方を聖書はしているが”契約の箱に関わるある法則”が作用してウザは死んだ。
 終わりの日にイエス・キリストの再臨があり、全ての人々がその前に集められ、羊とヤギを分けるように人々が分けられると黙示録は言う。聖書に一貫して流れる、”神に対する無条件の信頼”なる観点からこれを考えると、或いは全ての人が”もうこの上は天に任すしかない”と思う事態に遭遇するのかもしれない。その時どういう選択をするのか?非常に意味深長な言葉が別のところにある。曰く”選ばれた人々のために”その日は短くされるのです。
 さて、こういう話を妻にしても大欠伸をするか居眠りするかだろう。困ったことだ。